アメリカで誕生し、日本へ輸出されたUNヘビー級王座


1970年10月23日、アメリカ・カリフォルニア州ロスサンゼルス・オリンピックオーデトリアムで、デール・ルイスが突如ユナイデットナショナルヘビー級王者(UNヘビー級)として登場し、メキシカンレスラーのパンデラ・ネグラ相手に防衛戦を行い、ルイスは敗れ、ネグラが2代目王者となった。これがUNヘビー級王者の誕生した瞬間だった。

UN王座は元々NWAの会員だったロサンゼルス「ハリウットスレスリング」から誕生したもので、前身だったWWAはNWA、AWA、WWFに次ぐ世界四大王者の一つにも挙げられ、力道山もかつては王者となったこともあったが、1968年にNWAに吸収されており、WWA世界王座に変わってNWAが公認したアメリカス・ヘビー級王座がハリウッドレスリングの代表的な王座となった。

1968年からメキシコからミル・マスカラスが進出すると、ロスマットもメキシカンの客層が増え、メキシカンレスラーもこぞって進出する。ロス地区のプロモーターだったマイク・ラベールはアメリカス王者だけでなく、メキシカン用の王座が必要と考えたのがUNヘビー級王座だった。

UN王座はアメリカ、カナダ、メキシコによって争われるタイトルとして誕生、ベルトはルイスからネグラ、ロス地区のトップヒールだったジョン・トロス、そしてメキシカンレスラーのレイ・メンドーサへと渡り、メンドーサによって長期政権が築かれていたが、UN王座に目をつけたのが日本プロレスだった。

1969年7月に日本プロレスはアントニオ猪木を番組のエースとしたテレビ中継「ワールドプロレスリング」をスタートさせて、猪木をジャイアント馬場に次ぐエースとして押し上げようとしていた。しかし、馬場がインターナショナルヘビー級王座を保持していたものの、猪木にはまだシングルのベルトがない、そこでロスに存在したUN王座に目をつけた。UN王座はベルトは提携していたロスマットを通じて日本プロレスに発注して作られた日本製で、日本プロレス側も王座の存在を知っていた。日本プロレスで外国人ブッカーだったミスター・モトを通じて猪木に挑戦することを通達、ラベールも猪木の挑戦を認めた。

ところが猪木が挑戦する前に王座がメンドーサからトロスへ渡る事態が起きる。メンドーサはサンフランシスコを主戦場にするレイ・スチーブンスが挑戦する予定だったが、日本プロレス側の要請でスチーブンスの挑戦をキャンセルさせ、メンドーサがトロスから奪取した際に、レフェリーの判定に問題があったとして、王座をトロスへ戻した。理由はメキシカンのメンドーサが猪木に敗れてしまうと、観客動員に響くと考えた措置で、ヒールのトロスが敗れるのであれば問題はないと考えたのだ。こうして猪木がトロスに挑み、2-1で猪木が勝って王座を奪取、ベルトは日本へと渡ったが、ロスマット的にはアメリカス王座があったことからUN王座が日本に渡ろうが問題はなかった。

UN王座を奪取した猪木はハーリー・レイス、ディック・マードック、フリッツ・フォン・エリック、フレッド・ブラッシー、ジャック・ブリスコ相手に防衛してきたが、昭和46年12月、猪木が日本プロレスから追放されると、王座も剥奪されてしまう。王座は一旦ロスマットに戻され、決定トーナメントを制したとしてキング・クローが王座を奪取するも、1972年にロスまで遠征に来た坂口征二がクローを破って王座を奪取、ベルトは再び日本へと渡る。

しかし、坂口も日本プロレスを退団することになると、王座はジョニー・バレンタインへと渡り、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)が王者となったが、日本プロレスは崩壊、それに伴い王座は一旦封印されるも、全日本プロレスが旧日本プロレスから管理権を取得、1976年8月26日、日大講堂でジャンボ鶴田とブリスコの間で王座決定戦が行われ、鶴田が勝利を収めて王座を奪取、鶴田用のベルトとしてPWFヘビー級王座に次ぐNo.2のベルトとして全日本に定着、鶴田はビル・ロビンソン、マードック、アブドーラ・ザ・ブッチャー、レイスと王座を明け渡したが、5年に渡って王者として君臨し続けた。

1981年にインターヘビー級王座も全日本の管理下に置かれることになると、全日本は鶴田を将来のエースに押し立てるべく、インター王座を狙わせることになり、UN王座は返上、空位となったUN王座を全日本でNo.3の存在となっていた天龍源一郎が狙うことになったが、天龍自身は「ジャンボのお下がりか」と乗り気でなかったという。

 王座決定戦も当初はテッド・デビアスとジェリー・ローラーの間で行われ、その勝者に天龍が挑戦する予定だったがローラーの来日が中止、ローラーの代わりに天龍とデビアスの間で王座決定戦が行われるも、天龍は敗れデビアスが新王者となり、ベルトは海外へ流出してしまった。

 UN王座はデビアスからマイケル・ヘイズ、そしてデビット・フォン・エリックへと渡り、デビットに天龍が挑戦することになったが、来日したデビットは急死してしまい王座はまた返上、天龍とリッキー・スティンボードとの間で急遽王座決定戦が行われ、天龍はグラウンドコブラで3カウントを奪いやっとUN王座を獲得した。

 以降UNベルトは天龍の代名詞的なタイトルとなり、1度は返上するもスタン・ハンセンに敗れるまで2年2ヶ月に渡り計10度も王座を防衛して権威を高め、三冠ベルトの一つとして組む込まれた。

 その後、UN王座が誕生したロスマットは、日本プロレス崩壊後は、猪木の新日本プロレスと提携、1970年後半に入ってからはチャボ・ゲレロをエースに押し立てたが、チャボが新日本とラベールとの間でギャラのトラブルが発生すると、ロスマットを離脱、エースを失ったロスマットは観客動員が低下、新日本がテコ入れのために小林邦昭やラッシャー木村、剛竜馬を派遣したが、凋落に歯止めがきかず、1982年に活動を停止する。

 三冠王座の一つとなったUNベルトは2013年まで使用されたが、ベルトが一本化されるために管理している馬場家に返還され、一本化された三冠ベルトの右の部分にUNベルトのバックルをモチーフとしたプレートが配置される形で残った。2019年2月19日のジャイアント馬場没後20年追善興行にはメインを飾った宮原健斗が馬場家の許可を貰って、腰に巻いて登場してファンにお披露目した。

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