プロレスデビューから70年…力道山プロレス転向の裏側


1950年9月11日、大相撲9月場所を目前である幕内力士が出刃包丁で髷を切って廃業し、各界を去った。その男の名は力道山光浩、番付は西の関脇だった。

力道山は朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里出身で元々韓国相撲のシルムの出身だったこともあって1940年に二所ノ関部屋に入門、1946年11月に初入幕を果たし、1947年の6月場所では横綱の羽黒山、大関の前田山と東富士と優勝争いを繰り広げて優勝決定戦に進出するまで活躍した。

しかし、それ以降は星が伸び悩んで番付も関脇止まりの状態が続いていたが、関脇の番付にいる幕内力士の突然の廃業は新聞で大きく報道された。原因についてはこの時点では力道山が朝鮮出身であることは秘密にされていたこともあって差別的なことは原因とはされず、親方との金銭トラブル説が有力となっている。

力士を廃業した力道山はタニマチ(スポンサー)だった新田新作の新田建設に務めることになり、資材部長のポストで現場監督の仕事に就くも、大相撲への未練は残していたせいもあって、毎日が酒浸りの日々を過ごしていたという。

1951年に大相撲に未練を残している力道山は新田社長を経由して大相撲協会に復帰嘆願を申し出、二所ノ関部屋とも和解して出稽古へ出向き、各界復帰に向けて動き出していた。

1951年9月に宗教団体「在日トリイ・オアシス・シュライナーズ・クラブ」の招きでボビー・ブランズ、オビア・アセリン、ドクター・レン・ホール、アンドレ・アドレー、ハロルド坂田、ケイシー・パーカーら6人のプロレスラーが初来日を果たす。ブランズらの目的は日本の市場調査で、ハワイ・ホノルルのプロモーターでNWAの会員でもあるアル・カラシックは、プロレス未開の国である日本にプロレスが根付くことが出来るか、あわよくばカラシック自身が日本市場に進出しエリア拡大を狙うためにブランズらを派遣したともいわれている。

ブランズは公開練習を行った後で、9月30日にGHQ(アメリカ進駐軍)に接収されメモリアルホールとなっていた旧・両国国技館でアメリカ人レスラーによる日本初のプロレス興行が開催、興行は日本赤十字社がスポンサーとなってタイアップされたが、プロレスルールは浸透していなかったこともあって、観客は在日駐留米軍とその家族が大半で、日本人の観客は少数だった。

そんなある日、ナイトクラブで酒を飲んでいた力道山がケンカとなると、そこでたまたま言わせていた坂田と意気投合する。そこで坂田は力道山にプロレスラーになることを薦めた。力道山は大相撲復帰を働きかけていることから断ったものの、シュライナーズ・クラブからも新田社長を通じ力道山の勧誘し、新田社長も練習に通うように薦める。新田建設はGHQの関連施設の建設を請け負っていたこともあり、力道山は新田社長の顔を立てて渋々練習を見学したが興味を抱いたのか、そのうち練習にも参加するようになり、別ルートから遠藤幸吉も練習に参加した。遠藤は柔道家だったが、柔道は日本が太平洋戦争の敗戦時にGHQによって禁止とされ、そのため遠藤は木村政彦と共にプロ柔道の団体である国際柔道協会に参加したが、興行は不振に終わり、遠藤は木村や山口利夫と共に国際柔道協会から脱退するとアメリカへ渡り、カラシックの誘いでホノルルのプロレス興行にも参戦するようになっていた。

ブランズも日本にプロレスが根付くためには在日駐留米軍だけではなく日本人にも見てもらわなければならない、そのためには日本人レスラーは必要と考えた。力道山には元幕内力士で関脇にまでいったことでネームバリューがあることからスターになる可能性を秘めており、新田社長も各界復帰可能性はかなり低いと考えて、力道山にプロレス転向を薦めたのかもしれない。

28日に力道山はブランズ相手に10分1本勝負でデビュー戦を行い、ブランズの読みが当たったのか、元幕内力士である力道山のデビューしたことで日本人の観客も増え、力道山はブランズらから教わったボディースラム、ハンマー投げ、トーホールドを繰り出して大善戦し時間切れ引き分けに持ち込むことが出来た。14日の横浜大会から遠藤もデビューを果たし、力道山はブランズと共に仙台や、横須賀などを巡業、11日に東京で最終戦が行われ、力道山は負けはしなかったものの勝つことも出来ず、全戦10分時間切れ引き分けに終わった

12日にブランズはアメリカへ帰ることになったが、前夜のお別れパーティーの席上にはわざわざカラシックも来日し、力道山に年明け早々にハワイでプロレス修行することを提案する。しかし、力道山は大相撲復帰に可能性を残していたこともあって協会からの返事を待つために即答は避けた。

そして年明けの1952年に力道山が待ちに待っていた相撲協会への返事が来たが、力道山の予想を大きく裏切り却下され、各界復帰の夢は完全に潰えた力道山はプロレス一本に絞らざる得なくなってしまった。相撲協会が力道山の復帰を却下したのはプロレスデビューを果たしたことが大きな決め手になってしまったのかもしれない。

2月に力道山は羽田空港からハワイへプロレス修行するために出発し、前夜の壮行会には政界、財界を含めて100人以上が出席し、各界からも相撲協会から出羽の海理事長、横綱に出世していた東富士が出席したが、この東富士も後にプロレスラー転向を果たすことになる。

ハワイへ到着した力道山は後に日本プロレスのメインレフェリーとなる沖識名の指導でマンツーマンの特訓を受け、17日にホノルルで本格的なプロレスラーデビューを果たし、その後はサンフランシスコに転戦、1953年3月に帰国、日本プロレス協会設立へと動き、1954年に2月19日に蔵前国技館にベン&マイクのシャープ兄弟が参戦して旗揚げ戦が行われ、当時はテレビ放送が開始したばかりだったが、テレビの電波に乗ったことで力道山だけでなくプロレス人気が爆発、日本にプロレスが根付くきっかけを作った。ブランズは旗揚げ戦にも参加して日本にプロレスが根付いたことをしっかり見届けた。

その後ブランズはNWAの総本山ミズーリ州セントルイスでサム・マソニックの下でブッカーとなり、現場を取り仕切っていたが、現役のころから旧知の間柄だったサニー・マイヤースから日本で新団体が旗揚げするため選手をブッキングして欲しいと依頼される。日本では1963年12月に力道山が急死、1966年に力道山のタッグパートナーだった豊登がアントニオ猪木と共に新団体「東京プロレス」を旗揚げしようとしており、マイヤースは猪木のアメリカ武者修行時代世話したこともあって東京プロレスの旗揚げに協力していた.。ブランズはマイヤースの依頼を受けて当時超売れっ子だったジョニー・バレンタインやジョニー・パワーズなど数人の外国人選手をマソニックの承諾を得て東京プロレスに送り込んだ。契約の際には猪木が渡米しブランズが立ち会ったものの、ブランズも力道山の弟子の一人である猪木の旗揚げに協力することに因縁めいたものを感じていたのかもしれない。

ブランズは1970年にパワーズとペドロ・マルティネスに誘われて共に出資金を出して興行会社を設立したが、テレビ局が付かなかったことで失敗、ブランズも約束されたギャラも支払われなかったことで撤退するが、パワーズとマルティネスはその後テレビ局のハックアップを受けてNWFを旗揚げし成功を収めたことで、ブランズは騙された形となり、失意のブランズはミズーリ州へ戻ってプロレス界から足を洗って業界を引退、1983年1月23日に死去したが、その後NWFは成功したのは最初だけで次第に低迷、権利は皮肉にも東京プロレスが崩壊後に日本プロレスに復帰し、新日本プロレスを旗揚げした猪木へと渡っていった。

2021年9月15、16日に9月30日に両国のメモリアルホールで日本初のプロレス興行が行われ、10月28日に力道山がデビューしてから70年目ということで、新日本プロレス、全日本プロレス、NOAH、DDTを始めとする各団体が揃うイベント『LEGACY』が開催されることになったが、力道山デビューの裏側にはブランズの功績があったことは忘れてはいけない。

(参考資料=ベースボールマガジン社『日本プロレス70年史』」辰巳出版「東京プロレス」)

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