暗黒期の新日本プロレスのエースとなったブロック・レスナー…ドタキャン事件から新日本プロレスの再建が始まった!


2005年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会当日にブロック・レスナーが婚約者であるセイブルを伴い日本に来日、新日本プロレスのオーナーだったアントニオ猪木と会談した。

レスナーは1998年のジュニアカレッジに在籍時にレスリングのナショナル王者となり、2000年にはNCAA選手権を連覇するなど活躍、オリンピック候補にもなったこともあった。

そのレスナーに目を付けたのはWWEで契約を結んだが、即戦力としてではなく、新日本プロレスではビックバン・ベイダーやスコット・ノートン、ドン・フライをコーチしたブラット・レイガンズに預けられ、レイガンスはマサ斎藤と通じて新日本プロレスにもかかわっていたことから、レスナーは道場でみっちりと新日本プロレス流の指導を受けていた。その際にレイガンス道場を訪れていた猪木とも対面、レスナーの素質を見た猪木は新日本プロレスへの参戦を促していたが、レスナーはWWEと契約していたため、猪木は諦めざる得なかった。

レスナーはファーム団体を経て2002年にWWEデビューを果たし、8月のサマースラムでザ・ロックを破りWWE統一王座を奪取して、瞬く間にWWEのトップに立ち、2003年のレッスルマニアでもカート・アングル破るなど活躍したが、2004年になるとアメリカンフットボールの最高峰であるNFLに挑戦したいという意志を持っていたこともあってレッスルマニア20を最後に退団する意向を示す、レッスルマニア20ではレスナーはゴールドバーグとの対戦が決まっていたが、直前になってレスナーなだけでなくゴールドバーグもWWEすることが退団が明らかになり、試合当日でもにおいてもレスナーだけでなくゴールドバーグに対してファンは浴びせる異様な雰囲気となるが、特別レフェリーだったスティーブ・オースチンが二人にスタナーを決めたことでファンの怒りを沈静化をさせた。

こうしてレスナーはWWEを去り、NFLに挑戦してミネソタ・バイキングに入団したが、開幕ロースター(ベンチ入り)できず、最終的にチームから解雇され、事実上のフリーとなるも、この結果を受けてハルク・ホーガンを始めとするレスラーたちがプロレスへのカンバックを呼び掛けるなど、去就が注目されていたところで猪木が獲得に動く、レスナーは猪木との会談後、婚約者であるセイブルと一緒に1・4東京ドーム大会を観戦したことで、マスコミもレスナーが新日本プロレスに参戦するのではと取り沙汰されるようになった。

この頃の新日本プロレスは2000年に入ると1990年代の立役者だった橋本真也と武藤敬司が退団して独立し、またK-1、PRIDEなどの格闘技がプロレスを凌駕するようになっていた。そこで猪木が人気回復を図って格闘技路線を推進するも、ファンから支持されず、またプロレスリングNOAHが2年連続で東京ドーム大会を成功させたことで業界No.1の座を奪われたことで経営が傾き悪化しつつあった。猪木は猪木事務所から経理コンサルタントの草間政一が社長として送り込み、経営改善に取り組んでいたが、草間氏が猪木から派遣されたということで内部からの反発を受けるだけでなく、猪木からの事業資金捻出のための借り入れ要求を拒んだことで任期半ばで解任され、猪木は自分の意向を反映しやすいように、娘婿であるサイモン・ケリー氏を社長として送り込んでいた。

8月9日にサイモン社長は「闘魂創造〜NEW CHAPTER〜」(10月8日、東京ドーム)開催を発表する。新日本プロレスは5月13日に東京ドーム大会を開催しており、NOAHから三沢光晴が出場したにも関わらず35000人と低調に終わったことから、10月のドーム大会開催も危ぶまれていたが、「新日本プロレスとして、日本プロレス界一の誇りを持って挑戦したい。リスクを承知の上で一か八かやりたい」と社運を賭けて開催に踏み切り、具体名は明かさなかったものの、「ほぼ決まりに近い」と大物選手招へいプランも明かし、IWGP王者・藤田和之とのタイトル戦も浮上していたが、誰もがその大物が正体がレスナーであることに気づいていた。この頃にはCS放送でWWEが放送されていたこともあってレスナーの存在はプロレスファンからも認知されていた。

その間にもWWEがレスナーに対して再契約に向けて交渉するも、合意には至らず、こうしてレスナーの新日本プロレスに正式参戦が決定し、対戦カードも藤田和之の保持するIWGPヘビー級王座にレスナー、そしてこの年のG1 CLIMAXを優勝した蝶野正洋が挑戦する3WAYマッチに決定するが、3WAYになった理由は「抵抗があったがWWEで見て意外に面白かった」としたからだった。
会見でも「レスナー参戦なら米国でPPV放送の可能性もある」とドーム大会の全米放送を視野に入れればサイモン社長も「日本人対外国人の基本に戻したい」とリング上の原点回帰と同時に「PPVやDVDなど米国でビジネス展開したい」と元WWE選手の参戦を機に海外戦略を進めたい考えを示し、30日にはサイモン社長就任式で3代目のIWGPベルトが公開されたが、胴回りもレスナーに合わせたもので、ドーム大会もベルトも全てレスナーのために用意されたようなものだと感じさせたが、猪木だけでなく、サイモン社長にとってもWWEで大スターとなったレスナーこそ新日本プロレスの起死回生の切り札であり、懸案だった新日本プロレスの全米進出の切り札であることを信じていた。

メインの3WAY戦は蝶野がフライングショルダー、シャイニングケンカキック、リバースSTFと藤田を攻めるも、レスナーはカットに入って藤田を排除すると、蝶野にバーティクトを決め3カウントを奪い初参戦で王座を奪取、観客動員は38000人と満員と小学生・中学生を無料にしたことでマークはついて少し上がったが、試合時間も8分8秒とメインにしては物足りなく、レスナーの一人舞台だったことから、まさしくレスナーのために東京ドーム大会を開いたようなものであったことを印象付けてしまった。

これで猪木の後押しを受けたサイモン社長によるレスナー路線が新日本プロレスの中心になるかと思われていたが、11月14日にユークスが猪木から新日本プロレスの株式51.5%を取得し子会社化することを発表する。新日本プロレスはサイモン氏が社長に就任した時点でどうしようもないぐらいに経営が悪化しており、それでもどうにかして副社長だった菅林直樹氏と新日本プロレスを建て直そうと奔走していた。しかし、前社長である草間氏が猪木から解任を受けた腹いせとして新日本プロレスの経営状態をマスコミに暴露したことで、新日本プロレスの経営危機が表面化してしまったのだ。

こうして新日本プロレスはユークスの子会社になることでどうにか生き残ることが出来たものの、株式を売却した猪木は新日本プロレスを担保に金を借りた程度しか考えておらず、「ガラス張りの経営への改善」がユークスが新日本プロレスを子会社にする条件だったことから、猪木もユークスによって経営を改善してもらった上で事業資金を捻出してもらい、ビックイベントを成功させた上で、新日本プロレスを買い戻しそうとしていた。またサイモン社長も新日本プロレスがユークスの傘下になったことで、ユークスからの資金から投入され、レスナーエース路線をますます推進し全米進出が出来ると思っていたのかもしれない。

だが、ユークスは猪木とサイモン社長の期待とは裏腹に新日本プロレスの経営状態を調べ上げると、これまで通りの杜撰な経営では新日本プロレスは再建できないと判断、本格的にガラス張りの経営への転換を図って、様々な形でリストラに着手する。選手契約にしてもこれまで上がる一方だった年俸を大きく見直し、将来のエース候補である棚橋弘至や中邑真輔は年俸をアップさせたものの、ベテラン選手を始めとする選手にはダウンを提示しする。永田裕志などのトップ選手は、新日本プロレスの現状を踏まえてダウンに応じてサインしたものの、ダウンに納得できない選手は去り、フロントでもユークスのやり方に反発する人間にはやめてもらうなど、篩にかけてリストラを断行、また無駄な予算は出せないとして限られた予算内での運営を命じた。

そういう状況の中でもサイモン社長は12・10大阪で中西学、12・11愛知で永田裕志を冷徹なファイトで立て続けに破ったことで、レスナーエース路線を推進させたが、2006年1・4東京ドームでレスナーの保持するIWGPヘビー級王座に挑戦するはずだった藤田が参戦を拒否し欠場を発表する。藤田は「INOKI BOM-BA-YE 2003」が大失敗し、猪木が格闘技界から撤退をした影響で、新日本プロレスを主戦場にせざるを得ない状況となっていたが、プロレスよりMMAへの活動をメインにしたいことから、PRIDEへの参戦を希望しており、また藤田が契約していた猪木事務所が新日本プロレスがユークスに売却されたことで影響力を失っていたことから、ここで猪木から距離を置くことを考えていた。

1・4東京ドーム大会のカードが空白になったことを受け、藤田に代わって挑戦したのは中邑だったが、中邑が果敢にも挑んだのに対し、レスナーは冷徹なファイトで圧勝し防衛、2・19両国では現場監督として復帰していた長州力ともタッグで対戦、長州もリキラリアットやバックドロップと果敢に攻めたものの、レスナーのバーティクトを食らい完敗を喫する。3・19両国ではベルトをかけて曙と対戦したが、曙の体重に苦しめられ、バーティクトで持ち上がることが出来なかったレスナーがベルトでの殴打からDDTで3カウントを奪いどうにか防衛するも、ベルトを凶器に使っての防衛にファンから批判を受けてしまった。

永田、中西、中邑、長州、曙とレスナーに敗れたことで、次の挑戦者は棚橋弘至が候補に挙がったが、曙を降した後のレスナーは「オレが王者だ、今はそんな話をする必要はないだろう」と怒る。そしてNEW JAPAN CUPを優勝したジャイアント・バーナードがレスナーに挑むも、バーティクトの前に完敗、レスナーも「IWGP永久王者」を宣言する。

6月に猪木vsアリが30周年記念パーティーを横浜赤レンガ倉庫で開催され、主役の一人である猪木が、格闘技イベント「イノキ・ゲノム~格闘技世界一決定戦2006~」を9月1日に猪木vsアリが行われた日本武道館に開催をすることを発表し、サイモン氏も社長として新日本プロレスが全面協力することアピールする。この頃の猪木は猪木事務所を権利関係を全て新日本プロレスに移すことで解散に追いやっており、サイモン社長によって権利関係を管理する「猪木部」で設立することで影響力を残していた。

「猪木部」を設立した理由は、社員からもプロレスより格闘技路線を推進する猪木への不満が鬱積しており、サイモン社長を通さずユークス側へ猪木への不満を訴えることから、猪木と新日本プロレスとの関係改善を狙って設立したのだが、それは新日本プロレス内で猪木事務所を作ったに過ぎず、猪木は新日本プロレスに干渉をし続けるも、ユークスは一切応じず、猪木が売却前に計画していたバングラデシュ大会を推進しようとしても、採算が取れないと判断したユークスによって中止に追い込まれたことがきっかけになってユークスとの関係が悪化していた。「イノキゲノム」も新体制によって自身の意向が通らなくなった猪木が一発逆転を狙ったイベントで、サイモン社長も格闘技が出来るレスナーも出場候補に入れていた。

ところが7・17月寒で棚橋との防衛戦を予定していたレスナーが一方的に来日をキャンセルしてしまう。サイモン社長は後に「新日本プロレスはレスナーとの契約を守らなかった」と明かしているが、ユークスは高額ギャラを支払っていたレスナーもリストラ対象に入れ、契約内容を改めギャラダウンを提示していた。

新日本プロレスとレスナーの間では1試合につき約50,000ドル(当時のレートで約550万〜600万円)の契約が結ばれており、シリーズ全戦参加ではなく、ビッグマッチのみのスポット参戦。ギャラは前払いで、常にファーストクラスの航空券、超高級ホテルの宿泊、専用車での送迎が条件が付けられていた。レスナーがリストラ対象に入った理由は、レスナーの冷徹で短時間で終えるレスナーの試合ぶりはファンから支持を受けておらず、観客動員も回復どころか以前より低下しており、曙戦が行われた両国大会も7500人とされていたが実際はもっと少なく過去最低の観客動員をだったことから、レスナーは新日本プロレスに貢献するどころか「ハイリスク・ノーリターンに近い、極めて高すぎるコスト」と判断したからだった。
それでもレスナー路線を推進したいサイモン社長は、限られた予算内からどうにかギャラを捻出し契約通りのギャラは出せなかったものの、レスナーをどうにか説得して参戦させていたが、新体制となった新日本プロレスは、これ以上金は出せないとして月寒大会をもってレスナーとの契約を打ち切ることを決定する。

サイモン社長から契約解除を受けたレスナーは激怒し、来日をキャンセルするどころかベルトの返還も拒否。月寒ではレスナーの王座剥奪が発表され、予定していたカードの大幅な変更を余儀なくされた。レスナーが拒否した理由は、「アメリカの口座に入金が確認されるまで飛行機に乗らない」という条件が付けられていたため、新日本プロレスから金が入らないと判断し。また、ベルト返還を拒否したのは、「このベルトは俺のために作られたものだ。だから所有者は自分だ」と考えたからだった。レスナーはプロレスや格闘技は、あくまで「金を稼ぐための手段」に過ぎず、リングや会社に対する忠誠心がなかったのだ。

王者決定トーナメントは行われ、バーナードを降した棚橋が新王者となるも、棚橋の腰に巻かれたのは3代目ではなく、封印されたはずの2代目IWGPベルトだった。レスナーに勝ち逃げされたことでファンから信用を失い、IWGPの権威もガタ落ちとなり、新日本プロレスは新体制になりながらも、どん底以上の状況に陥った。だが棚橋は後年「あそこで、ドタキャンがあったからこそ、いろいろドラマが生まれたのもありますね」と答えていた通り、皮肉にもどん底以上の状況から新日本プロレスの流れが変わり再建が本格的に始まった。

そして猪木が推進し、サイモン社長もバックアップしていたはずだった「イノキ・ゲノム~格闘技世界一決定戦2006~」は延期に追い込まれた。サイモン社長は会場である武道館を仮押さえしているとしていたはずだったが、実際のところ会場は押さえられていなかったことが発覚したからだった。また「イノキ・ゲノム~格闘技世界一決定戦2006~」も猪木とサイモン社長による一方的な発表だったことでユークス側が怒り、新日本プロレスは非協力の姿勢を示されたことで、猪木どころかサイモン社長も発言力を一気に低下させてしまう。

 2007年新日本プロレスは全日本プロレスの協力の下で1・4東京ドーム大会が開催されたが、これまで必ずといって東京ドーム大会には顔を出していた猪木はプロレス界撤退を宣言して現れず、このままマット界から撤退するのではと思われていた。ところが猪木は「猪木部」のスタッフを引きずり込んで新日本から飛び出して新団体「IGF」旗揚げへと動き出し、これを受けてサイモン社長も任期途中で社長を辞任してIGFに参加することになった。サイモン社長が猪木に追随した理由は、ユークスに反発して猪木の言いなりになって動いたことで、新日本プロレスで居場所を失っており、解任も決定事項になっていたからだった。、サイモン氏は退社の際に「新日本のスタンスは、野球で言えばホームランか三振だった。でも今はフォアボールとかバントで点を取りにいく。苦しいのでそっちが合ってるかもしれないが、ボクは社長なのでホームランを狙っていきたかった。」とユークスと新日本プロレスを批判したが、新日本プロレスは当たれば大きいが空振りすればリスクが高いホームラン主義より、データに基づいて必ず1点を稼いでいく方針を選んだことへの反発も猪木へ追随した理由だった。

レスナー路線の失敗の失敗した理由は、猪木やサイモン氏の期待とは裏腹に、ユークスが新日本プロレスの杜撰な経営にメスを入れたことのもあったが、WWEで知名度を高くしていたレスナーなら、ファンにもすぐ受け入れられると考えていた。だがサイモン氏の視点はアメリカから日本を見てきたに過ぎず、日本のファンが何を求めているか時間をかけてにリサーチしないまま、ただアメリカでビックスターとなったレスナーさえエースに据えれば、すぐ経営は回復するだろうと思い、早急に結果を求めたことから失敗したと見ている。

そしてIGFが旗揚げされレスナーが参戦し三代目IWGPベルトをかけてカート・アングルと対戦したが、敗れてしまい、ベルトはアングルへ渡るも、アングルは新日本プロレスに参戦して中邑に敗れたことで、3代目ベルトは新日本プロレスに回収された。

レスナーはIGFには一戦だけ参戦するだけで、MMAの最高峰団体UFCと契約、ヘビー級王者になったが、アリスター・オーフレイムに敗れKO負けを喫したのを最後にMMAから一線を退き、2012年からWWEへ復帰、現在でもトップ選手として活躍している。新日本プロレスはユークスによって経営改善に成功、経営はブシロードに委ねられ、猪木やサイモン氏が果たせなかったアメリカ進出を果たした。サイモン氏はIGFでは渉外を担当したが、2016年に離婚し娘婿ではなくなったことがきっかけになり、IGFの内紛に巻き込まれ、猪木と袂を分かつことをせざる得なくなり、現在はWWEのアジア地区担当エージェントを務めつつ、プロモーターとしても活動している。

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