日本プロレスでのクーデター事件でジャイアント馬場やアントニオ猪木から裏切り者とされた上田馬之助は、大木金太郎と坂口征二が中心となった日本プロレスでやっとトップの一角を担うようになるが、馬場と猪木の抜けた穴は残ったメンバーだけでは埋めきれないほど大きく、上田は1973年3月に大木金太郎と組んでインターナショナルタッグ王座奪取して、やっと日本でビックタイトルを獲得したが、坂口が離脱して新日本プロレスへ移籍した後で唯一の資金源だったNETのテレビ中継が打ち切られてしまい、せっかく奪取したインタータッグ王座もフリッツ・フォン・エリック&キラー・カール・クラップとの防衛戦で敗れて転落、そしてすぐに日本プロレスは崩壊した。
上田は芳の里や力道山家のとりなしで大木ら日本プロレスの残党と共に全日本プロレスへ移籍したが、待っていたのは冷遇で、上田は前座か時折り試合から干されるという扱いを受けた。全日本に見切りをつけた上田は家族と共にアメリカへ渡ったが、上田を含めた日本プロレスのレスラー達は日本テレビからの派遣という形で全日本に参戦しており、1976年4月まで全日本以外のリングには上がってはいけないという契約を結ばれていたことから、この時点では上田は日本マットに上がれず、海外を拠点にせざる得なかった。

1976年4月を過ぎて日本テレビとの契約が切れて、やっと自由の身になった上田は動き始め、馬場や新日本プロレスのアントニオ猪木に挑戦を表明した。馬場は全日本を勝手に辞めたとして上田を相手にする気はなかったが、新日本プロレスは猪木が日本マット統一を掲げてストロング小林や大木金太郎と対戦していたことから、新日本なら可能性があると考えていた。しかし、この頃の猪木は日本マット統一から異種格闘技戦へとシフトを変えており、日本プロレス時代の地味なイメージや、猪木もクーデター事件のしこりも残っていたことから上田を相手にする気はなかった。
あてが外れた上田は日本プロレスの最後の社長だった芳の里に相談すると、国際プロレスの吉原功社長を紹介する。芳の里と吉原社長はかつては商売敵同士でもあるが、プライベートでは盟友同士であり、日本プロレス崩壊後は芳の里を東京12チャンネルで放送していた「国際プロレスアワー」の解説者に招くなど良好な関係を築いており、また吉原社長も上田のガチンコでの強さを高く評価するだけでなく、上田も吉原社長の人間性に好感を持っていた。
国際プロレスに逆上陸を果たした上田は髪の毛の一部を金髪に染め、アメリカでは親友だったリップ・タイラーと共に外国人側に立ち、これまで地味なイメージを一新して凶器攻撃や反則主体のヒールファイトに徹したことで、日本マット初の日本人本格的ヒールとして注目を浴び、6月11日の茨城県古河でラッシャー木村の保持するIWA世界ヘビー級王座に挑戦、上田はショルダータックルを狙い、木村が避けたところでレフェリーと交錯させて無法地帯を作ってから、凶器攻撃で木村から3カウントを奪い王座を奪取に成功する。


ベルトを奪取して上田はこのまま国際プロレスに定着するかと思ったが、26日に上田が代理人と突如会見を開いて再び猪木に挑戦を表明する。上田は猪木への挑戦は諦めておらず、水面下で代理人を通じて新日本と交渉していたのだが、最初こそは新間寿氏も「モハメド・アリ戦の準備で忙しい」として相手にせず、アリ戦が終わったタイミングで改めて挑戦表明をすると、IWA世界王座を奪取したことで商品価値が上がった上田に注目し、国際プロレスから引き抜くことを決意する。これは吉原社長も知らず上田の独断での会見だったが、上田にしても自分を拾ってくれた吉原社長には恩義はあるものの、IWA世界王座を奪取したことで充分な実績を積んだとして次なる標的を新日本に定めたのだ。
上田の挑戦表明に新間氏が見解を出し「猪木に挑戦したいのであれば、IWA世界ヘビー級王者として新日本に参戦し、坂口征二かストロング小林のどちらかに勝つこと」と条件を出した。新間氏がこういう条件を出した理由は、当時全日本プロレスと提携していた国際プロレスを潰しで、上田が国際プロレスの至宝であるIWA王座を勝ったまま持ち逃げすれば、IWA王座の権威どころか、団体としての国際プロレスのイメージを大きく下げる出来ると考えたからだった。
新日本の意図に気づいたのか、吉原社長は上田は信用できないとして早速ベルトの”回収”へと動き出し、7月20日の銚子大会でIWA王座をかけて上田vs木村の再戦を組み、完全決着の意味で国際プロレスが得意としている金網デスマッチで行い、勝ち逃げや持ち逃げ阻止の態勢を敷くも、試合は木村が掟破りの急所攻撃からブレーンバスターで上田を追い込んだところで、上田が凶器でレフェリーをKOしたため無法地帯となり、上田のセコンドに着いていたスーパー・アサシンと木村のセコンドに着いていたマイティ井上が乱入したため、完全決着ルールにも関わらず没収試合となり、ベルトはコミッション預かりとなって31日の越谷で再戦が行われることになる。

ところが上田は左肩を負傷して越谷大会を欠場、IWA王座は木村とアサシンの間で王座決定戦が行われ、木村が勝って王座を奪還するものの、上田はこの大会をもって国際プロレスを去った。井上は「あの負傷は絶対ウソ、仮病だったと思います。上田さんは既に新日本に上がる話を決めてましたから、木村さんに負けて商品価値を落としたくなかっただけです」と当時を振り返っていたが、アサシンのセコンドに着いた上田は左腕を吊っていたのにも関わらず、木村に襲い掛かっていたことから、井上の証言は信ぴょう性は高いかもしれない。国際プロレス側にしてみれば、ベルトの持ち逃げという最悪の事態は避けられたものの、勝ち逃げはされたままで、国際プロレスや木村のイメージを大きく下げてしまった。新日本にしても、国際プロレスのイメージさえ落とせば良しとしたのかもしれない。
上田は8月5日の蔵前国技館大会から新日本への参戦が決まり、小林との対戦が組まれたが、上田はあくまで標的は猪木としたのか、左肩の負傷を理由にキャンセルすると、メインで行われた猪木vsタイガー・ジェット・シンの試合後に現れ、猪木に挑戦状を手渡す。ところが猪木は挑戦状を読まないどころか放り捨て、上田の顔面をビンタを浴びせ、シャツを引き裂いて「顔じゃない」と態度を取る。これに怒った上田が猪木に襲い掛かり、これで猪木との一騎打ち実現かと思われた。

ところが新日本はなかなか猪木とのシングルを組もうとせず、アメリカに一旦戻った上田が10月に帰国しても、猪木はアンドレ・ザ・ジャイアントとの異種格闘技戦が組まれていたため、新日本どころか猪木も上田をなかなか相手にしようとしなかった。1977年1月にシンと共闘という形でやっと新日本参戦に漕ぎつけ、1978年2月8日の武道館で新日本初の釘板デスマッチで猪木とのシングルが組まれるも、猪木のショルダーアームブリーカーの連発に左腕を破壊されTKO負けを喫し、その後はフェンスマッチなどで猪木と対戦したが、猪木に勝つことが出来なかった。そして上田は1977年3月31日の蔵前国技館大会の控室で当時のワールドプロレスリングの解説者を務めていた遠藤幸吉が控室をリポートをしている際にシンと共に遠藤を襲撃、シンはサーベルで遠藤を殴打するだけでなく、上田も思い切り蹴りつけた。遠藤への暴行は上田も自分が全日本や海外で苦労しているのにも関わらず、解説者として新日本プロレスに潜り込んでいた遠藤に対する怒りや恨みが込められていたのかもしれない。
上田は1979年4月にマサ斎藤と共に国際プロレスに参戦、この頃の国際プロレスは提携先を新日本に乗り換えており、上田と斎藤は新日本からのブッキングという形で参戦となったが、井上を始めとする選手たちは砂をかけるように国際プロレスを去っていった上田の参戦を納得していなかった。それでも木村とIWA選手権をかけて再戦、鶴見五郎とのタッグで存在感を発揮し、また大木が保持していたインターナショナルヘビー級王座にも挑戦した。
1981年になると上田は新日本を離れ、全日本に参戦。上田の移籍はシンの要望からで、馬場も上田の参戦は歓迎していなかった。それでも上田はvs馬場をアピールして1983年3月3日の後楽園大会で実現となったが、馬場の裏技の一つであるアームブリーカードロップの連発で猪木戦同様左腕を破壊されてTKO負けを喫した。馬場がここまで上田を痛めつけた理由は、上田もデビュー当時はガチンコは出来ないという認識だったが、馬場はアメリカでフレッド・アトキンスやビル・ミラーからアメリカンプロレス流のシュートテクニックを教わっていたことから、上田に対して”オレもその気なればガチンコは出来るんだ”と見せしめる意味が込められていたのかもしれない。全日本でも馬場とのシングルは何度も組まれたが、猪木どころか馬場にも勝つことは出来なかった。
その上田の実力が再評価されたのは、新日本に戻ってからでvsUWFでは新日本側の助っ人に加わり、前田日明とのシングルでは顔面へのハイキック以外は前田のキックを平然と受けきり、前田相手にレッグロックを披露するなど、持ち前のガチンコの強さを発揮したが、新日本との契約が切れるとアメリカマットはWWEの全米侵攻によってテリトリー制が崩壊し、アメリカを拠点にしていた上田も日本を拠点に置かざる得なくなり、新日本だけでなく全日本も大ベテランとなった上田を起用する気はなく、IWA JAPANやNOWなどインディー団体を転戦せざる得なくなったが、1996年に交通事故に遭遇、頸椎を損傷して胸下不随となって車椅子での生活を余儀なくされ、2011年に死去した。
今思えば上田はなぜクーデターを企てたのか、腐敗していた日本プロレスを正すだけでなく、アメリカでは評価されても日本では馬場と猪木と比べて上田は陰のように扱われ、日陰の存在だった上田は日本プロレスを正すことで一度でいいから陽の当たる場所へ立ちたかったからではないだろうか…日本プロレスにおけるクーデター事件は日本プロレス界全体を揺るがし、馬場と猪木がそれぞれ独立するという一大転機となった事件でもあったが、上田もレスラー人生を大きく左右され、ガチンコでは強くても日本では地味で一介のレスラーだった上田が金髪となって一大ヒールに転向したきっかけにもなった事件でもあった。
(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.29 『襲撃・乱入』)
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