アントニオ猪木が引き抜かれた…太平洋上の略奪!


1965年12月のある日に豊登から連絡を受けた新間寿氏は、リキスポーツパレスの近くで豊登が自宅替わりに住んでいた「一柳荘」という連れ込み宿で俗にいうラブホテルを訪れた。部屋に入ると豊登は布団に寝そべっていて、敷布をめくると100万円の束がたくさんあり、新間氏も目がくらんだ、そこで豊登から「見ての通り、金はある。スポンサーの心配もない、テレビとも交渉している。来年4月に旗揚げするからな」新団体設立へ協力を求めらると、プロレス業界に興味を持っていた新間氏は豊登の言葉を信じて協力することになった。新間氏は大学生時代にボディービル練習生として日本プロレス道場に通っていた際に豊登と知り合いになり、それ以降は旧知の間柄になっていたが、新間氏は大学卒業後は大手化粧品メーカーのサラリーマンとなっていた。

力道山死去後の日本プロレスは豊登が社長兼エースとなっていたが、アメリカから凱旋帰国していたジャイアント馬場が11月24日にインターナショナルヘビー級王座を奪取してからは馬場時代へと移行し始めており、ギャンブル依存症だった豊登は日本プロレスの金庫から大量に金を持ち出してギャンブルに流用したことで横領が発覚したことで、内部から突き上げを食らっていた、おそらくだが豊登もこの時点で日本プロレスには自分の居場所はないと感じ新団体構想を練ったと見て思う。年度最終戦が行われた12月24日の昼過ぎに日本プロレスの緊急役員会議が開らかれと、豊登の社長解任が決議されたことで、豊登は31日付で辞表を提出、そのあとで日本プロレスにおける最後の仕事として、凱旋帰国したヒロ・マツダとの記者会見と、日本テレビによる生中継のテレビ解説者を務めあげた後でリキパレス大会を最後に行方をくらましてしまった。

年が明けて1966年1月5日に日本プロレスは正式に豊登が病気を理由に社長を辞任したことを発表したが、会見には豊登が出席せず、入院先どころか所在も明らかにしなかったことで、突然の社長交代劇にマスコミも背後に何かあると感じ始め、翌日には芳の里を中心とした新体制が発足するも、マスコミも豊登の解任された真相は会社金庫からの横領であることが報じられるようになり、新団体設立もうわさされていた。

豊登は団体名を「東京プロレスリング」と命名した。理由は日本の次に世界で知られているのは東京だからだった。早速新宿に事務所を構え、スタッフ、資本金も新間氏が用意したが、豊登が持っていたはずの大金は全てギャンブルに消えていたため一銭も出そうとしなかった。肝心のレスラー集めは豊登が「吉村と遠藤以外の選手は、ほぼ全員ワシに協力してくれる事になっている」ということで豊登りに全て任せており、豊登は全員は無理でも盟友だった芳の里や可愛がっていた大木金太郎、星野勘太郎、高千穂明久が追随することを期待したが、日本プロレスを離脱してきたのは豊登の子飼いだった田中と中堅の北沢幹之、若手だった斎藤昌典と木村政雄だけだった。北沢は豊登から直接電話で誘われ、木村と斎藤は北沢から誘われて移籍を決めたが、期待していた選手が移籍しないことで、豊登は当時アメリカ武者修行していたアントニオ猪木の獲得へと動く。

猪木は力道山死去後の1964年に海外武者修行へと出されており、ロスアンゼルス、オレゴン、テキサス、テネシーなど西海岸、中西部、南部をサーキットしており、ヒロ・マツダやデューク・ケオムカと組んでタッグタイトルも獲得するなど活躍、ダイアナ夫人と結婚して子供も生まれていた。1966年2月に当時テネシー州をサーキットしていた猪木も元へ豊登から連絡が入り「日本プロレスを辞めた、オマエの協力が欲しい」と勧誘された。猪木にとって豊登は慕っていた兄貴分であり、力道山から殴られた時もも豊登が慰め、豊登も猪木と一緒に博打場へも行くなど可愛がり、豊登が社長時代には猪木の素質を見抜いて日本プロレスのエースは馬場ではなく猪木をと考えていた。豊登から勧誘を受けた猪木は3月からロスサンゼルスへ転戦することが決まっていたことから返答は避けるも、豊登は大ぼら吹きの一面もあることから、この時点では相手にしなかった。

2月21日に田中、北沢、斎藤、木村が静岡県伊東市で合宿を開始したことが報じられたことで新団体計画が明るみになるが、肝心の豊登は姿を見せようとしなかった。この頃の豊登は持ち金を全てギャンブルで使い果たしており、拠点と転々としていたが、芳の里を含めた日本プロレスの幹部らも豊登と猪木の親しい関係がわかっていることから、勧誘を受けているのではと勘繰っていた。

3月にロスに到着した猪木は外国人ブッカーだったミスター・モトと会い、モトから「第8回ワールドリーグ戦に出場する予定だから、しばらくロスに待機しなさい、沖さん(沖識名)が迎えに来ることになっているから、後は沖さんに聞いて欲しい」と通知される。今後の待遇に関しては「外国人扱いで週単位でギャラが支払われることになる」とモトから言い渡されると、日本プロレスの所属なのになぜ外国人扱いなのか?と疑問を抱いていたという。猪木は迎えに来た沖に対しても今後の待遇について質問するも「その辺はハワイで吉村に聴いてくれ」と馬場と共にハワイへ来る重役兼レスラーの吉村道明に聴いて欲しいとしか返答せず、猪木は沖に連れられるままハワイに到着したが、馬場と吉村とは別のホテルに泊められることになり、投宿するホテルへ向かうも、ホテルの部屋が予約されておらず、たまたま東京スポーツの山田隆記者がツインの部屋を取っていたこともあって泊めてもらうも、馬場と連絡を取ろうとしても不在だったことで、猪木はますます不愉快な思いをした。

翌日には吉村もハワイ入りし、ワイキキビーチで馬場と吉村、猪木が揃うも、馬場と吉村も猪木が豊登と通じていると疑っていたことから、よそよそしい態度を取り、猪木が今後の待遇に関して質問するも吉村は「そのことはホテルでゆっくり話そう」としか言わず、翌々日になっても待遇に関して吉村は何も切り出そうとしなかった。このことに猪木はますます日本プロレスに不信感を抱くも、そんな状況の中で馬場、猪木、吉村との合宿は進み、誰もが猪木が帰国し「第8回ワールドリーグ戦」に参戦すると思われていた。

そして帰国する19日に樋口から豊登がハワイへ到着することを知らされた。実はロス滞在中に猪木の元へ豊登から連絡が入り、猪木はハワイへ向かうことを豊登に知らせていた。ハワイへ到着した豊登はハワイの実業家であるヒュー山城氏が出迎えた、山城氏は樋口とも旧知の間柄で豊登のタニマチつまりスポンサーの一人だった。猪木は一人の時はトレーニング施設が完備している樋口の自宅でトレーニングしていることから、おそらく樋口は日本プロレスからの待遇も猪木から聞かされており、猪木のハワイでの行動も含めて豊登に知らせていたとみていいだろう。樋口から連絡を受けた豊登はハワイへ向かうも、この時点で東京プロレスは大相撲を廃業した力士らが入門していたことで、莫大な経費がかかって旗揚げ前から資金難に陥っており、新間氏がなんとか資金を用立てて持ちこたえていたのが現状で、豊登のハワイ行きの旅費も新間氏が用立てたものだった。

豊登と再会した猪木は、豊登から「オマエが日本プロレスに戻っても、一生、馬場の下、サポート役だ。日本プロレスは全員、馬場の初優勝を目標に一丸となっている。おまけに馬場は日本プロレス興行の取締役になっている、オマエの待遇は外国人扱いだ。ワシが作る団体では、オマエがエースだ。ワイが引き立て役になる。金も準備している」と口説く落とす、猪木も沖やモトから所属選手なのに外国人選手扱いされることを告げられただけでなく、吉村からも待遇の事を問いただしてもよそよそしい態度を取られるだけでなく返答も得られなかったことから、日本プロレスは必要としているのかわからない。しかし豊登は自分を必要としているし、飛行機嫌いにも拘わらず、わざわざハワイまで出迎えに来てくれた。過去にいろいろ世話になったことで恩義があり報いなければならない、そういう想いに駆られた猪木は豊登に参加することを決意する。

猪木は投宿ホテルからチェックアウトすると、吉村に「用事が出来たので一緒に帰れません」と説明し、吉村は馬場と沖と共に一足に帰国、羽田空港では猪木と一緒に帰国するのではとマスコミが待ち構えていたが、猪木は不在で、吉村からは「私用で2~3日帰国が遅れる」と言うだけで、会見はハワイ合宿の成果のみ報告された。21日に猪木から日本プロレスに「私はフリーになります、ワールドリーグ戦には出ません、おそらく豊登さんと一緒にやっていくでしょうが、とにかくフリーになったことをお伝えします」と連絡を入れ決別を宣言し、東京スポーツの山田記者にも一宿一飯の義理を果たすことで真っ先に日本プロレスを退団してフリーになることを伝え、東京スポーツは速報として真っ先に報道した。

これを受けて日本プロレスが会見を開いたが、豊登が資金を横領したことを正式に認め、日本プロレスには迷惑をかけないという念書まで披露し、所属レスラーを引き抜くことは言語道断として豊登を非難して除名処分とするも、猪木は「豊登に騙されている」という観点から除名処分はされなかった。おそらくだが日本プロレス側もギャンブル依存症の豊登と猪木では例え団体を旗揚げしたとしても上手くいかないだろうと見ていたのかもしれない…

4月23日に帰国した猪木と豊登は新団体「東京プロレスリング興業」設立を発表、猪木が社長を務め、豊登は相談役、新間氏が取締役に就任し、猪木は外国人選手のブッキング、新間氏は営業に奔走するも、豊登だけは何もせず二人に任せきりにしていた。10月12日に蔵前国技館で東京プロレスはやっと旗揚げし、メインでは猪木がジョニー・バレンタインの名勝負を繰り広げて大成功を収めるも、売り上げは豊登が持っていってしまい、ギャンブルに流用されていった。

東京プロレスは興行スタッフや営業も素人同然で、当時資金源とされらテレビ中継もなかったことから興行的に大苦戦を強いられ、選手らもギャラも未払いの状況となっていく、11月21日の板橋大会では決定的な事件が起き、支払われるはずの興行代金が豊登に渡してしまったことで、猪木が怒り試合をドタキャンしてしまい、待たされた観客が怒って暴動騒ぎに発展してしまう。これで猪木と豊登の関係も壊れ、12月には猪木は豊登と田中以外の選手らと共に新会社「東京プロレス株式会社」を設立、この事態を知らされていなかった新間氏は驚くも、猪木と同じく豊登には愛想を尽かしていたことから、猪木側に入ろうとするも、猪木は豊登のスパイとみたのか新間氏を拒絶、そして豊登を横領で告発し、新間氏も監査役でかかわっていた父・信雄共々業務上背任容疑で告訴、これに怒った豊登と新間氏も猪木を名誉棄損と特別背任で逆告訴したことで泥仕合となったことで東京プロレスは最悪の形で終焉となった。

猪木は東京プロレスの一部の選手と共に日本プロレスに復帰し、豊登は東京プロレスの残党と共に国際プロレスへ移籍、新間氏は父の信雄から勘当を言い渡され都落ちして小来川鉱山鉱夫として4年間に渡って極寒の僻地で鉱山労働に従事し、東京へ戻るとセールスマンに戻り、引退していた豊登の面倒を見るようになっていた。

そこで1972年に新間氏は猪木と再会して和解し、新団体「新日本プロレス」旗揚げに協力するようになり、豊登とも和解した。そして豊登は猪木の熱烈なオファーを受けて新日本プロレスの旗揚げ戦で復帰、1973年3月に新日本プロレスに念願のテレビ中継がつくことになると、豊登は静かに新日本プロレスを去っていった。

豊登は1974年10月に猪木vs大木戦のメインレフェリーとして登場するも、それ以降は公の場から姿を消し、1989年2月22日、新日本プロレスの『スペシャルファイト・イン国技館』で行なわれたユセフ・トルコ引退セレモニーに来賓として登場、公の場に久々に姿を見せたがそれが最後の姿となり、1998年7月に急性心不全で死去した。享年67歳だった。

(参考資料=ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.8『移籍・引き抜き・興行戦争』辰巳出版「東京プロレス」)

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