ロードウォリアーズを日本に紹介した番組「世界のプロレス」


1984年10月20日、土曜8時からテレビ東京系列で「世界のプロレス」が放送開始された。

 テレビ東京の前会社名である東京12チャンネルは1981年3月まで国際プロレスを中継していたが、視聴率が低迷して打ち切りとなっていた。当時の東京12チャンネルは全国にネットワークを形勢しておらず、あくまで東京のローカル局に過ぎず、国際プロレス中継だけでなく他の番組コンテツンツも地方UHF局に買ってもらっていたのが現状だった。1982年にテレビ大阪が開局したことで念願だった一部地域を除いて全国ネットワークが形成され、国際プロレス中継を後押ししていた白石剛達スポーツ局長もスポーツの目玉番組が必要と考えていた。そこで企画されたのが東京12チャンネル時代にルー・テーズやアントニオ・ロッカ、WWWFの試合を紹介した「プロレスアワー」の現代版である「世界のプロレス」だった。

 白石氏は実況した杉浦滋男、土居壮アナ、解説には東京スポーツの門馬忠雄氏、ナレーションには現在フジテレビの「とくダネ!」の司会をしている小倉智昭氏をキャスティングする。杉浦氏と門馬氏はかつて国際プロレス中継で実況と解説を務めており、門馬氏も白石氏から依頼されたときは「国際プロレスの仕事の延長線上である」と解釈して快諾したという。

 製作会社は週刊ゴングのライターである吉澤氏のアドバイスを受け海外各団体の試合映像を買い付けに奔走したが、WWFにはテレビ朝日が放送している新日本プロレスと提携していたため断られたものの、ジム・クロケットのNWA、フリッツ・フォン・エリックのWCCW、バーン・ガニアのAWA、ビル・ワットのUSWA、プエル・トリコのカルロス・コロン、テネシーのジェリー・ローラーとの取引が成立し試合映像の買い付けに成功、当時のアメリカマットはWWFの全米侵攻により、NWAとAWAが共闘して「プロレスリングUSA」なる共同事業を立ち上げ、WWFに徹底抗戦をしていた。

 放送枠は土曜8時となったが、この枠はかつて国際プロレスが最後にレギュラー放送されていた枠で、当時の裏番組はフジテレビが「おれたちひょうきん族」TBSが「8時だよ!全員集合」、テレビ朝日が「暴れん坊将軍」が放送された激戦区だった。強力な裏番組に対抗するためには視聴率を稼ぐスターが必要と考えると、吉澤氏が紹介したのは当時AWAで活躍していたホーク・ウォリアー、アニマル・ウォリアーのザ・ロード・ウォリアーズだった。 

 ウォリアーズは1983年に結成されジョージア地区ではNWAナショナル・タッグ王座を通算3回獲得し、「世界のプロレス」が放送される頃にはAWAに転戦していた。放送第1回目は1984年5月テキサスで行われた当時日本で大人気を博していたザ・グレート・カブキvsまだ未来日だったジャイアント・キマラ戦からスタート、リック・フレアーvsケリー・フォン・エリックのNWA世界ヘビー級選手権も放送されたが、大きなインパクトを残したのはウォリアーズで無名の相手チームの攻撃を平然と受け流して、リフトアップで高い所から叩きつけ、最後は相手をベアハッグの状態で捕らえてからラリアットを浴びせて秒殺勝利、自分もいつも見ていた「おれたちひょうきん族」ではなく「世界のプロレス」を見ていたが、ウォリアーズの圧倒的な強さに大きな衝撃を受けた。

 視聴率は8%台も強力な裏番組相手に大健闘の数字を残し、ウォリアーズも「世界のプロレス」の看板スターとなり、その後日本では解散していたスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビの試合や未来日のマグナムTAの試合も紹介され、「世界のプロレス」の放送にあたっては、日本プロレスで放送されていた全日本プロレス、テレビ朝日で放送されていた新日本プロレスからもクレームが懸念されていたが、未知なる強豪を紹介する番組としても役目を果たしていたことからクレームもなかったものの、1985年9月フロリダ州タンバでハンセン&ハーリー・レイスvsウォリアーズのドリームマッチを現地収録する際に、10月にウォリアーズが全日本に参戦が決まっていたこともあって、ウォリアーズのマネージャーであるポール・エラリングから「(収録にあたって)ババの許可を得ているか」と問われると、全日本に事前確認をしていなかったこともあってスタッフは”全日本からNGが来れば収録は中止となる”と大慌てとなるが、現地で解説することになっていた門馬氏からレイスに相談するように進言され、レイスから全日本に連絡取ってもらって了解を得ることで収録がOKとなるも、それだけ新日本と全日本には神経を使わなければならなかった。

 「世界のプロレス」で人気が急上昇したウォリアーズは新日本との争奪戦の末、AWAと繋がりの深い全日本に初来日を果たし、日本でも旋風を巻き起こした。「世界のプロレス」は1985年3月に一旦終了し、1986年4月に月曜8時の枠で再開され、この際には新日本プロレスとの提携が解消されたのもあって、WWFの試合放送も解禁となり、「レッスルマニア2」が3週にわたって放送、火曜8時の枠に移行してからは月曜の特番枠に変わり、この際には第1次UWFの試合も放送された。

 ウォリアーズはWCWへ移り、1989年まで全日本に参戦、ジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビを破ってインターナショナルタッグ王座を奪取、1年間に渡って保持した。

 新日本を経てWWFへと移り「リージョン・オブ・ドゥーム」とチーム名を改めるが、アニマルが負傷欠場したため解散、新日本に参戦したホークは佐々木健介と組んでヘル・レイザーズを結成、アニマルも後を追うように新日本へ参戦してウォリーズを再結成した。

 再結成したウォリアーズはWWF、WCWと参戦したが、バトラーツに参戦したあたりからホークの体調不良が目立ち始め、2003年10月9日にホークは引越しの最中に「疲れた」と言ってベットで寝るも、そのまま起き上がることはなく、静かにこの世を去り、ウォリアーズはホークの死去で事実上解散となった。

現在ではCSやネットなどで海外の試合が見れるようになったが、「世界のプロレス」は海外のプロレスを知る唯一の番組であり、ウォリアーズは土曜8時の主役の一人だった。

(参考資料 日本プロレス事件史Vol.2 日本スポーツ出版社「あの話、書かせて貰いますⅡ」)

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