殺人魚雷コンビ誕生…ゴーディ&ウイリアムスが駆け抜けた3年間


 1990年、新日本プロレスからトレードという形で全日本プロレスへと移籍したスティーブ・ウイリアムスは2月から開幕する「90エキサイトシリーズ」に参戦、テリー・ゴーディとの殺人魚雷コンビを結成し、21日の後楽園ホールでの開幕戦ではジャンボ鶴田&高野俊二組と対戦して、ウイリアムスがオクラホマスタンピートで俊二から3カウントを奪い初戦を勝利で飾った。

 ウイリアムスは1986年7月に新日本プロレスに初来日したが、アントニオ猪木とタッグマッチで対戦した際に殺人バックドロップを決めて半失神状態に追い込んでしまい、2度目の来日ではシングルで対戦もスープレックスで投げた際にまた半失神状態にしてしまうなど、ピークの過ぎた猪木相手に手がけん知らずで痛めつけたしまったことで、実力がありながらも新日本ではビックバン・ベイダーやクラッシャー・バンバン・ビガロに次いで3番手に置かれていた。

 ゴーディはウイリアムスより先に1983年8月、全日本プロレスに初来日したが、1982年2月にジョージア州アトランタにてジャイアント馬場の保持するPWFヘビー級王座に挑戦しており、マイケル・ヘイズ、バディ・ロバーツと組んでフリーパーズの一員として活躍、その模様が「全日本プロレス中継」で放送されるなど、日本では知られる存在だった。ゴーディを強く推したのは当時全日本プロレスのブッカーだった佐藤昭雄で、将来性を買った佐藤がテリー・ファンクの引退試合の相手に抜擢、それ以降は全日本プロレスの常連となり、特にゴーディの必殺技だったパワーボムはファンだけでなく、初めて食らった天龍源一郎にも衝撃を与え、改良に加えて自身のフィニッシュホールドにしたほどだった。

全日本プロレスの常連となってからのゴーディはハンセンと組むようになり、2度にわたって世界タッグ王座を奪取、1988年には世界最強タッグリーグ戦にも優勝を果たすが、1989年に入るとハンセンは天龍と組んで龍艦砲を結成したためチームを解消、ゴーディは一本立ちを余儀なくされてしまう。

全日本プロレスは当初、ゴーディとダニー・スパイビーとのコンビを計画したが、スパイビーはクロケットプロモーションに参戦していたため来日が出来ず、1989年度の世界最強タッグではゴーディはビル・アーウィンとのコンビでエントリーするも、アーウィンではゴーディのパートナーを務めるのは力不足で、最強タッグも龍艦砲が全勝優勝を果たしてしまった。

1990年に入ると、新日本プロレスではアントニオ猪木が政界進出で社長から退き、坂口征二が社長に就任すると、新日本プロレス2月10日の東京ドーム大会で当時のNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーvsグレート・ムタを実現させようとして馬場と会談する。当時の新日本プロレスと全日本プロレスの間には引き抜き防止協定が結ばれており、全日本プロレスのリストにフレアーの名前があったことから、坂口は馬場に承諾を得ようとしていた。そこで馬場はウイリアムスとのトレードを交換条件にしてトレードが成立し、ウイリアムスの全日本プロレス参戦がこうして決定した。ゴーディとウイリアムスはアメリカMSWAで何度も対戦していて、私生活でもウマが合ったことから、まさしくゴーディにとってもうってつけのパートナーであり、全日本プロレスにしてもゴーディに更なる成長を求めるためには同格のパートナーが必要と考えていたため、ウイリアムスに白羽の矢が立てたのだ。

初戦を圧勝で飾った殺人魚雷コンビは破竹の勢いで連勝を続け、3月2日の露橋スポーツセンターでは前世界タッグ王者組である鶴田&谷津嘉章組と対戦し、ウイリアムスがオクラホマスタンピートで谷津を降し完勝。3・6武道館では龍艦砲の保持する世界タッグ王座へ挑戦する。好勝負が期待されたが肝心の天龍がで右足首を捻挫しており、2・24の一宮大会で鶴田組との6人タッグ戦では、鶴田のリバースインディアンデスロックでギブアップしてしまい、またなぜか今シリーズではハンセンと組む機会が少ないなど、右脚の具合だけでなく、ハンセンとのコンビネーションに不安を抱えたまま武道館大会を迎えてしまった。 

世界タッグ選手権はハンセンが負傷の天龍をなるべく出さず、自分が全面に出て、ゴーディを捕らえてリードを奪おうとするが、足首を負傷している天龍に覇気がなかったことから、次第に殺人魚雷コンビの流れへとなっていく。そして天龍の延髄斬りがハンセンに誤爆してしまうと、殺人魚雷コンビは徹底的に天龍の右足首に集中砲火を浴びせ、最後はウイリアムスの殺人バックドロップからリバースインディアンデスロックで捕獲、ハンセンもイス攻撃でカットに入ったが、先に天龍がギブアップして間に合わず、殺人魚雷コンビが王座を奪取、試合後には天龍の不甲斐なさに怒ったハンセンが天龍に襲い掛かって仲間割れとなり、セミファイナルでバリー・ウインダムを降し三冠ヘビー級王座を防衛した鶴田が天龍の救出に駆けつけるなど、大混乱の中でメインは締めくくられた。

ウイリアムスは新日本プロレスとの契約が残っていたことから、全日本プロレスだけでなく新日本プロレスを股にかけて参戦するも、次第に全日本プロレスに戦いの軸を置くようになる。
殺人魚雷コンビはタッグでは世界タッグ王座は鶴田&ザ・グレート・カブキに敗れ一旦王座を失ったが、破竹の勢いは止まらず、1990年の世界最強タッグでは優勝をかけてハンセン&スパイビー組と対戦、ハンセンは天龍とのコンビを解消した後は、クロケットプロモーションを離脱したスパイビーをパートナーに抜擢してゴーディ&ウイリアムスと外国人四天王を形成する。全日本プロレスも天龍だけでなく谷津、カブキと主力が離脱したため選手層が薄くなり、三沢光晴らが超世代軍を結成しても、外国人四天王に渡り合えることが出来ず、鶴田もパートナーだった田上が三沢同様まだ力不足で、1990年の全日本プロレスは外国人四天王が中心となって盛り立てていた。

殺人魚雷コンビvsハンセン&スパイビーは激戦となり、ハンセン&スパイビーがウイリアムスを捕らえると、ダブルブレーンバスターから合体パイルドライバーと攻め、ハンセンがウエスタンラリアットをを放つために、スパイビーがウイリアムスをハンセンめがけてハンマースルーしようとする。ところがウイリアムスが切り返して、ハンセンのラリアットがスパイビーに直撃しかけるも、スパイビーがスライディングして同士討ちは避けられ、ハンセンのラリアットは改めてウイリアムスに炸裂するも、突進する勢いがなかったため十分にダメージが与えることが出来ずハンセンは勝負所を逃してしまう。
ハンセンは再度ウエスタンラリアットを狙ったが、抱えたウイリアムスがオクラホマスタンピートを決め3カウント、公式戦は30分1本勝負で29分59秒と残り一秒と僅かな差で殺人魚雷コンビが優勝を果たし、空位となっていた世界タッグ王座も奪還。天龍離脱後の全日本プロレスは三沢の台頭もあったが、殺人魚雷コンビも1990年の全日本プロレスの主役だった。

1991年に入ると、新日本プロレスとの契約が切れたウイリアムスは全日本プロレス一本に絞る。三沢ら超世代軍や田上も外国人四天王と互角以上に渡り合うようになり、殺人魚雷コンビは三沢光晴&川田利明に敗れ世界タッグ王座を明け渡したが、91年最強タッグ決定リーグ戦では三沢&川田を破り優勝と2連覇の偉業を達成すると同時に世界タッグ王座を奪還する(当時は最強タッグ開催にあたり世界タッグ王座は返上するルールだった)。またWCWにも進出してNWA&WCW統一タッグ王者になるなど、最強タッグに相応しい活躍を見せた。

しかし殺人魚雷コンビの終焉は突然訪れた。「93サマーアクションシリーズⅡ」ではゴーディが三沢の保持する三冠ヘビー級王座に挑戦する予定だったが、成田空港に到着後に体調不良を訴え病院に搬送されたため、そのままシリーズをドタキャンしてしまった。

1990年7月にゴーディはハンセンを破り三冠ヘビー級王者となっていたのだが、ハンセンと三冠王座をかけて再戦を直前に控えた前日に膝の古傷の痛みを抑えるために非常に強い痛み止めの薬と一緒にウイスキーを飲んだことで心臓麻痺を起こして倒れてしまう。選手権もドタキャンしてしまい三冠王座は返上、ゴーディは一時は心停止するも奇跡的に持ち直して一命はとりとめたものの、この時ばかりは自己管理が出来ないゴーディをウイリアムスが泣きながらきつく叱った。
ゴーディのドタキャンを受けて、ウイリアムスが小橋と挑戦者決定戦を行い、封印していた殺人バックドロップを解禁して小橋を降して三沢に挑戦、王座は奪取出来なかったが、心臓に不安のあるゴーディは休養を余儀なくされ、これを契機に全日本プロレスはウイリアムスを一本立ちさせる。

療養したゴーディは94サマーアクションシリーズに急遽参戦したが、ウイリアムスのパートナーのポジションにはジョニー・エースが座っており、ゴーディは6人タッグなどでウイリアムスと組んだが、2人きりで組むことはなく、このシリーズを最後にゴーディは全日本プロレスを離れた。ハンセンによると素行不良が原因で解雇されたとされているが、殺人魚雷コンビは93年の夏で実質上終わっていたのだ。

最初は全日本プロレスもゴーディを将来の外国人エースと考えてウイリアムスと組ませたが、ゴーディが自滅したことで、ウイリアムスとの立場が逆転してしまっていた。ゴーディが破滅的な性格でなければと思うと、惜しい存在だった。

全日本プロレスを離れたゴーディはIWA JAPANにも参戦してキャクタス・ジャックと画鋲デスマッチで対戦、覆面レスラーとしてWWEにも参戦し、天龍が旗揚げしたWARにも参戦したが、メジャーシーンに返り咲くことが出来ず、日本マットとの交流はNOAHを旗揚した三沢と会談したのが最後となり、2001年7月16日に心不全で40歳の若さで死去した。

一方のウイリアムスは1994年に三沢を破り三冠ヘビー王座を奪取、エースだけでなくゲーリー・オブライト、ベイダーとのタッグで世界タッグ王座も奪取した。1998年にWWEに進出し、WWE主催の格闘技トーナメント”WWF Brawl for All”に参戦する。”WWF Brawl for All”はウイリアムスを売り出すための企画であり、WWEもウイリアムスに期待をかけていたが、準々決勝でバード・ガン(マイク・バートン)にKOされてしまい、WWEの期待を大きく裏切ってしまったことで、ウイリアムスは1年足らずでWWEから解雇され、全日本プロレスに戻った。
ウイリアムスは三沢が離脱後も全日本プロレスに参戦し続けてきたが、武藤敬司体制になると経営が見直され、ウイリアムスもリストラ対象になったことから、長年活躍した全日本プロレスを離れ、同じ時期に離れた全日本プロレスの外国人選手らと共にIWA JAPANを主戦場にする。
IWA JAPAN参戦後はMMAにも挑戦してK-1に参戦、2004年3月14日の新潟でアレクセイ・イグナショフと対戦し1RKO負けをするも、対戦直前に喉頭癌の告知を受けてしまう。ウイリアムスは癌であることを公表して声帯全摘出を行い成功、体重は全盛期から20kgほど減ったものの時折リングに上がるほど回復、WWEのフロント入りしていたエースの依頼でファームのコーチにも就任した。
2009年5月にIWA JAPANに再来日したが、癌が再発し再び治療に専念したが、12月29日に49歳の若さで死去した。

殺人魚雷コンビとしての活動は3年あまりだったが、全日本で一時代を築いたチームだった。 

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