1987年11月、ジャイアント馬場がIWF(インターナショナルレスリングフェデレーション)構想を掲げ、全日本プロレスの全米進出計画を発表した。
1972年10月に馬場は全日本プロレスを旗揚げすると、1973年1月にはアマリロのプロモーターであるドリー・ファンク・シニアの尽力によって、当時プロレス界最高峰の組織であるNWA入りを果たした。全日本プロレスが加入した頃のNWAはセントルイスのプロモーターでNWA会長だったサム・マソニックを中心にフロリダのエディ・グラハム、カンザスのボブ・ガイゲル、ニューヨークWWFのジム・クロケット・シニア、テキサスのフリッツ・フォン・エリックなど錚々たるメンバーが会員となっており、敵対組織であるAWAのバーン・ガニアもオブザーバーとして招かれるなど、隆盛を極め、マット界の共存共栄も保たれていた。アメリカでビックスターとなった馬場は1964年から日本に定着しても、アメリカなど海外に頻繁に遠征しており、NWAエリアだけでなくAWAにも遠征、また選手を送り込むなどして、馬場や全日本プロレスの存在を全米に大きくアピールしてきた。
しかし、マソニックがNWA会長を辞任した以降は、有力プロモーターの間で権力闘争が起き、NWA会長の座も1年ごとに代わるなど、NWAも組織としてまとまりを欠き始め、全米向けで放送されるケーブルテレビの普及や、多くのレスラーが車などを移動手段にしていたことからオイルショック以降のガソリンの高騰も重なり、低迷して閉鎖に追い込まれる地区が続出、会員プロモーターも減りNWAの衰退する中で、馬場は影響力を発揮しNWA内でも重鎮プロモーターになっていった。
1983年にマクマホン・シニアから代替わりしていたビンス・マクマホンがWWFを取り仕切るようになると、NWAを脱退しケーブルテレビを武器にして全米侵攻を開始したことで、NWAの総本山だったセントルイスを始め興行に行き詰まる地区が続出、AWAもWWFの侵攻を受け衰退を始めていく、その中で、NWA内で権力を握ったのは世界ヘビー王者のリック・フレアーを要するWCWのジム・クロケット・ジュニアで、ケーブルテレビを武器にAWAと組みWWFに対抗するが、クロケットのやり方に反発する者も少なくなく、ダラスのフリッツ・フォン・エリックはNWAを脱退して独立するなど、組織としてのNWAは形骸され、クロケットが権力を独占するようになった。

全日本プロレスもNWAの形骸化した影響を受けて、1986年にNWAを脱会する。馬場も1984年からNWA第一副会長に就任していたが、NWA総会も1985年を最後に開催されなかったことで、NWAはアメリカマットでの威光を完全にを失っており、ボブ・ガイケルから再びクロケットにNWA会長の座に返り咲いたことから、NWAは完全にWCWの独占となった。それでも馬場はWCWとの提携は続け、WCWもNWA王者を全日本プロレスにブッキングし続けてきたが、それは馬場がNWA副会長の座にいたことによって関係を継続してきたにすぎず、馬場もWCWのPPVイベントとして開催されてきた「世界タッグ五輪」には、1986年に2代目タイガーマスク、1987年には高木功(嵐)と共に参戦してきた。
ところが1987年10月、全日本プロレスに3日間だけ参戦する予定だったNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーが負傷を理由に来日をキャンセルする。1986年10月も長州力が王者だったフレアーに挑戦する予定だったが、膝の負傷を理由にキャンセルしており、この時はテリー・ファンクと長州と対戦させることで穴埋めしたが、今回も全日本プロレスと和解したブルーザー・ブロディを来日させることで穴埋めすることが出来た。
本来ならNWA王者のスケジュールを管理するのはNWA副会長の役目なのだが、「NWA世界ヘビー級王者のブッキング、挑戦者の選抜はクロケットの承認を得なければならない、また王者が防衛戦をする際にも、セミファイナルにはWCWが指定するレスラーを使用しなければならない」とルールを変更したことから、フレアーが負傷を理由にキャンセルしたのは、全日本プロレスへの派遣より、WCWのスケジュールを優先したとみていいだろう
そういう状況の中でクロケットは全日本プロレスに「世界タッグ五輪」を日本での開催を要請する。ところが条件面を見ると経費は全て日本側持ちで全日本プロレスには全くメリットがなく、WCWだけがメリットのあり、また馬場が断れば新日本プロレスに話を持ち込もうとしていた。馬場は自分の一存ては決められないと返事を先送りにしたが、クロケットのやり方は業界の先輩に対して失礼にあたると反発をしていた。
そこで馬場が考え付いたのはIWF構想で、全日本プロレスが中心となり、WWFやWCWにも属さず、崩壊寸前のテリトリーをIWF中心にまとめ、PWFを発展解消させたうえで世界王座を作り王者を認定し、また全日本プロレスと契約している選手をIWFのテリトリーに派遣させて活性化させる、NWAをベースにした第三勢力を作り上げることだった。この計画にはガイケルやクロケットと袂を分かったガニアも賛同しており、全日本プロレスにはジャンボ鶴田や天龍源一郎など世界に通用するレスラーがいるだけでなく、スタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、ダイナマイト・キッドなど選手が揃い、アマリロのプロモーターだったドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクも協力することから、馬場もIWF構想は間違いなく成功すると睨んでいた。

翌年の88年から馬場は計画推進のため動き出し、渡米するとクロケットと会談「世界タッグ五輪」の日本開催を断った、その上で「全日本プロレスがアメリカで興行を打つ際に、どんな影響が出るのか、クロケットと対立したら、どういう影響が出るのか事前に話し合ってみる」としてジョージア州でインディー団体SWAを旗揚げしていたクラッシャー・ブラックウェル、ガニアのAWA、フリッツ・フォン・エリックのWCCW、マイク・グラハムのFCWらと会談して働きかけるも「アメリカマット界の現状では時期尚早」と進展はしなかった。快い返事をもらえなかった理由は、エリックは新日本プロレスと提携を始めており、ブラックウェルは興行不振で協力どころではなく、協力を得れることが出来たのはフロリダのグラハム、カンザスのボブ・ガイゲルとAWAのガニアだけだった。ガイゲルのエリアであるカンザスはNWAでも要となった地区で総本山であるセントルイスとは姉妹関係でもあり、ガイゲル自身もNWA会長にも就任し、マソニック勇退後のセントルイスを取り仕切ったことがあったが、WWFの全米侵攻の影響でエリアをクロケットに売却、だがガイケルもクロケットに反発するとエリアを買い戻し、NWAから脱退してWWAを旗揚げしていた。

結局得られる協力者は少なかったということでIWF構想は頓挫したかに見えたが、馬場はハワイにてAUP(オール・ジャパン・イン・USA)と名前を変えてプレ旗揚げ戦を、全日本プロレスの常連外国人でハワイ在住のカール・フォン・スタイガーの団体であるパシフィック・エリア・カンファレンス旗揚げ戦に協力する形で開催するが、プレ旗揚げ戦としてのは市場調査のためで、協力すると思われていたプロモーターが思惑の違いで及び腰になっていることから、慎重居士の馬場が全日本プロレスから選手を派遣することで、IWF構想が成功するかどうか試そうとした。全日本プロレスからザ・グレート・カブキ、常連外国人からスタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、ダニー・スパイビー、ジョニー・エース、ザ・ターミネーター、この年の最強タッグに参戦が決まっているディック・スレーターとトミー・リッチ、ナスティ・ボーイズ、ブラックウェルが送り込まれ、ファンクスは大ベテランのムース・モロウスキーと、フロリダからはグラハム自身とスティーブ・カーンが参戦、プレ旗揚げ戦は3戦行われたが、3戦とも観客の入りは芳しくなく成功とは言い難い結果となり、グラハムもこの大会を最後にIWF構想から手を引いてしまった。
ところがその頃、アメリカ本土ではクロケットがジム・バーネットの仲介でメディア王であるテッド・ターナーにWCWを売却する事態が起きる。クロケットもマクマホンに対抗してエリアを買収して拡大してきたが、急激な拡大にプロモーションが対応できず、経費が増加し、またWWFとのPPV戦争でも負け続けたことで破産寸前にまで追いやられていた。
馬場は1989年に入ると新春ジャイアントシリーズを終えると、ジャンボ鶴田、谷津嘉章、天龍源一郎、タイガーマスクを引き連れ渡米、ガイゲルのWWAとの合同興行という形で「オールジャパン・イン・USAプロレスリング」アメリカ本土決戦第1弾をガイゲルの地元であるカンザス州カンザスシティ・メモリアルホール開催する。WWA王者だったマイク・ジョージや、アメリカ在住で全日本プロレスに籍を残していた佐藤昭雄の協力もあってリック・モートン、ロバート・ギブソンのロックンロール・エクスプレス、ベテランのボビー・ジャガースが参戦するだけでなくだけでなく、常連外国人からはスタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスが参戦したが、土壇場になってAWAのガニアが手を引いてしまう。理由はガニアがマサ斎藤を通じて新日本プロレスに接近し提携を始めたからだった。
メインはハンセン&ゴーディの保持する世界タッグ王座に鶴田&谷津の五輪コンビが挑戦、レフェリーは元NWA世界王者でカンザスではガイケルのビジネスパートナーであり、馬場とは昵懇の間柄だったパット・オコーナーが務め、鶴田がバックドロップでゴーディから3カウントを奪い王座を奪取する。


天龍もビル・アーウィンと対戦してパワーボムで完勝、ファンクスはダグ・サマーズ、ゲーリー・ヤングと対戦してテリーがテキサスクローバーホールドでヤングから勝利、キッド&スミスはロックンロールエクスプレスと30分時間切れ引き分け、タイガーはダイビングクロスボディーでトニー・シャープから勝利を収め、大会は日本テレビが放送して馬場が解説し、WWFに参戦していたハーリー・レイスも駆けつけ全日本プロレス勢を激励した。






だが肝心の興行は寒波襲来の影響もあって1000人という不入りに終わり、この大会を契機にIWF構想は頓挫し、ガイゲルもしばらくしてWWAをクローズしてプロモートから撤退したが、おそらくこの大会も市場調査の一環で、鶴田や天龍など全日本プロレスの主力を送り込むことで、成功するかどうか試したと見ていいだろう。市場調査の結果、これ以上IWF構想に深入りすれば、全日本プロレスの土台も揺るぎかねないというのが馬場が出した結論だったのかもしれない。
カンザス大会を終えると、その足で天龍はWCWに遠征してロード・ウォリアーズとタッグを結成する。WCWは天龍に長期滞在をオファーするも、天龍は全日本では欠かせない存在となっており、長期にわたってWCWに派遣できないとして馬場は断った。

3月にNWA王者が久しぶりに派遣されたが、王者はフレアーからリッキー・スティンボードに代わっており、その際にWCW側から「鶴田や天龍を挑戦させないでほしい」と申し入れをさせられてしまうが、馬場も「じゃあ、NWA王座はうちの王座より下と扱わせてもらう」と返答した。それは馬場なりのWCWまたアメリカマットへの決別宣言だったが、馬場も実力的に評価をしていなかったリッキーが王者になったことで「NWA王座もここまで落ちたか」と思わざる得ず、体制が変わったWCWと組んでもこれ以上のメリットはないと判断したと思う。リッキーには三沢タイガーが挑戦することになり、リッキーも帰国後すぐにフレアーに敗れ明け渡したが、WCW側もベビーフェース色の強いリッキーを評価していなかったというのが本音だったのかもしれない。
5月にスティングが派遣されたが、全日本プロレスはこれを最後にWCWとの関係を断ち、日本国内重視に方針を変え、アメリカマットから決別した。その入れ替わりに新日本プロレスがマサ斎藤によってWCWと提携を果たしたが、それはアメリカマット界における日本人の顔役は馬場からマサ斎藤に変わったことを意味していた。
1998年WWFが全日本プロレスに接近し、馬場はその年の最強タッグを終えるとカナダへ飛び、WWF幹部と話し合いを持つことになっていた。ところが馬場は最強タッグを終えると入院しカナダ行き断念、そのまま死去した。果たしてWWFと提携したことで全日本プロレスはどう変わっていったのか、それは謎である。
(参考文献=GスピリッツVol。38=小泉悦史「ジャイアント馬場の海外行脚」より)

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