新日本vsIGF、IWGP非公認ヘビー級王者カート・アングル争奪戦!

4月8日 アメリカ・ニュージャージー州で開催される「レッスルマニア35」でバロン・コービン相手に引退試合を行い引退したが、かつてはアングルも新日本非公認のIWGPヘビー級王者で、暗黒時代脱却を目指していた新日本プロレスにとって欠かせない存在だった。

アングルはレスリングでアトランタオリンピック金メダルメダリストという実績を掲げて1988年WWEと契約、WWE王座を始めとして数々をタイトルも獲得して一躍スーパースター的存在へと登りつめて行った。2006年8月になると 個人的な問題や健康状態を理由に解雇され、MMA転向かと思われていたが、翌月の9月にはTNAに電撃移籍、TNAはスコット・スタイナーを降してTNA世界ヘビー級王座を獲得するなど、TNAでも一躍トップ選手となった。

 アングルは2007年に新日本プロレスに来日する。 アングルの新日本参戦を強力に推していたのは、社長だったサイモン・ケリー氏で、当時の新日本は2005年にオーナーだった猪木はユークスに保有している全株式を売却、ユークスの子会社となっていたが、経営改善を推進するユークス側と、ユークスを単なる金ヅルにしか考えておらず、自分の意向をどうしても押し通して金を引き出そうとする猪木側と対立し合っており、サイモン氏は猪木の娘婿という立場もあって猪木側に立っていたため、ドンブリ勘定だった経営の改善を図るユークス体制の中で完全に浮いた存在となり、社長としての立場を失いつつあった。

 サイモン氏は社長として2007年の1月4日の東京ドームにアングルを参戦させることを提案する。サイモン氏はWWEのトップ選手だったブロック・レスナーを観客動員が激減していく新日本の起爆剤として招きエースとしてプッシュしていたものの、レスナーエース路線がファンから支持されないどころか、2006年の7月に札幌で行われるはずだった棚橋弘至との防衛戦をレスナーがドタキャンしてしまったことで、サイモン氏もレスナーの首を切らざる得ない状況となってしまい、レスナーエース路線は頓挫してしまう。

 それでもサイモン氏はWWEのトップスターを新日本のエースに据えようとする考えは諦めていなかったが ユークス体制は金のかかる大物外国人選手よりも、新王者となった棚橋を新しいエースとしてプッシュすることを決めていた。この頃の棚橋はまだまだファンからも認知されていなかったが将来性大スターへとなる可能性を秘めていたことから、時間をかけてエースとして育て上げることを選択したのだ。

 結局1月4日の東京ドーム大会はユークス側の意向もあって武藤敬司体制の全日本プロレスとの合同興行という形で開催されることになり、アングル参戦は先送りにされ、自身の考えを受け入れてもらえなかったサイモン氏はドーム大会から完全に蚊帳の外に置かれしまい、その影響もあってアントニオ猪木もプロレスから撤退を表明しドームには顔を出さなかった。

 やっとアングルの来日が実現したのは2月28日の両国国技館大会で、この時もユークス体制は猛反対したが、猪木の後押しを受けたサイモン氏は反対を押し切ってアングルを来日のを実現させ、アングルは永田裕志と組んでジャイアント・バーナード、トラヴィス・トムコ組と対戦した、アングルの参戦は猪木の意向であることは知れ渡っており、ファンは「猪木とサイモンはレスナーの代わりにアングルを新日本のエースにして、新日本を牛耳り続けるのでは」と危惧を抱いた。

 両国大会が終わって1週間後の3月8日、猪木が新日本を飛び出して新団体設立へと動き、サイモン氏も任期途中で社長を投げ出して猪木に追随した。サイモン氏は辞任にあたってユークス側の棚橋路線を批判するように「新日本のスタンスは、野球で言えばホームランか三振だった。 でも今はフォアボールとかバントで点を取りにいく。 苦しいのでそっちが合ってるかもしれないが、 ボクは社長なのでホームランを狙っていきたかった。」と言い放って去っていったが、新日本は6月の株主総会をもってサイモン氏の社長解任、副社長だった菅林直樹氏が新社長就任が内定したことから、サイモン氏が新日本を去った理由はしてみれば舅である猪木に追随するだけでは理由ではなく、社長から解任が決まっている新日本にこれ以上留まる意味はない、経営改善と経費削減を重視して予算を出さないユークスより、スポンサー集めの上手い猪木の下なら自分の手腕が発揮できると考えた上での辞任だった。

 6月28日はIGFの旗揚げ戦が行われ、新日本を牽制するためにレスナーが持ち逃げした三代目IWGP王座を使ってアングルvsレスナーを実現、アングルが勝って3代目ベルトはアングルの手に渡った。このときのIWGPヘビー級王座は3代目ベルトがレスナーに持ち逃げされたことによって、2代目ベルトである橋本ベルトを代用してきたが、IWGP王座戦線も新日本の暗黒期を象徴するようにベルトの権威は低下していた。そこでIGFが”レスナーを破ったアングルこそ真のIWGP王者だ”として3代目IWGPベルトを使って新日本に対して牽制してきたのだ。

 本題はここからでアングルに3代目IWGPベルトが渡ったことで、新日本もアメリカマットでは顔が広いタイガー服部レフェリーを通じてTNAと交渉を開始した。IGFは猪木をTNAマットに登場させることで提携を結んでいることを強調していたが、実際はまだ本格的な提携は結んでおらず、アングルのIGF参戦も長期での契約ではなく単発契約で複数回での契約を結んでいなかった。新日本はアングルのIGFとの契約内容を確認すると、IGFとは12月の有明大会までの契約となっており、またTNAも12月の有明大会にはロウ・キー、AJスタイルズなど選手は派遣するが、それだけの契約でIGFとは実際提携を結んでいないことも確認したため、新日本はアングルに対して単発ではなく複数回にわたって参戦の契約を結び、TNAに対しても本格提携を結んだ。そして3代目IWGPベルトもことも話し合われ、アングルとの試合を通じてベルトを渡すことで合意に達した。

 新日本がTNAと本格提携を結び、3代目ベルトも新日本に戻されることをを受けて、IGFはアングルvsジョシュ・バーネット戦による3代目IWGP選手権を開催することを画策する。3代目ベルトが新日本に渡ってしまえば新日本を攻撃する名目も失ってしまうことから、その前にジョシュを使ってベルトの回収を目論み、3代目ベルトをかけたアングルvs永田を潰そうとしていたのかもしれない。

 その一方で新日本側もドーム大会に参戦するアングルをIGFと共有できないかと考えて、IGF側と水面下で交渉し12・20有明には永田が来場してTV解説を務める代わりに、アングルが3代目ベルトをIGF有明大会には持参しないこと、永田とカートに何らかの絡みがあってもIGFが容認することを提示する。IGF側の返答は意外にも新日本側の条件を飲んで合意達し、これでアングルvsジョシュは消滅、アングルは3代目ベルトを持参しないままIGFに参戦してケンドー・カシンと対戦し、永田も来場してTV中継でゲスト解説を務めるが正式決定した。なぜIGF側が新日本の条件を飲んだのかはわからないが、おそらく新日本がIGF側と交渉した際に、アングルとは長期に渡って契約を結んでいないどころか、TNAと実際は提携は結んでいなかったことを新日本側に指摘されてしまい、IGFも参戦するレスラーも猪木だけでなくIGFへのリスペクトをマスコミに向けて発信してしまった手前、それが違うことがわかると団体としての面目は丸つぶれになると考えて、敢えて新日本側の条件を飲んだではないだろうか?新日本としては永田を来場させることで、IGF側のビックマッチに華を添えさせたが、IGFとしては見下していた新日本にしてやられることは、この上ない屈辱だったに違いない。

 2008年の新日本東京ドームで行われた3代目ベルトをかけたアングルvs永田戦はアングルが勝利を収め、同日に棚橋弘至を破ってIWGPヘビー級王者となった中邑真輔と2月17日両国で統一戦が行われることが発表されるも、その直後にIGFも前日の16日行われるIGF有明大会にアングルの参戦を発表し、中邑vsアングルの統一戦を妨害するために3代目ベルトをかけた防衛戦を計画する。IGF側としても永田が敗れたことをチャンスにし、アングルを招聘して再び3代目ベルトを回収しようと目論んだのだろうが、アングルは条件面を優先して新日本への参戦を選んだ。だが新日本に屈辱を味合わされたIGFもこのまま黙って引き下がるわけにはいかなかった。

 2月16日IGF有明コロシアム大会は猪木の誕生日を控えていたこともあって、ビンス・マクマホンをからも祝福のビデオメッセージが贈られ、スタン・ハンセンや海賊男に扮したボブ・オートンJrも祝福に駆けつけるなど華やかな雰囲気となったが、その直後に行われた第5試合で事件が起こった。アレクサンダー大塚の相手はXとされていたが、サイモン氏の呼びかけてIWGPタッグ王者であるトラヴィス・トムコがトムコのリングネームで登場、アレクをチキンウイングアームロックで降すと、試合後にサイモン氏の通訳で「新日本ではなく、イチバンの団体、IGFでやっていくつもりだ!」を表明し、持参していたIWGPタッグベルトを放り投げてIGF参戦の意思表示をする。バックステージでもトムコは「新日本のフロントは嘘つき」、と新日本側を非難して両国大会はボイコットを示唆するが、全てサイモン氏が書いたシナリオだったことは明白だった。

トムコはジャイアント・バーナードとのタッグで新日本にレギュラー参戦しIWGPタッグ王座を保持していたと同時にTNAにもレギュラー参戦し、AJと組んでTNAタッグ王者を保持していた。だがトムコは新日本が予定していた来日スケジュールより、TNAとのスケジュールを優先し始めていたため、その度に来日が遅れることが多くなり、その度に新日本は予定していたカードを変更することが続いていた。このことを受けて新日本はトムコに契約内容の変更を求めていたが、トムコはトップ外国人のバーナードよりも高い待遇を求めていた。

 まだ新日本との契約が残っているトムコが勝手にIGFのリングに上がったことを受けて、服部レフェリーがすぐ動き、潜伏中のトムコを捕まえ「トムコは新日本のビザで日本に来ている。それなのに無許可でIGFに出るのは罪、新日本の契約があるにも関わらず両国に出ないというのはプロとして許されない行為」と新日本両国大会には予定通りに出場するように説得、トムコも両国には出ることを約束して、タッグベルトもIGFに流出する最悪の事態は免れた。おそらくトムコ自身も今なら新日本は許してくれると思っていたのではないだろうか・・・、
 しかし新日本は契約期間中に許可なく他団体のリングに出たトムコを決して許さず、会場入りしたトムコに契約解除を言い渡し、タッグ選手権も予定通りに行われたが、試合中にも関わらず、館内のファンは裏切ったトムコに大ブーイングを浴びせた。そして真壁刀義&矢野通組に敗れてベルトを明け渡し、アングルも中邑との統一戦に敗れ、3代目ベルトも新日本が無事回収して封印となったが、新日本はトムコを引き抜いたIGFに抗議も、 IGFは「あれはあくまでオーディションなので問題はない」と反論したため、これを受けて新日本も「今後IGFとは絶縁します」と絶縁宣言し、トムコも離日する際に「新日のフロントの連中はうそつきだ。オレと契約をすると口では言いながら、結局最後までしなかった。連中にはレスラーをリスペクトする気持ちが全然ないんだ」と言い放って去っていったが、おそらくだがこれもサイモン氏が用意したセリフだろう。この後にトムコは自身に対して報いが来ることは予期していただろうか…

 その後トムコはIGFのレギュラーとして参戦し、同時にTNAにも出場していたが、4月のIGF大阪大会に参戦して帰国後するとTNA側がトムコに対して謹慎処分を言い渡す。IGF大阪大会の同日にTNAのPPV前夜祭のイベントがあり、タッグ王者だったトムコはどうしても参加しなければならなかったのだが、IGF参戦を優先したため、イベントに出席することをキャンセルしてしまったのだ。
 これを受けてTNAはAJスタイルズと組んで保持していたタッグ王座は剥奪、トムコは謹慎で試合から干され、謹慎は解除され復帰はするものの前座へと降格、またIGFへの参戦も8月をもってなくなってしまう。IGFがトムコを二度とオファーをしなかったのは、 TNAでの立場も悪くなったことを受けて、トムコには利用価値がなくなったと判断したからかもしれない。
 トムコは古巣だったWWEへ戻るもすぐ解雇され、再びTNAへ戻るも長続きせず、表舞台から姿を消したが、3年後の2011年10月11日、トムコがフロリダで薬局で店員を脅し、鎮痛剤200錠を強奪。レストランのトイレに約40分間立てこもり、約170錠を服用し病院に搬送され治療後に窃盗罪で逮捕されたことが報じられた。このことは日本にも伝わったが、新日本を裏切った報いが来たと思わざる得なかった。トムコは有罪判決を受けて収監され、出所後に再びレスラー活動を再開も、現在は近況を聞くことはない。

  アングルはWWE殿堂入りをしたことがきっかけとなってWWEに復帰、RAWのGMとして活躍し、時折りリングに上がって試合をするなど健在ぶりを見せつけたが、今年のレッスルマニアをもって惜しまれつつ引退した。アングルのIWGP王者だったことは、新日本は未だ非公認だがアングルはIWGP王座を持っていた事実だけはしっかりと残っている。

 

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