第2次世界大戦が終わって3年後の1948年7月、アメリカのプロレスプロモート連盟であるNWAが誕生した。
NWAが発足したきっかけは第2次世界大戦前の1921年にアメリカのプロボクシング興行を統括するNBAが発足したのがきっかけで、NBAは各州で毎週のように開催されるようになったプロボクシング興行から興行税を徴収することが目的で結成された各州のアスレティック・コミッションの集合体であることから絶大な権威を有し、NBAが各階級の王者また挑戦者を認定するというするものだった。NBA内部でこのシステムをプロレスにも援用しようじゃないかと提議され、旧NWA(ナショナル・レスリング・アソシエーション)はNBAのレスリング部門設立された
当時のアメリカンプロレスはその州のプロモーターが認定するヘビー級王者を勝手に擁立して、30年代には7人の世界王者が乱立して収拾がつかなくなっており、その影響もあってプロレスはボクシングより低い地位に置かれていた。その中で権力を持っていたプロモーターはミズーリ州セントルイスのトム・パックスで当時のNWA世界ヘビー級王者だったビル・ロンソンを中心にトップレスラーをたくさん囲い込んで各州にブッキングするブッキング料金を稼いでいたが、そのトップレスラーの一人の中に後にNWA世界ヘビー級王者として長期政権を築くルー・テーズがいた。


1935年8月にサム・マソニックがトム・パックスの事務所に雇われた。マソニックはセントルイスでは大手新聞である「セントルイス・タイムス」の記者であり、スポーツを担当していて特に野球やプロレスを扱っていた、マソニックは毎週のように取材するたびにプロレスの魅力に取りつかれ、取材した縁でバックスからスカウトされてプロレス業界入りを果たした。仕事はプログラム作成やバックスが出場を決めたレスラーに電話してオファーをかけるブッキングで当時は隔週でキール・オーディトリアムで定期興行があったことから多忙だったが充実した日々を過ごしており、またバックスから興行のノウハウを学んだ。
しかしバックスはプロレス以外にもサーカスやオートレースの興行を手掛けていたが、プロレスは大きな儲けがあったにも関わらず、サーカスやオートレースは大赤字を出していた。その影響でマソニックの給料も減り、この頃にはヘレン夫人と結婚していたこともあって、とても生活が出来るレベルではなくなった。マソニックはバックスに「プロレス一本に絞るべきだ」と提言したが、バックスは自分の驕りからか、マソニックの提言を聞き入れず、バックスについていなくなったマソニックはセントルイス市から興行ライセンスを取得したことで独立を決意し、1942年3月に、マソニックはバックスの事務所にいたころの親交を深めた中西部のプロモーターに応援を依頼して、実力派のレスラーをかき集め自派を旗揚げ、この集まりが新生NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)発足の土台となった。
マソニックの独立に激怒したバックスは旧NWA世界ヘビー級王者のロンソンをマソニックに協力したプロモーターに派遣することを中止するなど陰険な処置を取るが、自分に協力してくれたプロモーターが一致団結すればバックスに勝てるという確信があったマソニックは独自で王者を打ち立てて、新NWAの王者にはベテランのレイ・スチールを王者として認定、セントルイスの中でNWA世界王者が二人いるという事態となるが、肝心のマソニックが第2次世界大戦の影響で海軍に招集され、プロモート活動から一時撤退を余儀なくされてしまい、マソニック不在の間はグループの主導権はアイオワ州デモインのプロモーターであるピンキー・ジョージに譲らざる得なくなった。

第2次世界大戦が終わるとマソニックはやっと除隊しセントルイスに戻ってプロモート活動を再開、同じ時期に招集されていたテーズも除隊してバックス派のレスラーとして活動を再開していた。戦争の間にバックス派の旧NWAの世界王者はロンソンからホイッパー・ビリー・ワトソンに代わっていたが、テーズはワトソンを破り王座を奪取、新NWAもレイ・スチールからオービル・ブラウンに王者が代わっていた。1947年12月にバックスからマソニックにプロモートを譲りたいと持ち込まれた。バックスはマソニックと袂を分かってからマソニックの提言を聞き入れてオートレースとサーカスから撤退し、プロレス一本に絞っていたが、負債を清算するまでには至っておらず、高齢に差し掛かっていたためプロモートからの引退を決意してマソニックにプロレスの興行権を売却しようと申し出たのだ。マソニックにとって2派に分かれたセントルイスマットを統一するまたとない機会だったが、売却金額が10万ドルだったため、さすがに持ち合わせがなかった。そこでトロントのプロモーターであるフランク・タニー、モントリオールのプロモーターであるエディ・クインにも出資してもらい、共同出資という形でバックスから興行権を買収、こうしてセントルイスマットは統一されることになった。

1948年7月にNWAが正式に発足、初代会長にはピンキー・ジョージが就任し、会員もマソニックを含めてたった5人という少数でのスタートだった。まず最初の仕事は新旧NWAの王座を統一することで、ピンキー・ジョージはこれまでの新NWA世界王者であるブラウンを押し、マソニックはバックスが認定した世界王者であるテーズを押したため意見が真っ二つに割れる。マソニックは記者時代からテーズをテーズを高く評価しており、将来の世界王者としてプッシュしていた。1949年11月25日に会場もアメリカ中西部最大の会場であるジ・アリーナ、後にNWAの総本山とされるチェッカードームで二人による王座統一戦が行われることになり、チケットも前売りで17500枚の完売、統一戦をプロモートすることになったマソニックにとっても稼ぎ時だったが、11月1日に肝心のブラウンが巡業先で交通事故に遭い意識不明の重傷を負ってしまう。幸いブラウンは意識を取り戻したものの全治3か月と診断されたため、統一戦はキャンセルされることになった。この時はブラウンの代役を立てるか、延期も提案されたが提案されたが、延期案はブラウンはレスラーとして再起不能の重傷だったことから延期という選択肢はもうなく、代役案もマソニックは「それをやったらプロモーターとして信頼がゼロになる」と拒否し、チケットの払い戻しに応じたが、このことでマソニックはプロモーターとしての信頼度を高めることになる。統一戦が行わるはずだった日にNWAの会員が揃い、統一戦はテーズの不戦勝ということでテーズが王者となり、引退するブラウンには多額の功労金が支払われた。
NWA王者となったテーズはアメリカを代表するレスラーとなって、NWA躍進の原動力となり、1950年にテキサス州ダラスで行われたNWA総会では会員プロモーターも26人に増えていた。そして初代会長だったピンキー・ジョージが退いて、マソニックが2代目会長となり、やっと主導権を奪い返したマソニックはテーズと共に長きにわたって黄金時代を築いていった。(続く)

(参考資料=GスピリッツVol.57「NWA」ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史 Vol.18 会場・戦場・血闘場)
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