魔界の住人…グレート・ムタ誕生


1989年3月18日、ジョージア州アトランタのWCW TVマッチにてリック・フレアー率いるフォー・フォースメンのエージェントであったヒロ・マツダの紹介で、魔界の住人が出現した。その名はグレート・ムタ、ムタはマネージャーであるゲーリー・ハートを従えて登場し、ジャック・クーガーというジョバーを秒殺してセンセーショナルデビューを果たした。

武藤敬司は1984年に新日本プロレスに入門、この年の新日本プロレスはUWFの旗揚げで前田日明、藤原喜明、高田延彦、木戸修が移籍、維新軍団率いていた長州力もジャパンプロレスへ移籍、維新軍団だけでなく中堅や若手がこぞって移籍したため、選書層の厚さを誇っていた新日本プロレスはたちまち薄くなった影響もあって底上げされるように若手が続々とデビューを果たし、武藤敬司もその中の一人で同期には橋本真也、蝶野正洋がいた。

柔道の猛者だった武藤は入門当初からアントニオ猪木、坂口征二、藤原喜明とスパーリングで互角に渡り合い、新人にもかかわらずムーンサルトプレスを使用するなど、早くも将来のエースと目される存在となった。武藤はヤングライオン杯には優勝しなかったものの、1985年11月から海外武者修行に出され、マツダの運営していたフロリダのCWFに送り込まれた。

この当時のフロリダマットは大プロモーターだったエディ・グラハムの死去後はマツダと日系レスラーのデューク・ケオムカによって運営されていたが、前年から始まったWWF(WWE)の全米侵攻の影響でテリトリー制が崩壊しつつあり、かつての黄金テリトリーだったフロリダマットも例外ではなく、斜陽の影が忍び寄ってきていた。

フロリダ入りしていた武藤は新日本で使っていた黒タイツやシューズしかコスチュームは持っていなかったこともあり、マツダが”その恰好で試合をするの?”と言われたこともあって、忍者グッズストアで黒い頭巾を購入、それがグレート・ムタの原型で、黒にも関わらずフロリダでエースを張っていた大ベテラン、ワフー・マクダニエルによって黒にも関わらずホワイト・ニンジャと命名された。最初こそはベビーフェースで売り出されたものの、すぐワフーを裏切ってヒールターンを果たし、ケンドール・ウインダムとNWAフロリダヘビー級を巡って抗争を繰り広げるなど、大活躍した。

1986年10月に武藤は凱旋帰国を果たした。武藤はアメリカでやっていく自信もつけたことで留まりたかったのだが、全日本プロレスが輪島大士をデビューさせるため、その対抗として武藤を新しいスターとして売り出すことになり、武藤も半年間の武者修行のはずが、武藤自身の希望でさらに半年伸ばしたこともあって、さすがに今回ばかりは帰国要請に応じざる得なかった。だが帰国したもののの、猪木や藤波辰巳の壁は厚く、前田らUWFの存在もあってなかなかトップへの壁は敗れず、また映画の主演に抜擢されて撮影のため長期欠場している間に、長州力らが新日本プロレスへUターンを果たしてしまい、武藤のポジションはたちまち奪われていった。

武藤は新日本プロレスに参戦していたケンドー・ナガサキの要請でプエルトリコへ再修業に出されたが、日本での封建的なやり方に武藤自身も面倒くさくなって海外へ出たいと思っていた矢先のオファーだったこともあって、武藤も喜んで応じ、プエルトリコではペイントをしてブラック・ニンジャに変身、新日本では敵対していたミスター・ポーゴと組んでトップヒールとして活躍したが、ブルーザー・ブロディ刺殺事件が起きたため、武藤はナガサキと一緒にプエルトリコを去らざる得なくなり、7月29日に新日本プロレス有明コロシアム大会で橋本、蝶野と組むためにワンマッチのみ帰国した後で、フリッツ・フォン・エリックのエリアであるテキサスのWCCWに転戦、ここでもスーパー・ニンジャとしてケビン・フォン・エリック、ケリー・フォン・エリックのエリック兄弟と抗争を繰り広げた。

1988年暮れにフロリダで世話になったマツダから連絡が入りWCWへ行くことになった。これまでマツダがケオムカと運営していたフロリダマットはWCWに吸収合併され、マツダもヤマザキ・コーポレーションのエージェントという設定でWCWに登場していたが、マツダは武藤を担当せず、ゲーリー・ハートがマネージャーとして担当することになった。ゲーリーはかつてザ・グレート・カブキの生みの親で、カブキのマネージャーとしても活躍していた人物だった。

WCWとは新日本プロレスの所属だったことも前提にいれて「日本に帰る時にはすべての契約内容を破棄してくれ」の条件も付けて1年契約を結び、ゲーリーからも武藤は童顔なことからペイントをするように指示され、プエルトリコでは簡単に線を書いていたが、WCWから顔全体をペイントで覆い隠せと指示されたことで、全部覆い、ブルーのペイントの上い白い丸を描いた。

そしてマネージャーとなっていたゲーリーがザ・グレート・カブキの息子ということでムタが紹介された、リングネームがムタになったのは、アメリカ人はムトウと発音しづらいため、武藤自身がムタと命名したが、デビュー当初はマネージャーであるゲーリーが喋っているだけでムタは忍法の構えをやっているだけで毒霧は使っていなかった。またゲーリーもカブキの息子としては売り出してはいたものの、安易にカブキのコピーを押し付けず、ムタの独自性を尊重してオリエンタルなムードではなくテクニックで魅せるスタイルにした。

WCWでデビューを果たしたムタは、日本で基礎が出来ているとして、いきなりNWA世界TV王者でライバルとなるスティングと抗争を組まれて王座を奪取、WCWでヒールをやっていたテリー・ファンクとディック・スレーターと組んでフレアーらフォー・フォースメンとも抗争を繰り広げた。テリーとの合体が終わった後はWCWに合流してきたナガサキとバス・ソイヤーと合体、11月16日のアトランタでフレアーの保持するNWA世界ヘビー級王座にも挑戦し、ムーンサルトプレスが決まって、レフェリーではなく、乱入したソイヤーが3カウントを叩いて幻のNWA王者にもなるなど大活躍した。

しかし1989年に入るとゲーリーも失脚してWCWから去り、ムタもベビーフェースへ転向させられた。この頃にはこの頃になるとムタを後押ししていたマツダも内部での権力争いのあおりを食って失脚しWCWから去っていたこともあり、ゲーリーから「ヒールだからトップを取れるが、ベビーフェースになったらランクダウンだ」と言われていた通りムタの扱いが悪くなっていた。そこでメガネスーパーのエージェントになっていた若松市政から新団体に勧誘され、WCWに定着している間の新日本の社長となっていた坂口から全日本とWWFと組んで『日米レスリングサミット』を開催するために帰国を要請され、坂口からビンス・マクマホンを紹介すると言われたこともあって、WWFに行けるかもしれないと考えていた武藤はWCWとの契約を打ち切って帰国、だがその一方で田中氏とも接触し資金力を見たことからSWS移籍に気持ちが傾いていた。ところが筋を通しておこうと当日に引退式を控える坂口に事務所で会って移籍する旨を伝えると、慌てた坂口が田中氏に電話をして武藤の意志とは別に残留することを伝え、坂口も武藤を説得して新日本残留を決めたが、今思えばビンスの名前を出して武藤を帰国させたのは、SWSの勧誘を受けてジョージ高野や佐野直喜(佐野巧真)も移籍し、若松が動いて武藤を勧誘していたことを知った坂口がビンスの名前を出せば武藤は戻ってくるだろうと考えていたのかもしれないが、それだけムタとなって国際派スターとなっていた武藤の存在が大きくなっていたのだ。

こうして新日本に定着することになった武藤は9月7日の大阪で越中詩郎ことサムライシローと対戦。この時はファンが日本におけるカブキ的なことを期待されていたせいもあって、ベビーフェースの試合をして期待外れに終わったものの、武藤も日本でムタでやることに抵抗を感じていたという。しかし14日の広島での馳浩戦では、場外で馳を大流血に追い込み、反則負けになっただけでなく、馳を担架の上へ寝かせてムーンサルトプレスでダメ押しするなど、WCW以上の極悪ぶりを見せる。

1982年8月には長州を破りIWGPヘビー級王座を奪取も、ムタを新日本でやることに抵抗は残っていた。しかし新日本では猪木やハルク・ホーガンと対戦して敗れはしたものの、ムタワールドへ引きずり込み、また父であるカブキ戦ではカブキの額から血が噴き出るほどの大流血に追い込み、WWF帰りの新崎人生こと白使戦では、白使が持ち込んだ卒塔婆を使って流血に追い込むなど、ムタなりの芸術を築き上げていった。

2000年になると新日本との契約が切れたことで、ムタはエリック・ビショフのオファーを受けてWCWと契約し、アメリカへ向かったものの、WCWに戻った頃にはビショフは失脚してビンス・ルッソーがWCWを取り仕切っており、有色人種嫌いを公言していたルッソーはムタを邪魔者扱いして冷遇する。ムタも居心地の悪いWCWを早々に見切って離脱、帰国していった。

武藤は「武藤敬司の役割は懐の深さを証明することだな、武藤敬司は膝が悪いのに頑張って悲壮感は漂っているけど、ムタって悲壮感を極力排除して、いい試合とか関係なく、ただインパクトを残す。ヘタしたら相手を殺しちまって、”こんなしょっぱい試合になったのはムタのせいだ。と文句を言われるぐらいに相手を置き去りにしたり、突き放すのがグレートムタというレスラーですね」と語っていたが、ムタと勝とうが負けようが自分の世界観を築き上げたうえで勝者より大きなインパクトを残す、それが日本で築き上げたムタ像なのかもしれない。

そして2021年6月27日のNOAH ABEMA配信マッチにもムタが降臨して拳王と対戦し、毒霧や炎まで使って拳王を粉砕、自身のアートを築き上げた。新型コロナウイルスの影響で有観客での登場は難しい状況だが、ムタはインパクトというアートを描き続ける。

(参考資料=辰巳出版 GスピリッツVol.34 グレートムタ)

読み込み中…

エラーが発生しました。ページを再読み込みして、もう一度お試しください。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。