1996年8月15日、日刊スポーツがこれまで鎖国を敷いていた全日本プロレスが一転して開国へと舵を切ったことを報じ、「髙田とならやってもいいよ」と発言したことで、開国へ舵を切った背景には髙田延彦率いるUWFインターナショナルの存在があることを匂わせた。この記事を受けて17日の後楽園ホール大会で馬場が会見を開き「記事については間違ってはいないが、やるとかやらないとかは言っていない。うちはかたくなに門を閉ざしているわけじゃなく、(過去に全日と)問題の無いところとは交流できる。」と条件付きながら開国へと舵を切ったことを認めた。

1990年にマット界のベルリンの壁が崩壊したとして、全日本プロレスは新日本プロレスとの交流を始めたが、天龍源一郎を始めとした主力や中堅などが大量に離脱してSWSへ移籍したため、全日本プロレスは崩壊の危機にさらされるも、ジャンボ鶴田や三沢光晴など残留した所属選手や、外国人レスラーが中心となり、全日本プロレスのコンセプトである「明るく、楽しく、激しいプロレス」を繰り広げることで、全日本プロレスは危機を脱することが出来た。馬場が他団体との交流を途絶したのも、全ての所属レスラーのプライドたちをプライドを考え、他団体のレスラーを上げたら、今まで頑張ってきた所属レスラーは面白く思うはずがないだろうと考えての事だった。
1992年にはエースだったジャンボ鶴田が病気で長期欠場となると、三沢光晴、川田利明、田上明、小橋建太ら四天王が全日本プロレスの中心になり、四天王が凌ぎを削る激しい試合を繰り広げたが、四天王の戦いは年を追うことにレベルが高くなるにつれて、その闘いを展開できる選手が限られてきてしまい、やがてマンネリ化が生じ始めていた、そこで川田利明は「もっと自由になんなきゃいけない、もっといろんな方面に羽ばたいてみたい、籠の中で羽ばたけるような試合は出来ないって、鎖国でいい時期もあったんだよ。でも、それがなんねっも続くとは限らないでしょ、歴史っていうのがそれを証明してるんだから」と鎖国体制の限界をマスコミに訴えていたが、そのタイミングで全日本プロレスにUWFインターナショナルが接触してきたのだ。
UWFインターナショナルも旗揚げから鎖国を敷いていたが観客動員が低迷し経営が危機に瀕したことで、1995年10月9日から始まった新日本プロレスとの全面対抗戦から他団体との交流に踏み切り、1996年1月4日には髙田が武藤との再戦で腕ひしぎ逆十字で破ってリベンジを果たしIWGPヘビー級王座を奪取、3・1UWFインター日本武道館大会では越中詩郎を挑戦者に迎え防衛戦を行ったが、10・9東京ドームで武藤に髙田が敗れたインパクトが大きすぎたせいもあって観客動員回復には至らなかった。


4・29東京ドームで髙田は橋本真也に敗れてIWGPヘビー級王座から転落すると、UWFインターは天龍源一郎率いるWARとの交流を始め、髙田自身もWARに乗り込み、UWFインターも安生洋二が高山善廣、山本健一(山本喧一)と組んでゴールデンカップスを結成し、マスコミへ大きくアピールすることで新規ファンを獲得しようとしてが、古くからのファンからの反発を招いていた。



そういう厳しい状況のなかでUWFインターは8月17日、9月11日と2ヶ月に渡って神宮球場大会を開催し、起死回生を狙ったが、8月17日に行われた神宮球場大会では高田vs安生、高山vキモのアルティメットルールマッチ、天龍が参戦して佐野友飛との対戦などマッチメークしたにもかかわらず、10500人に終わるなど惨敗に終わってしまう。

失敗は許されなくなったUWFインターは9月11日の神宮大会では高田延彦vs天龍源一郎をメインにして、新日本プロレスから橋本真也、佐々木健介を参戦させたが、新日本プロレスとの対抗戦は既にピークを過ぎていたためインパクトに欠けてしまい、チケットも売れず伸び悩んでいた。UWFインターは以前参戦していたビックバン・ベイダーを再び参戦させようとしていたが、当時のベイダーはWWEに属しており、ギャラの面も含めて安易に参戦出来る状況ではなかったことから、ベイダー参戦は断念せざる得なかった。
そこで馬場がUインター取締役の鈴木健氏に接触を求めてきた。Uインターにとって全日本はトップ外国人選手だったゲーリー・オブライトが全日本に移籍した際に「引き抜きだ!」と批判したことで敷居の高い団体だったが、それ以外は全日本プロレスとはトラブルはなかった。
鈴木健氏は一人だけで馬場との交渉に臨んだ。鈴木健氏が馬場と交渉する目的は、全日本プロレスの外国人選手を借りることで、トップ外国人だったスタン・ハンセンを借りようとしていた。しかしハンセンは神宮大会当日は既に帰国しているため断られてしまう、そこで馬場の口から出たのは「川田か田上じゃダメか?」だった。鈴木健氏は業界を知らないどころか、全日本プロレスをリサーチしておらず、知っている選手はハンセンしか知らなかったため、川田と田上の価値をわかっていなかった。鈴木健氏は返事を先送りにして話を持ち帰り、髙田に「ハンセンはダメだって。『川田か田上じゃダメ?』って言われちゃったよ。そんなのいらないよね?」と経過を報告すると、驚いた髙田は「何言ってるの!川田がいいよ!」と叫んだ。川田は全日本プロレスでもオブライト相手にUWFを意識する試合を繰り広げていたことから、髙田も川田を高く評価していた。髙田の一言で川田の価値がわかった鈴木氏は全日本プロレスから川田を借りることになり、頭を下げる形での返答は足元を見られると思い「馬場さん、しょうがないから川田でいいや』」と馬場に返事したが、馬場も鈴木健氏の立場も考えて怒りもせず、GOサインが出て川田の参戦が決定となった。
8月31日の全日本プロレス大宮大会に鈴木健氏は髙田と共に訪れ、川田参戦の礼を述べつつ細かい打ち合わせをした。髙田にとって馬場とは1985年11月以来の再会で、この時は第1次UWFが活動休止に追いやられていたことから髙田も馬場から全日本プロレスに勧誘を受けていたが、髙田は前田日明と行動を共にすることを決めていたため丁重に断っており、それを考えると馬場にとって髙田は待ち焦がれていた存在だった。こうして川田のUWFインター参戦が正式に発表されると対戦相手には高山が抜擢された。全日本プロレスが開国を宣言したとはいえ、他団体に四天王の一人である川田が派遣されるインパクトが強かったのもあって、売れていなかったUWFインター神宮大会のチケットが一気に売れ出し、用意されていた前売り券が全て完売、鈴木氏は「あ~ホントに川田でチケットが売れるんだ」と痛感させられたという。
一方出場が決まった川田も「昨日、社長から出ろと言われたから出る。ビックリするも何も返事するのに時間がかからなかった。高山はあまり見たことがない。だから印象も特に何もない。他団体のリングに出ることがオレの望みではないけど、刺激にならないって言ったら噓になる。全日本にとって、この試合をやって、それでいい方に進むのか結果次第、どっちに出るかわからないけど、怖がっていたら何も出来ないしね、他団体のリングに上がっても、オレは全日本プロレスのプロレスをやる。UのリングでUの試合をしても目立たないから」と他団体のリングに上がることで全日本プロレスがどう変わるのか期待と不安を覗かせながらも、あくまで自分の試合をすることを貫くことを語った。
大会当日の神宮球場は好天に恵まれたせいもあって41087人も動員、8月17日より4倍入った。そのほとんどが川田目当てだったことは間違いなかった。髙田戦を控えていた天龍も久しぶりに天龍同盟の一員で弟分だった川田の試合を生で見れるということもあって、メインを控えているにもかかわらずプレーヤーズベンチで試合を見守った。序盤はグラウンドで川田がヘッドロックでリードを奪い、高山が抜けたところで川田が顔面キックを浴びせると、怒った高山はエルボーや張り手の連打を浴びせる。しかし受け切った川田が往復ビンタからタックル、テイクダウンを奪い、バックを奪って亀になった高山の後頭部へエルボー、逃れたところでステップキックと浴びせる。
川田はデンジャラスバックドロップを狙うが、逃れた高山がスリーパーで捕らえ、川田は投げで逃れようとしても、高山は胴絞めスリーパーへ移行するが、川田はロープエスケープする。
高山はローキックを放つと、キャッチした川田は強引に逆片エビ固めで捕らえ、高山はロープエスケープしても、川田はサッカーボールキック、顔面へフロントキックと浴びせる。高山もエルボーやニーリフトの連打で反撃すると、ダウンした川田に腕十字で捕らえるが、切り返した川田が腕十字も高山はロープエスケープする。
川田は高山の左腕へミドルキックの連打を浴びせるが、キャッチした高山はアキレス腱固めも、川田は高山の顔面を蹴って逃れる。高山はローキック、ミドルキックを浴びせると、受け切る川田にハイキックを炸裂させてダウンさせる。
高山はジャンピングニーからジャーマンで投げるが、すぐ立った川田は顔面へフロントキックで返す。高山はニーリフトを浴びせるが、川田がエルボーの連打からデンジャラスバックドロップ、立った高山はビックブーツを連発で応戦する。
川田は高山のビックブーツをキャッチしてショートレンジラリアットを放つと、ジャンピングハイキックを4連発で3カウントを奪い勝利を収めたが、敗れた高山も評価は一気に上がった。試合後に高山は「川田選手の方が器が大きい、そう感じた。もう1回?そうですね、チャンスがもらえるのなら、全日本の、どんな会場でもやらせてもらいたいですね」と川田との再戦だけでなく、全日本プロレス参戦に意欲を燃やした。










メインでも髙田が天龍を腕十字で破り、神宮球場大会は大成功に終わった。これを契機に全日本プロレスに髙田が参戦する可能性が高まったに見えたが、社運を賭けたUWFインター神宮大会は打ち上げ花火に終わってしまったことで起死回生には至らず、12月27日の後楽園大会を最後にUWFインターは解散、鈴木健氏と安生は後続団体としてキングダムを設立するも、髙田はヒクソン・グレイシー戦のオファーがかかっており、それに向けて契約してしまったため、キングダムにはサポートするだけでとどまり参加せず、こうして髙田の全日本プロレス参戦はまたしても幻で終わってしまった。


高山もキングダムには移籍したが、フリーとして全日本プロレスに参戦、1997年3月の武道館ではオブライトと組んで川田、田上組の保持する世界タッグ王座に挑戦、実況席では解説をしていた馬場からは「首が細い」「受身が下手」など指摘を受け、川田のストレッチプラムの前にレフェリーストップ負けを喫したが、その後も引き続き全日本プロレスに参戦しつつ、ダメ出ししながらも長身で体の柔らかい高山の素質を買った馬場が直接指導することで、次第に全日本プロレスに馴染みはじめる。髙田は獲得できなかったが、将来性のある高山を全日本プロレスに参戦させたことは団体としても大きなプラスだった。

そして馬場の敷いた開国路線も様々な波紋を呼び、FWMからはハヤブサ、みちのくプロレスから新崎人生やスペル・デルフィン、愚乱・浪花、冬木軍から邪道、外道、バトラーツから池田大輔も参戦し王道プロレスを学び、98年にキングダムが崩壊すると高山は垣原賢人と共に全日本プロレスを主戦場にしていった。

高山はプロレス界の帝王として駆け上っていくことになるが、そのきっかけは全日本プロレスと出会ったことだけは間違いない。
(参考資料「俺たちのプロレス vol.4」、双葉社 市瀬英俊著「夜の虹を架ける」より)
