ミル・マスカラスの保持している世界ヘビー級王座のルーツ…IWAはこうして誕生した!


1975年1月、アメリカ北東部にIWA(インターナショナル・レスリング・アソシエーション)という団体が誕生した。

 IWAはエディ・アイホーンという人物が設立、アイホーンは全米バスケットボールとWFLの全試合の放映権を握って、アメリカABC系列の放送局で番組を提供して巨額の富を稼いだ実業家だった。そのアイホーンがプロレスに進出する理由は、バスケットとフットボールのシーズンオフの期間に穴埋めする番組を欲しており、目をつけたのがプロレスだった。

 当時のアメリカマット界はその州ごとに団体があったテリトリー制で、その各州のテリトリーをNWA、AWAという二大組織が取り仕切り、ビンス・マクマホンシニアのWWF(WWE)も、NWAの会員になっていたことから、NWAエリアの一つのテリトリーに過ぎなかった。またTV中継も当時はケーブルテレビが発達しておらず、その州のプロレスしか見れなかったが、アイホーンは全米各局に放送網を持つABCの力を使い、IWAの試合を中継し全米進出を目論もうとしていた。

 アイホーンは腹心であるロバート・ハッチを社長に据え、ペドロ・マルチネスをプロレス部門の責任者として雇った、マルチネスはかつてはNWFを率いていたプロモーターだったが、NWFが下火になるとベルトと権利をジョニー・パワーズを通じて新日本プロレスに売却しプロレス界から離れていた。

 早速マルチネスは自分のルートをフルに活用して、自身のビジネスパートナーだったパワーズ、アーニー・ラッド、オックス・ベーカー、ブルドッグ・ブラワー、エリック・ザ・レッド、マイティ・イゴール、クルト・フォン・ヘス、ザ・モンゴルズ(ジート&ボロ)などかつてNWF勢、ジョージアのアン・ガンケル派の残党、プロモーターと揉め各エリアから離脱したレスラーをかき集め、またWWFに参戦していたミル・マスカラス、元WWFヘビー級王者だったイワン・コロフ、大御所であるルー・テーズを口説きを落とし独占契約を結ぶことに成功した。

当時のマスカラスは日本、アメリカ、メキシコと股にかけて活躍しており、WWFのプロレスの殿堂であるマジソンスクエアガーデンにも進出、当時ニューヨークのアスレチックコミッションでは「覆面レスラーはマスクを脱いで素顔で出場しなければならない」という条例が定められていたが、マスカラスを気に入っていたビンス・マクマホン・シニアによって解禁され、覆面を被ったままマジソンスクエアガーデンのリングに上がった最初のレスラーとなり、WWF王者だったブルーノ・サンマルチノに匹敵する人気を集めていた。IWAはサンマルチノに対抗できるレスラーはマスカラスしかいないと白羽の矢を立てスカウトに成功、1976年にマスカラスが24人参加のトーナメントに優勝したとして、初代王者となったが。これまでフリーランスとして活動していたマスカラスもIWAに専念せざる得なくなり、1976年夏に参戦するはずだった全日本プロレスの「サマーアクションシリーズ」への参戦をキャンセル、ジャイアント馬場もマスカラスがNWAの枠外に出てしまったことで、オファーが出来ず、1976年は唯一マスカラスが来日しない年となってしまった。

1月からテレビマッチが収録され、7月には全米進出の最初の標的としてマクマホンのWWFを選び、WWFのお膝元であるニューヨークに進出、ニュージャージー州のルーズベルト・スタジアムにてミル・マスカラスvsイワン・コロフをメインとしたビックマッチを開催する。またマスカラス自身もベルトを持ってメキシコへ凱旋し防衛戦を行うと、マスカラスの手引きでアイボーンはメキシコUWAの代表であるフランシスコ・フローレンスとも会談する。UWAは1975年1月にメキシコで旗揚げされ、EMLL(CMLL)から大量のスター選手を引き抜いて絶大なる人気を誇っていた。フローレンスもアメリカとのパイプを欲したことから、IWAとの提携する姿勢を示す。

しかし目と鼻の先に敵対勢力に興行を打たれたWWFも黙っておらず反撃を開始、NWAの各エリアだけでなく、提携していたAWAに救援要請を出して。各地区のスター選手を派遣してもらうなど対抗措置を取りつつ、IWA潰しも同時に行い、マスカラスの抗争相手だったコロフの引き抜きに成功する。

7月のビックマッチが15000人で終わったことでまずまずの結果を出したIWAは8月に同会場でマスカラスvsラッドをメインとしたビックマッチを開催するだけでなく、WWFのタッグ王者だったビクター・リベラを引き抜きにかかり、アントニオ猪木も来場したことでパワーズも新日本プロレスとの提携を要請する。だが一時は合意に達したリベラがWWFの強い圧力によって参戦が見送られ、猪木も本来の目的が大会に参戦していたテーズへのオファーをかけるために来場したに過ぎず、新日本もNWAへ加盟寸前だったこともあって、パワーズの要請を断らざる得なかった。

また肝心の8月のビックマッチも5000人と観客動員が激減で大赤字となってしまう。不振となった理由はWWFに馴染みが深かったコロフが引き抜かれただけでなく、MSGは郊外のルーズベルトスタジアムと比べて車を使わずに観戦できる立地であったこと、ニューヨーカーの客層はブルーカラー(労働者)層が大半を締めているなど、リサーチ不足が原因だった。

IWAもアイホーンが用意した資金4000千万ドル(当時の邦価で13億円)も使い果たしてしまい、アイホーンもプロレス事業は失敗と考え、バスケットボールとフットボールがシーズンに入ることから、IWAに対して打ち切りを通告する。そこでロバート・ハッチ社長が「最後のチャンスをください」と頭を下げ、アイホーンも最後のチャンスを与えるとして僅かながらも資金を援助、9月にルーズベルトコロシアムで再びマスカラスvsラッドをメインとしたビックマッチを開催、今回はWWFの圧力で参戦が見送られたリベラも参戦するも3500人という大惨敗に終わり、アイホーンはプロレス事業から手を引いて撤退。マスカラスもベルトだけを持ってIWAを去り、1977年1月から全日本に復帰、IWAもパワーズの指揮で細々と続け、マスカラスも参戦して防衛戦を行ったが自然消滅していった。

 そのマスカラスの保持しているIWA王座だが、1981年に全日本のリングで防衛戦を開催、これまで日本で行わなかった理由は国際プロレスにIWA世界ヘビー級王座が存在したことでの措置だったが、国際プロレスが崩壊したことで日本でも解禁、マイティ井上や天龍源一郎、小林邦昭、チャボ・ゲレロ、ジプシー・ジョー相手に防衛戦を行い、現在でもマスカラス個人のベルトとして存在している。

 自分がCodyやヤングバックスによる新団体「AEW」の決起集会を見て、思い出したのはかつて金満団体として批判されたSWSと、このIWAの存在だった。AWEはWWEに対抗する組織になりえるのか?またIWAの二の舞となるのか…

(参考資料、ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.16『王者の宿命』)

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