1987年11月9日の新日本プロレス後楽園ホール大会から「87ジャパンカップ争奪タッグリーグ」が開幕した。
新日本プロレスは1984年まで「MSGタッグリーグ戦」を開催、アンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガンなど豪華外国人選手が参加してきたが、WWF(WWE)との提携を解消したため名称変更を余儀なくされ、1985年は「IWGPタッグリーグ」として開催、ブルーザー・ブロディやジミー・スヌーカーが参戦したものの、ブロディが優勝決定戦をドタキャンする事件を起こし、1986年からは「ジャパンカップタッグ争奪リーグ戦」と名称を変更したが、外国人選手の主力はディック・マードックだけとなって、同時期に開催している全日本プロレスの「世界最強タッグ決定リーグ戦」がスタン・ハンセンやファンクスを中心に豪華な外国人選手が参戦してきたのに比べ、新日本プロレスは日本人を中心にするなど豪華さに欠けていた。
当時の新日本プロレスは猪木&藤波の正規軍、長州力&マサ斎藤率いる長州軍、前田日明&藤原喜明のUWF軍の3軍と分かれていたものの、長州が提唱した世代闘争が勃発したことで3軍抗争は棚上げとなって、猪木&斎藤&藤原&坂口征二率いるナウリーダーと長州&藤波&前田&木村&マシンによるニューリーダーと分かれるていたが、猪木が世代闘争に本気で乗り出そうとしなかったことで、世代闘争の意味がなくなった長州が世代闘争からフライング、マサ斎藤と共に長州軍を再編するも、長州の一方的な行動に前田が「言うだけ番長」と批判することで、長州だけでなく新日本プロレスとの関係もギクシャクし始めていた、
<参加チーム>
アントニオ猪木 藤原喜明
藤波辰己 木村健悟
長州力 マサ斎藤
前田日明 スーパー・ストロング・マシン
武藤敬司 高田伸彦
ケンドー・ナガサキ ミスター・ポーゴ
ディック・マードック スコット・ホール
ロン・スター、ロン・リッチ
チーム編成はナウリーダーから前年度覇者の猪木&藤原、長州軍からは長州&斎藤、ニューリーダーからは藤波&木村、前田&マシンがエントリーした。UWFは昨年の「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」で猪木と藤原が組んでから、新日本プロレスとUWFの抗争が形骸化され、またUWFも新日本プロレスと団体同士での提携ではなく、選手との個人契約に切り替えるように求められるなど、新日本プロレスがUWFを吸収への動きが出始めていたが、そのことも前田が新日本プロレスに不信感を抱く要因ともなっていた。
このシリーズのエース外国人はマードックでホールと組んでエントリーした。デビューから3年目のホールはマサ斎藤のブッキングでAWAから参戦していたが、新日本プロレスで起きるリアルやスキャンダルリズムを本格的に学んでおり、新日本プロレスで学んだことを後に起きるnWoムーブメントに大きく役立てていった。ロン・スターは藤波のジュニア時代の好敵手の一人でプエルトリコを主戦場にしていたが、対する全日本プロレスの「世界最強タッグ決定リーグ戦」はハンセンやファンクスだけでなく、新日本プロレスから復帰したブロディ、スヌーカー、アブドーラ・ザ・ブッチャーが参戦するだけでなく、天龍源一郎の天龍革命で団体自体が活性化するなど豪華さをアピールしており、新日本プロレスは世代闘争に流れがそのまま持ち込まれるも豪華さに欠けるチーム編成となった。
開幕戦は後楽園ホールで行われ、「ワールドプロレスリング」の生中継が入ったが、猪木が右肩を負傷して欠場するだけでなく、前田も腰痛で欠場してしまい、予定されていた公式戦3試合のうち2試合は延期扱いとなってしまう。
そこでハプニングが発生する。公式戦が延期になった藤原は坂口と組んでナガサキ&ポーゴと対戦するが、ナガサキのイス攻撃を受けた藤原が左腕を負傷してしまったのだ。



セミファイナルではマードックがシングルで武藤と対戦して垂直落下式ブレーンバスターで3カウントを奪い勝利を収めるが、放送席でゲスト解説を務めていた猪木をマイクで呼び出すとパートナーとして名乗りを挙げタッグ結成を呼びかける。
猪木とマードックは9月17日大阪で行われたナウリーダーvsニューリーダーによるイリミネーションマッチで、猪木は負傷した星野勘太郎に代わりマードックを起用してから、二人の関係は急接近し始めており、マードックの申し出に猪木は握手で応じて、猪木&マードックのタッグが開幕戦の土壇場で緊急決定となった。


メインでは唯一の公式戦として行われた長州&斎藤vs藤波&木村は、誰もがいつもの通り長州組が木村を仕留めて勝つだろうと予想しており、試合も長州組が徹底的に木村を狙い撃ちにし流血に追い込んでリードを奪っていた。そして長州組がバックドロップ&ラリアットの合体技であるハイジャックラリアットを狙うと、ここで藤波が長州に延髄斬りを浴びせてカットに入ったところで生中継が終わってしまう。
続きは次週に放送されたが、藤波からの思わぬ延髄斬りを浴びた長州を木村が首固めで3カウントを奪い大逆転勝利を収め、普段から長州にフォールされることが多かった木村が、長州からフォールを奪ったことで、館内は健悟コール一色となり、木村も長州からフォールを奪ったことで感涙する。
まさかの敗戦に斎藤は納得せず、ミスター高橋レフェリーに抗議したが、長州は斎藤を制して下がり、バックステージで「最初に負けて気持ちが引き締まっていいだろう、あのまま藤波組も突っ走って欲しいな。決勝で当たりたい」と決勝戦での再戦を望むコメントを残した。だが開幕戦のハプニングの連続は、これから起きるハプニングへの序章に過ぎなかった。



藤原が左腕を負傷として欠場となったため、猪木のパートナーはマードックに正式に代わり、マードックにフラれる形になったホールには、リーグ戦から外れていた坂口がパートナーになったことでリーグ戦に参加することが出来た。
猪木と前田は第2戦の沖縄大会から復帰したことで全チームが揃い、リーグ戦も順調に進んだかに見えたが、とんでもないハプニングが発生する。19日の後楽園大会で長州と前田が6人タッグで対戦した際に、木戸にサソリ固めを狙う長州の顔面を前田が背後から蹴り、負傷させてしまう事態が起きてしまい、長州は右前頭洞底骨折で1カ月の欠場、前田は無期限の出場停止処分を受けたため、前田&マシンは以降不戦敗扱いとなってしまった。

長州&斎藤、前田&マシン組が消えたことで滋賀、千葉、新潟と3大会が公式戦が行うことが出来ず、マッチメークを担当していた坂口もカード編成に苦慮する。そこで坂口は苦肉の策として途中から復帰していた藤原をマサ斎藤と組ませて長州の星取りを引き継ぐ形で公式戦に参加させた。
12月3日の愛知大会から特別参加枠で提携していたWCCWからケビン・フォン・エリック、ケリー・フォン・エリックのエリック兄弟が合流、12月4日の両国大会では、たけし軍団からダンカンとガタルカナル・タカが現われ、TGP(たけしプロレス軍団)の刺客が猪木に挑戦を表明するなど、ハプニングが続いたが、その中でもリーグ戦は進行し、最終戦である12月7日の大阪を迎え、猪木&マードック組が29点トップで公式戦が終了、藤波&木村と斎藤&藤原が26点同点と2位となったことで、最終戦の大阪府立体育会館大会では藤波&木村と斎藤&藤原の間で優勝戦進出決定戦が行われ、勝者と猪木&マードック組と対戦することになった。
しかし最終戦でもハプニングが起き、藤波が左脚親指の生爪を剥がし2針を縫ってしまい、藤波&木村はハンデを背負ったままで試合に臨まざる得なくなる。進出決定戦も木村が斎藤の鉄柱攻撃、藤原の一本足頭突きを食らって流血し捕まってしまうが、それでも木村は一本足頭突きを狙う藤原にナックルを浴びせてから藤波に代わり、藤波はドラゴンリングインから藤原にドロップキック、カットに入った斎藤にもドロップキックを放って猛反撃、斎藤のラリアットを藤原に誤爆させると、ブレーンバスターを狙う藤原を首固めで3カウントを奪い、優勝決定戦に駒を進めるが、今度は木村がダメージを負ってしまったため満身創痍の状況で優勝決定戦に臨まなければならなくなった。
優勝決定戦の猪木&マードックvs藤波&木村は、今度は手負いの藤波が全面に出て木村を敢えて控えに回るが、猪木&マードック組の猛攻に藤波が捕まり孤軍奮闘を強いられる。そしてマードックがリアルブレーンバスターで藤波を仕留めにかかったが、カバーしたところで木村がダイビングニードロップでカットすると、これに怒った猪木が木村を場外へ排除し、マードックが藤波にパワースラムを狙ったところで、藤波がマードックを首固めで丸め込んで3カウントを奪い、優勝を果たした。

1985年の「IWGPタッグリーグ」も優勝決定戦進出を決めていたブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカーが優勝決定戦をドタキャンするというハプニングが起きた際も、藤波&木村が猪木&坂口の黄金コンビと優勝決定戦で対戦し、藤波がドラゴンスープレックスホールドで猪木から3カウントを奪うという感動的なラストで優勝を果たした時よりも感動は低かったかもしれない。藤波はバックステージインタビューで「今日は自分たちが優勝したことより、新日本プロレスを守ったというか、そんな満足感がありますね」と答えた通り、目玉である長州と前田が欠場したことで盛り上がりに欠け、カードも変更だらけでドタバタが続いた『87ジャパンカップタッグリーグ戦』をどうにか終わらせることが出来たという満足感の方が藤波だけでなく木村にとって大きかったのかもしれない。


翌年の88年度も『ジャパンカップタッグリーグ戦』は開催されたが、「ジャパンカップイリミネーションリーグ」と3vs3によるイリミネーションマッチとして行われ、藤波は武者修行から一時帰国していた橋本真也、蝶野正洋と組み、猪木は長州&星野と組んでエントリーを果たしていた。優勝決定戦も前年度同様12月7日の大阪府立体育会館で行われ猪木組と藤波組が対戦も、藤波が星野を降し、長州と両者オーバー・ザ・トップロープとなった後で、猪木が橋本、蝶野を立て続けに破ったことで優勝を果たしたが、盛り上がりにかけてしまい、翌年はタッグリーグ戦は行われなかった。
全日本プロレスは1977年の「オープンタッグ選手権」から「世界最強タッグ決定リーグ戦」が始まり、今日まで続くロングセラーイベントとなっていったが、1980年から新日本プロレスもタッグリーグに参入するも、WWFとの提携解消の影響もあって年々大物外国人選手が呼べなくなった影響もあって次第に盛り上がりにかけるようになった。この時代の新日本プロレスのタッグリーグは不毛の時代で実りのないイベントになりかけていた。
平成に入ると新日本プロレスは3年ぶりの1991年に「SGタッグリーグ戦」を開催することでタッグリーグ戦が復活するも、この時代は「ワールドプロレスリング」が土曜4時の不定期放送枠に追いやられていた影響もあって、リーグ戦の展開が伝わりにくく盛り上がりに欠けてしまう、それでもタッグリーグ戦は毎年開催され土曜夜の深夜枠に移行してからはリーグ戦の展開が伝わるようになっていった。
1999年に入ると名称が「G1タッグリーグ」に改められ、2012年からは「WORLD TAG LEAGUE」に名称が変わるなど、新日本プロレスにもタッグリーグ戦が根付くようになっていった。「WORLD TAG LEAGUE」も「世界最強タッグ決定リーグ戦」に負けないロングセラーになることを祈りたい

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