クリス・マルコフ


2月10日、日本プロレス、全日本プロレス、新日本プロレスに来日したクリス・マルコフさんが死去した。享年85歳。

マルコフさんはユーゴスラビア(セルビア・モンテネグロ)出身で、1960年にプロレスデビュー、1963年にアメリカマットに進出した。

アメリカではロシア人キャラでタッグ中心に活躍したが、1969年4月に日本プロレスの「第11回ワールドリーグ戦」に初来日を果たすと、優勝候補の一角だったゴリラ・モンスーンを差し置いて、優勝戦線に加わり、外国人勢でボボ・ブラジルと同点首位となると、日本陣営で同点首位となったジャイアント馬場とアントニオ猪木の4選手の間で決勝トーナメントが行われることになった。
決勝トーナメントではくじ引きで組み合わせが決められ、馬場はブラジル、猪木はマルコフと対戦することになり、先に行われた馬場vsブラジルが時間切れ引き分けで両者失格になると、猪木vsマルコフが決勝戦に繰り上がり、マルコフは猪木を流血に追い込むなど苦しめたが、猪木は卍固めで捕らえてマルコフからギブアップを奪い優勝、それと共にマルコフは猪木のワールドリーグ戦初優勝の相手を務めたことで、日本のプロレス史にその名を残こすことになった。

その後は日本プロレスにも度々参戦して馬場の保持するインターナショナルヘビー級王座にも挑戦。また人種差別から来るトラブルでブル・ラモスやエル・ゴリアスとリング外で乱闘事件も起こしたことでマスコミにも大きく報じられた。
日本プロレスが崩壊後は1974年11月に全日本プロレスに来日して、馬場の保持するPWFヘビー級王座に挑戦したが逆エビ固めに敗れ、1978年11月には新日本プロレスに来日して猪木の保持するNWFヘビー級王座にも挑戦したが、またしても卍固めで敗れて王座奪取はならなかった。

キャリア晩年はAWAを主戦場にして、その後引退していたが、馬場はマルコフをあまり評価していなかったということから、猪木にとってマルコフは手の合う相手であり、猪木のおかげで日本プロレス界に名を轟かせた存在だったのかもしれない。

ご冥福をお祈りいたします

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