夏休み最後の日にテリー・ファンクが涙の引退…なぜカンバックが支持されなかったのか?


1980年10月、「ジャイアントシリーズ」に参戦するためにテリー・ファンクが来日したが、ロード・ブレアースPWF会長の立会で行われた来日会見でテリーは「私は3年後の1983年6月30日の誕生日に引退をする」と突然引退を発表し会見場は騒然となった。テリーは「第8回チャンピオンカーニバル」参戦後にかねてから痛めていた膝を手術していた。

テリーの発表は全日本プロレスどころか北海道で巡業中だったジャイアント馬場にも事前に知らされておらず驚くしかなかった。テリーは全日本プロレス旗揚げに参戦してから常連外国人選手となり、1977年12月6日に蔵前国技館大会で開催された「オープンタッグリーグ戦」で兄のドリーとのタッグ、ザ・ファンクスでアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク組と対戦した際にブッチャーが持ち出してフォークでメッタ刺しに遭いながらも、懸命に立ち向かう姿を見せたことでテリー人気が一気に爆発、特に女性ファンから支持を受けて親衛隊まで誕生するなど、全日本プロレスにとっても欠かせない選手の一人となっていった。

1981年にアブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本プロレスに移籍すると、テリーの抗争相手は新日本プロレスから移籍した愛弟子の一人であるスタン・ハンセンに代わり、そして全日本プロレスのブッカーも佐藤昭雄に代わっていた。佐藤は日本テレビから派遣された松根光雄社長から全日本プロレスの世代交代を厳命されており、人気のあるテリーの引退は全日本プロレス的にも大打撃だが、全盛期からファンクスを見てきた佐藤もファンクスが実力的にピークが過ぎているころがわかっていたことから、テリーの引退まではハンセン、またブルーザー・ブロディとの世代闘争をテーマとすることになり、ハンセンやブロディもファンクスを押しのけて全日本プロレスでのトップ外国人選手になる野望を強く持っていたことから、全力でファンクスにぶつかっていった。そして全日本プロレスは次第にテリーの引退をビジネスにしようと考えていく。

テリーの引退が迫った1983年、全日本プロレスは同時期に開催されていた新日本プロレスの「第1回IWGP」への対策として、春の本場所である「チャンピオンカーニバル」を休止し、豪華外国人を招いての通常シリーズ「グラウンドチャンピオンカーニバル」を3シリーズに分けて開催、そして7~8月に「テリー・ファンクさよならシリーズ」を開催するために、6月30日に引退するテリーの引退をスライドさせた。ちょうど新日本プロレスはアントニオ猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーを喰らってKOされ欠場していたことから、テリーを使って猪木不在の新日本に攻勢をかけた形となった。

テリーの引退は夏休み最後の日である8月31日の蔵前国技館に決まり、日本テレビも「土曜トップスペシャル」のスペシャル枠で録画ながらも7時半からの9時まで放送されることが決定した。当時の『全日本プロレス中継』は土曜夕方の5時半から6時半に放送されていたが、これは土曜8時時代は読売ジャイアンツの野球中継が入った時には深夜枠に移動されることもあって視聴率的に不安定だったこともあり、時間枠に左右されないために敢えて夕方5:30の枠に移行、夕方の録画放送ながらも安定した視聴率を稼いでいた。だがゴールデンタイムへの復帰は諦めておらず、今回はゴールデンタイム復帰への布石としてテリーの引退をゴールデンタイムでの特番で放送することになった。

テリーの引退の相手は因縁のハンセンとなったが、パートナーには初来日のゴーディが抜擢された。ゴーディはテキサス州ダラスでマイケル・ヘイズとフリーパーズを結成し、エリック兄弟相手に抗争を繰り広げることでトップを取っていた選手で、馬場も1982年にアメリカ遠征をした際にジョージア州アトランタでPWFヘビー級王座をかけてゴーディと対戦していた。そのゴーディを強く推したのは、ブッカーだった佐藤昭雄で、初来日したゴーディは初戦でハンセンと組んで、ジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビと対戦し、ゴーディは天龍に当時はまだ珍しかったパワーボムを披露して3カウントを奪い、ファンに大きなインパクトを与えたが、ファンだけでなく天龍にも大きなインパクトを与え、後に天龍自身もパワーボムを会得してフィニッシュに使うようになる。

引退試合が組まれている「83スーパーパワーシリーズ」には兄のドリーだけでなく、テリーの愛妻でるヴィッキー夫人、長女のステイシーさんと次女のブランディさんと共にテリーは来日、シリーズをこなしながら、8月31日の蔵前国技館を迎え13600人が動員。ジャンボ鶴田がブロディを破ってインターナショナルヘビー級王座を奪取すると、メインの引退試合となり、先入場のファンクスが登場する。試合前に引退セレモニーが行われが行われ、松根社長から感謝状が渡され、試合を終えた馬場も握手でテリーを激励、その後でハンセン&ゴーディ組が登場して引退試合開始のゴングがなった。

 試合はドリーがハンセン組に捕まり、たまりかねたテリーがカットに入る。やっとドリーから交代を受けたテリーはハンセンにナックルを連打を浴びせて流血に追い込むも、ハンセンもテリーの額に噛み付き、テリーも流血する。ハンセンは失速したテリーの古傷である右膝をゴーディと共に攻め、ゴーディもテリー相手に掟破りのスピニングトーホールドを敢行、館内の女性ファンから悲鳴が起こる。

 ハンセンに頭突きを浴びせたテリーはドリーに交代。ドリーはドロップキックの連打やバックドロップで試合を盛り返していく、ドリーはハンセンを場外へ引きつけている間にテリーはコーナーからの回転エビ固めでゴーディを丸め込んで3カウントを奪い、ラリアットを見せる間もなく敗れたハンセンはテリーに襲い掛かるだけでなく、若手らに八つ当たりウエスタンラリアットを浴びせ退場していった。

試合後にテリーはマイクを持ち「アイラブユー!フォエーバー!ジャパン・ナンバーワン!フォーエーバー!サヨナラ!グッパイ!アイラブユー!」と涙ながらに叫び、館内の女性ファンたちは号泣し、「スピニングトーホールド」が鳴り響く中、テリーはリングを去っていった。

テリーの引退試合を放送した全日本プロレスの特番は視聴率14.3%記録、裏番組にフジテレビの「おれたちひょうきん族」テレビ朝日は「暴れん坊将軍Ⅱ」、TBSが「8時だよ全員集合!」が放送されている激戦区の中で数字を稼ぎ、これを契機に全日本プロレス中継はゴールデンタイム復帰に向けて布石を打っていく。中継中に実況の倉持隆夫氏や解説の山田隆などは「テリー・カンバック待望論」を出していたが、この時点でマスコミや全日本、またファンもテリーの引退を信じて疑っていなかった。9月8日の千葉ではハンセンが馬場を破りPWFヘビー級王座を奪取したことを契機に、日本テレビの要望通りに”外国人が主役ではなく、強い日本人を看板にする”ということで鶴田、天龍、ハンセン、ブロディを中心とする路線をスタートさせた。

83年の世界最強タッグにはドリーは馬場と組んでエントリーし、テリーはそのマネージャーとして来日したが、ハンセン&ブロディとの公式戦で超獣コンビに圧倒されるドリーにたまりかねて、テリーは手を出してしまい、84年の2月に行われたニック・ボックウインクルvsジャンボ鶴田のAWA&インターナショナルヘビー級選手権2連戦でも特別レフェリーを務めるなどカンバックへの伏線を作る。テリーの復帰をもくろんだのは馬場自身で、テリーの人気を惜しんだ馬場が引退と称して1年間休養させたうえで復帰させようとしていたのだが、馬場は鶴田がインター王座やAWA世界ヘビー級王座を巻いたとしても、日本テレビや佐藤主導で行う世代交代には内心反発していたのだ。
テリー自身も、このまま引退するつもりで、俳優業をやりながら全日本プロレスの外国人ブッカーとして今後も携わろうとしていたが、佐藤はこれからの外国人ルートはカンザス州のボブ・ガイゲルやノースカロライナ州のジム・クロケット・ジュニアとの関係を重視すべきと考えていたことから、全ての面でファンクスは不要と考えていた。
当然、佐藤の立場としてもテリーの復帰には反対しており「日本の場合は『引退しました。すぐ復帰します』では通用しませんよ」と馬場に忠告していた。テリー自身も「引退した日本でカムバックすることは、ファンのあいだでの評判を少し落とすことになる」「だからといって、頼まれたから復帰したなどと言えるわけもない。俺自身、復帰がファンに対する裏切りになったことを知って心が痛んだ」と危惧していた。だが、馬場から提示されたギャラを見て抱えている借金を返済できると思い、カンバックを決意するが、テリーだけでなく、ドリーも馬場の付き人だった佐藤から肩叩きされることに内心面白くなかったのも復帰を決めた要因だったのかもしれない。

しかし84年8月26日の田園コロシアム大会で特別試合として馬場&ドリーvsハンセン&ブロディが組まれ、ハンセンの挑発に乗ったテリーは遂にハンセンに襲い掛かってカンバックを宣言してしまい、84年の最強タッグにドリーと組んでファンクスとしてエントリーすることでカンバックしてしまい、佐藤の忠告は無視されてしまった。

佐藤は1984年をもってブッカーを降板し地元であるカンザスへと戻る、ブッカーを降りたのは鶴田、天龍への世代交代と経営再建の道筋をつけたということでの降板だったが、テリーの復帰反対を押し切られたこともあり、”これ以上馬場と揉めたくない”と考えた上での降板だった。

テリーの復帰は、テリー自身の危惧、佐藤の忠告通りにテリーの復帰はファンから裏切りと捕らえられてしまい支持されず、また新日本プロレスから長州力らジャパンプロレス勢の参戦もあって、テリーは全日本プロレスで主役に返り咲くことは出来なった。

しかし、テリーはファンから支持を失ったことを契機に絶対的ベビーフェースからアメリカでは本来の姿であるワイルドさを強調したラフファイトへ転換を図り、1993年にFMWに参戦すると大仁田厚とデスマッチで対戦、この頃主戦場にしてきたECWのスタイルを持ち込み、ハードコア路線で再ブレイクを果たす。

2013年10月には古巣の全日本プロレスにドリーとザ・ファンクスとして参戦、健在ぶりを見せつけたが、2015年11月の天龍源一郎引退試合以降来日が途絶え、来日が予定されながらもキャンセルするようになった。理由は愛妻だったヴィッキー夫人の看病で離れられなかったからだったが、2019年にヴィッキー夫人が死去、愛妻の死でショックを受けたテリーは塞ぎがちになっていることが報じられるようになったが、2021年11月23日、テリーが認知症の治療を続けていると、複数のアメリカ国内の専門メディアが報じ、2023年8月24日に死去した。

(参考資料 日本プロレス事件史Vol.15『引退の余波』、「Gスピリッツ Vol.35「特集ザ・ファンクス」以前更新したプロレスヒストリアを追加・改訂しました)

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