横綱レスラー・輪島大士デビュー…二年間のレスラー人生


 1986年4月8日、日刊スポーツが元大相撲の横綱である輪島大士がプロレスに転向することを報じ、13日、永田町のキャピタルホテルにて全日本プロレスに入団することを発表した。

輪島は学生相撲の学生横綱になるなど輝かしい実績で大相撲入りし、1973年に横綱となって先代貴ノ花ともに一時代を築いた。1981年に引退し部屋を次いで花籠親方となっていたが、プライベートの問題から年寄株を借金の担保にしていたことが発覚し、輪島は大相撲から廃業を余儀なくされ、花籠部屋は消滅、大相撲から追われてしまった。

しかし輪島の後援者が花籠部屋出身で全日本プロレス入りしていた石川敬士を知り合いだったこともあって、輪島も石川に相談、石川を介してジャイアント馬場を紹介されて全日本プロレス入りとなったが、マスコミ報道の時点ではまだプロレス入りを決心していなかったという。

当時の全日本プロレスは長州力ら率いるジャパンプロレスが参戦していたが、ジャパンはフロント内の対立から分裂の兆しが見え始めており、土曜夕方5時半から日本テレビも放送していた『全日本プロレス中継』も1985年10月から土曜7時の枠でゴールデンタイムに復帰していたが、4月になると読売ジャイアンツのプロ野球中継が優先的に放送され、土曜夕方4時の枠で放送されることもあった。全日本や日本テレビが輪島を欲した理由は、全日本は未だにコントロールできないジャパンに対する牽制と、日本テレビは野球シーズンの終了後に土曜7時に復帰する『全日本プロレス中継』の起爆剤が必要と考えたからだった。

全日本に入団した輪島は馬場やタイガーマスクとなっていた三沢光晴と共に渡米、NWAのエリアの一つであるニューオリンズ・スーパードーム大会で行われた「世界タッグ五輪」、AWAのビックマッチを観戦、AWAの会場では「スモウレスリングのグランドチャンピオン」として紹介された。ハワイやセントルイスでは肉体改造に取り組みつつも、元NWA王者であり馬場のポリスマンの一人であるパット・オコーナー、ニューヨーク州バッファローでは輪島とも旧知の仲であるザ・デストロイヤー、ノースカロライナ州シャーロットでは元NWAジュニア王者であるネルソン・ロイヤル、アメリカに滞在している佐藤昭雄の指導を受けた。ジャンボ鶴田や天龍源一郎が全日本に入団した時は、テキサス州アマリロにいるドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクの下へ送り込んで英才教育を施したように、今回もトレーナーは別でも、名レスラーや名トレーナーの下で英才教育を施した。また全日本のシリーズを終えた馬場も渡米して輪島を指導することもあり、時にはマスコミをシャットアウトして意地悪な相手が仕掛けたときに対処するために馬場流のシュートテクニックを叩き込み、輪島も悲鳴を挙げたという。

デビューして3ヵ月後にNWA会長であるボブ・ガイゲルのエリアであるカンザスにて輪島は馬場とのタッグでアークェイク・フェリス、J・Rホッグ相手にデビュー戦を行い、馬場のリードを受けた輪島は相撲タックルの連発でホッグから3カウントを奪って、デビュー戦を白星で飾り、8月30日のネバタ州ラスベガスでも馬場と組んでケント・グローバー、ポール・ガーナー組と対戦し、輪島はノド輪落とし(チョークスラム)ことゴールデンアームボンバーを初披露して3カウントを奪い、9月19日には馬場と共にプエルトリコへ乗り込み初シングル戦を行いヒューラカン・カステロ・ジュニア相手にゴールデンアームボンバーで3カウントを奪い秒殺勝利を収めるなど快進撃を続ける。この模様は土曜7時の「全日本プロレス中継」でも特集され視聴率は15.6%を記録するなど、輪島効果が功を奏し日本テレビ関係者を喜ばせた。

プエルトリコ遠征を終えた輪島はシャーロットへと戻り、11月1日、故郷である石川県七尾での凱旋マッチに向けて、馬場やロイヤル、佐藤だけでなくドリー・ファンク・ジュニアも加わり、試合をこなしながら再調整をするが、相撲時代からの癖である倒した相手を待ってしまうことや、また相撲にはなかった後ろ受け身の下手さなどは矯正することは出来ず、見切り発車のまま10月29日に帰国、11月1日の凱旋マッチを迎えた。

輪島の凱旋マッチの相手となったタイガー・ジェット・シン、アントニオ猪木との抗争で新日本でトップ選手となったシンだったが、全日本に移籍してからは後でスタン・ハンセンが引き抜かれたこともあって、次第に脇に追いやられ、上田馬之助とのコンビを解消してからはラッシャー木村率いる国際血盟団と共闘するも、長州力が全日本に参戦するだけでなくレスラーとしてもピークが過ぎてしまったこともあって、影の薄い存在となっていた。

地元・七尾での凱旋マッチには大観衆が訪れ超満員札止め、テレビも生中継で放送した。輪島が先に入場、シンも阿修羅・原の肩を借りて入場。輪島が仲田龍リングアナのコールを受けると同時にシンが奇襲をかけて試合開始、シンは早くも場外戦を仕掛け、まだガウンを脱いでいない輪島を徹底的に痛めつける。

やっとガウンを脱いだ輪島はリング下からシンの足を掴んで倒し、鉄柱を使った足攻めで反撃、ローキックやストンピング、ドリーから指導を受けたスピニングトーホールドを披露、シンはサミングで抵抗も、輪島は怯まずローキックの連打を浴びせていく。

首投げで反撃したシンは首四の字で捕獲、だが逃れた輪島もスピニングトーホールドで応戦、シンがロープに逃れても構わずストンピングを浴びせるが、突進したところでシンが凶器攻撃、輪島の勢いは止まらず電車道からぶちかまし、だが串刺しショルダータックルを狙ったところで、凶器攻撃を狙うシンをチェックするジョー樋口を巻き込んでKOしてしまうと レフェリー不在で無法地帯となった試合は場外戦へと突入したが、試合終了のゴングが鳴らされ、裁定は輪島の反則負けで凱旋マッチは勝利は収められなかったが、輪島は馬場の指示でシンにガンガン向かっていった。一旦リングに戻った輪島は天龍源一郎と共にファンの声援に応えるも、バックステージに戻っていったシンに対して挑発すると、馬場の「行け!」の指示でシンの控室へ殴り込みをかけるなど、試合には負けたがやる気を充分にアピールした。

内容的にはゴールデンアームボンバーを披露出来ず、不完全燃焼となるだけでなく、馬場の指示を試合中に受けるなど、ところどころで相撲時代の癖が抜け切れてなかったが、下手は下手なりにシンと乱闘をすることで輪島という存在を大きくアピールすることが出来た。また凱旋マッチの視聴率も23.5%と驚異的な数字を出してことで日本テレビ的には合格点を出した。

輪島は最終調整のために再び渡米し、12月12日の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦が行われた日本武道館大会に参戦、全日本は相撲で不祥事を起こした輪島をプロレス入りさせたことで相撲協会から両国国技館使用を差し止められてしまい、日本武道館を都内のビックマッチ用の会場として使用せざる得なかった。都内初登場となった輪島は馬場と組んで元AWA世界ヘビー級王者だったリック・マーテル、トム・ジンク組と対戦し、馬場のリードを受けた輪島はゴールデンアームボンバーでジンクから3カウントを奪い、凱旋してから2戦目で勝利を収め、翌年からは日本に定着しシンと抗争を繰り広げ、千歳空港でシンと乱闘となって警察沙汰にもなったが、視聴率は20%を記録することはなく、テレビ的には輪島のプロレスデビューは打ち上げ花火に終わった。

3月12日の武道館ではリック・フレアーの保持するNWA世界ヘビー級王座に挑戦、世界最高峰のベルトに挑戦ということで、輪島に大きな期待を寄せられたが、フレアーのインサイドワークに翻弄されるだけでなく、随所で輪島の弱点も露呈してしまい、輪島がスピニングトーホールドを狙った際にフレアーが首固めで丸め込まれ3カウントとなり、王座奪取失敗どころかデビューしてから初フォール負けを喫してしまう。輪島はその後、長州の新日本Uターンによって空位となったPWFヘビー級王座を狙いに王座決定戦でスタン・ハンセンと2度に渡って対戦したが、4・23新潟では両者リングアウト、4・24横浜文体ではハンセンの首固めに敗れて王座奪取はならず、6・9日本武道館ではロード・ウォリアーズに流出したインターナショナルタッグ王座に鶴田と組んで挑んだが敗れ王座奪取に失敗、この頃から輪島はスランプ気味なのではとも囁かれ、馬場からも「デビューしてからの輪島は最初は良かったんですけど。だんだん稽古しなくなりましたね。これはやっぱり致命傷だと思うんですよね。こういう風にやられるということは全くね、お恥ずかしい話ですよ」と突き放されるようになった。

そして全日本の現状に危機感を抱いた天龍源一郎が原と共に天龍革命を起こし、真っ先に輪島を狙い撃ちにして容赦なく顔面蹴りを浴びせたが、同じ相撲出身で最高峰を極めた輪島に対する「強くあってほしい」と願ってのことで、輪島をつぶしにかかったが、輪島もガムシャラになって天龍に向かっていき、1987年10月26日の大阪で鶴田と組んで龍原砲の保持するPWFタッグ王座に挑戦した際には龍原砲に捕まった鶴田を救出するために天龍に往復ビンタを浴びせ、天龍の怒涛の攻めも耐え切ってぶちかましを浴びせるなど奮戦、試合はリングアウトで鶴田組は敗れたものの、テレビ解説の馬場から「もう、輪島のこの気持ちで十分なんですよ」と絶賛され、また11・7後楽園で行われた天龍とのシングル戦でも足に何度もローキックを喰らい、足が黒ずむぐらい腫れあがるも、懸命に立ち上がったことでファンに輪島の凄さを再認識させた。

88年12月16日の日本武道館でザ・グレート・カブキと組みクラッシャー・ブラックウェル、フィル・カーソン組と対戦してゴールデンアームボーンバーでカーソンを降したが、控室へ戻ると輪島は馬場に辞意を伝えた。輪島はこの年の2月に顎を骨折して欠場し、ジャパンプロレスから谷津嘉章が移籍したことで、メインから外れるようになっていた。全身はガタガタで練習もままらない状態に陥っていたという。同じ日にはプロレス入りのきっかけを作り、デビューしてからも輪島を支えてきた石川も輪島の扱いに不満を持っていたことから、馬場が輪島を引き止めなかったことに怒り、馬場に辞意を伝え引退として全日本を去った。その際には石川は輪島をエースとした新団体設立を輪島に持ちかけていたが、輪島は首を縦に振らず、輪島は静かにリングを去り、輪島の引退は全日本プロレス中継でひっそりと発表された。

全日本は旗揚げ間もない頃に、土曜8時で放送されていた全日本プロレス中継にテコ入れするために柔道の金メダリストであるアントン・ヘーシングをプロレスデビューさせたが、苦戦していた視聴率も好転せず、ヘーシング自身もプロレスを真剣に取り組まず、レスラーとして大成しなかったのもあって、打ち上げ花火に終わったが、輪島も二の轍を踏んだのかというとそうではなく、ヘーシングのように特別扱いを受けても大物として偉ぶらず、謙虚にプロレスに取り組んでいた姿は周囲は認めており一度も対戦することもなかった長州からも「輪島は一生懸命やっていた」と評価していた。

輪島は引退してから後年「私も初めはプロレスをショー的なものだと思っていたけれども、いざ自分がやってみたら、プロレスはそんなもんじゃないと。それに相撲と違って試合時間が長いでしょ? それを自分で工夫をして、考えながら、自分の哲学でやるわけだから。相撲は相撲で辛いけど、プロレスはプロレスで辛いものがある。だから、”何だ、プロレスは”って言う奴は馬鹿なの。やっぱり相撲には相撲の哲学があり、プロレスにはプロレスの哲学がある。プロレスはいわゆるショーじゃないんですよ。それを私はヒシヒシと感じましたね」と語ったが、石川の新団体旗揚げの誘いに乗らなかったのは輪島自身が「プロレスは甘いものではない」ということを身に染みてわかっていたからだったのかもしれない。レスラー廃業後はタレントとなり、相撲解説者として再び相撲に携わっていたが、レスラー時代も振り返ることもあり、GスピリッツやSAMURAI TVでは天龍との対談も実現していた。
しかし2013年に喉頭癌を患い、手術で声帯を失ってからは公の場に出ることが少なくなっていたが、自分はレスラー輪島を振り返る意味でこのブログを書き上げ、11月7日に更新する予定だった。だが9日に輪島さんが死去したことが報じられ(享年70歳)急遽公開したが、皮肉にもこの記事が追悼文になってしまった。ご冥福をお祈りします。

(参考資料 GスピリッツVol.10「昭和の全日本プロレス」日本プロレス事件史Vol.20 「入団・退団」)


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