友情タッグの崩壊…天山と飯塚の血で血を争う抗争はここから始まった!


2006年7月17日、月寒グリーンドーム大会で行われる予定だったIWGPヘビー級選手権が王者のブロック・レスナーがドタキャンする事態が起き、また藤波辰爾も辞表提出、西村修と田中秀和リングアナが設立した無我ワールドプロレスリングに参加、ユークスの経営再建に反発する猪木が格闘技イベント「イノキゲノム」を推進するなど、ユークス体制になっても新日本プロレスはまだまだ混乱続きだった。

この頃の蝶野正洋は左肘の手術を受けて欠場していたが、サイモン社長が月寒にも来場せず、説明しなかったことでの責任を追及しており、G1 CLIMAXの両国2連戦が行われる8月12、13日からの復帰を宣言、蝶野はこの年から新日本プロレスに参戦するようになったミラノ・コレクションAT、高山善廣と組んで新ユニット結成へと動き出していた

この流れに反発したのは天山広吉だった。小島聡を破りG1 CLIMAX2006に優勝していたが、蝶野の独断で高山やミラノと組んだことで反発しており、蝶天タッグの解消を示唆すると、これを受けて蝶野は天山との一騎打ちを要求し、9月24日の大阪でのシングル戦が決定、サイモン社長に対してもこれまでの責任を追及するため、来場を要求するが。天山とのタッグである蝶天タッグで保持していたIWGPタッグ王座を返上するかどうか明言しなかった。これを受けてサイモン社長は蝶天タッグからIWGPタッグ王座を剥奪することを決定し、24日大阪で蝶野自らベルトを返上するように逆要求する。

24日の大阪大会当日、蝶野vs天山の試合前にサイモン社長は二人に対してベルトを返還するように要求するが、蝶野がサイモン社長を襲撃、ボディーを殴りつけ、マウントを奪ってYシャツを脱がそうとする。

蝶野によって場外へ投げ捨てられたサイモン氏はバックステージへ退散、試合は天山が蝶野を流血に追いやり、最後はTTDから天山プレスで3カウントを奪い勝利を収めるが、天山はなお蝶野を痛めつけるため、肉体改造でアメリカ旧ロス道場へ出向していた中邑真輔が蝶野の救出に駆けつけ、蝶野と結託を果たす。

天山も対抗してフリーとして参戦していた越中詩郎と結託、これに越中とタッグを組んでいた真壁刀義、越中&真壁と抗争していた石井智宏、矢野通、本間朋晃が合流することで、新ユニットGBHを結成した。

蝶野の襲撃を受けたサイモン社長も、自らリングに立って本体やGBHと共に蝶野と対戦する意志をアピールする。おそらくGBHの結成目的はサイモン社長親衛隊ユニットとして結成されたのかもしれない。

ところが2007年1月4日の東京ドーム大会が武藤敬司体制の全日本プロレスの協力を得て開催されることが発表されると、サイモン社長vs蝶野の路線は強制終了とされてしまった。サイモン社長は自身がWWE好きだったように、自分がビンス・マクマホンのような悪の社長になって、反抗する蝶野や中邑と抗争すれば、新日本プロレスは盛り返すことが出来ると考えたと思う。だが脱猪木を図る新体制にしてみれば、サイモン社長の露出を増やすことは、猪木を引っ張り出すことに繋がりかねないと考えたのか、こうしてサイモン社長は辞任まで表舞台に立つことはできなくなり、GBHだけは残されてしまった。

GBHはその後もユニットとして活動を続けるが、2007年に入ると天山は前年末から痛めていた首の負傷が悪化し始め、この年に開催されたG1 CLIMAXでも負け越しで不振に終わるだけでなく、「リングが怖い」と弱音を吐くようになる。またGBHも蝶野の勧誘を受けて越中が離脱、代わりに邪道、外道が加わるも、天山は10月8日の両国大会で凱旋帰国したばかりの後藤洋央紀の新技である牛殺しを受けて首に大ダメージを負って病院送りにされ、長期欠場を余儀なくされる。

天山不在の間のGBHは真壁が取り仕切ることになったが、真壁は新日本プロレス出場の傍ら金村キンタローのアパッチプロレス軍に外敵として参戦するようになってからヒールとして開眼し始め、4月の後楽園では中邑を破ったことでファンから支持を集め、矢野通とのコンビでプロレス大賞最優秀タッグチーム賞を受賞するなど活躍するなど、GBHも天山不在の間に真壁のユニットへと変わりはじめていた。

そして2008年2月17日両国大会から天山が復帰して邪道、外道、石井と組んで長州力、蝶野、越中、スーパー・ストロングマシンらレジェンドと対戦するが、石井が蝶野に敗れた後で天山が味方の三人に襲撃されるクーデターが勃発、袋叩きにされた天山はGBHから追放されてしまうが、袋叩きにされる天山を救ったのは飯塚だった。だが真壁らに裏切られたことで人間不信に陥っていた天山は相手にせず一人で退場していった。

 天山は3月9日愛知では石井、13日の和歌山では矢野と対戦するが、GBHに再三襲撃を受ける天山を飯塚は身を挺してかばい救出、最初は飯塚の行動に天山も「ウザイ」と突き放していたが、13日の姫路で飯塚が邪道と対戦すると、飯塚を襲撃するGBHに今度は天山が救出に駆けつけ身を挺してかばったことで信頼関係が生まれ、遂に二人は握手をかわし、タッグ結成となった。

 3月17日の鳥取から二人はタッグを組むとGBH相手に連勝、天山がイス攻撃の窮地に立たされると飯塚は身を挺してかばい、3月23日の尼崎では誕生日を迎えた天山に飯塚はバースデーケーキをプレゼントするだけでなく、バースデーソングまで唄うなど、二人の友情は深まり、3月30日後楽園ではIWGPタッグ王座を保持していた真壁&矢野からノンタイトルながらも勝利を収めたことで、4月27日の大阪府立体育会館大会で王座をかけて対戦となった。

大阪大会は自分も観戦、2月17日の両国でカート・アングルを破り三代目IWGPベルト回収に成功したIWGPヘビー級王者の中邑真輔に全日本プロレスの所属だった武藤敬司、IWGPジュニアヘビー級王者だった井上亘には提携していたTNAからクリストファー・ダニエルズが挑戦する3大タイトル戦が組まれた。2008年ごろになると猪木は既にサイモン・ケリー氏と共にIGFを旗揚げするために離脱しており、ユークス体制もやっと落ち着きかけたところだった。

試合は天山と真壁でスタート、真壁は掟破りのモンゴリアンチョップからナックルを浴びせるが、天山は逆水平の連打や頭突きで反撃、ショルダータックル合戦からエルボー合戦も、天山はモンゴリアンチョップからマウンテンチョップで反撃、矢野がカットに入ると飯塚が入るが返り討ちれるも、真壁&矢野が天山&飯塚を鉢合わせにしようとするが、天山&飯塚が切り返して、逆に真壁&矢野を鉢合わせにして、天山はラリアット、飯塚はドロップキックを放つ。
これで一気に流れを掴んだ挑戦者組は天山がマウンテンボム、飯塚がショルダースルーを決め、天山が一気に真壁を攻め立てるが、場外の矢野に足をすくわれると真壁が反撃、カットに入った飯塚にイスで一撃を狙うが、天山が身を挺してかばうも、飯塚は場外へ排除される。
場外で矢野の鉄柱攻撃、真壁のチェーン攻撃を受けた天山は流血、リングに戻っても王者組は勢いの止まった天山に集中攻撃を浴びせ、真壁が逆片エビ固めで捕らえると、たまりかねた飯塚はカットに入り、天山はトレイン攻撃を狙う真壁組にラリアットで反撃、ここで飯塚に交代…のはずだった。

飯塚は突然リングから降り、交代に応じないハプニングが発生する。飯塚のまさかの行動に館内は戸惑いの声が出るだけでなく、本隊のセコンド勢も飯塚にリングに戻るように指示するが、飯塚はリングサイドをうろうろするだけで戦列復帰しようとしない。それでも天山は孤軍奮闘して真壁をTTDで突き刺すが、飯塚がリングに入り背後から天山を魔性のスリーパーで捕らえてグロッキーに追いやると、そこで矢野が天山を鬼殺しから真壁がキングコングニーで3カウントを奪い王座を防衛、試合後も飯塚にストンピングを浴びせ制裁するなどGBH入りをアピールした。

生で見ていた自分もまさかの結末に驚き、技巧派と言われた飯塚の突然のヒール転向に戸惑うしかなかった。井上はダニエルズからジュニア王座を防衛するが、メインでは中邑が武藤に敗れIWGPヘビー級王座から転落するなど、大阪大会はバットエンドの幕切れなれど、バットエンドもまさしくプロレスであると感じさせた大会でもあった。

 飯塚は頭をスキンヘッドにして顎鬚を生やし、ヒールへと変貌を遂げ、天山だけでなく永田裕志ともチェーンデスマッチで対戦するなど、血で血を争う抗争を繰り広げた。

 飯塚はその後、真壁と袂をわかって中邑、矢野と共にCHAOSを結成、今度は矢野をも裏切って鈴木軍入りをしたが、ヒールに転向してから10年以上、すっかりヒールが板についてしまった感じもするが、ヒールこそが飯塚の最もやりたかったことだったのではないだろうかと思ってしまうときもある。

 飯塚のラストマッチは鈴木みのる 飯塚高史 タイチvsオカダ・カズチカ 天山広吉 矢野通となり、飯塚は最後の試合まで天山と戦うことを選んだ。その飯塚の長きに渡るプロレス人生も、まもなく終わりを告げようとしている…

(参考資料 新日本プロレスワールド)

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