日本プロレスクーデター③こうして猪木は日本プロレスから追放された


1971年12月4日の仙台大会を終えた日本プロレスの選手らは帰京、名古屋大会から姿を消していた上田馬之助も出席して緊急選手会が行われ、アントニオ猪木は席上、自分達のやってきた行動を認めて選手会に謝罪、ジャイアント馬場も選手会長辞任を申し入れたが、その際に猪木は幹部らに密告した上田を睨みつけたという。新しい選手会長には大木金太郎が選任され、芳の里もこの時点では猪木の謝罪を受け入れ、猪木に対する処分も先送りにされた。

ところが6日の新選手会長になった大木が馬場、猪木、上田を抜きにして選手会を招集し猪木の除名を求める連判状を作成、当日行われる水戸大会から猪木の出場を禁止を求め、要求が認められない場合は大会をボイコットも辞さない姿勢を見せる。大木は以前から馬場、猪木に対して良い感情を持っておらず、猪木が東京プロレスから日本プロレスに復帰した際も、猪木にNo.2の座を奪われたことで不満を抱いており、猪木らの改革の嘆願書も馬場や猪木の主導だったということで嘆願書にはサインしていなかった。大木はこのクーデター騒ぎを馬場、猪木を追い落とすチャンスと見ており、猪木が窮地となったと見るや、大木は巡業を欠場して東京まで戻り、自身が選手会長に就任されるよう芳の里らに働きかけた。選手会長の座を求めた理由は、大木が選手らを取りまとめる立場となれば、事実上のエースになれると考えていたからだった。

大木の連判状には猪木からリストラ対象にされた相撲上がりのレスラーらが賛成して署名、坂口も署名したが、坂口は会社の事情もわかっていなかったことから、大木に言われるままに署名したに過ぎなかった。芳の里も大木らに押し切られる形で猪木を除名せざる得なくなるも、シリーズには猪木は最終戦の大阪ではドリー・ファンク・ジュニアの保持するNWA世界ヘビー級選手権に挑戦することが決定していたため、処分はシリーズが終わってからということで大木らを説得し、選手らは巡業が行われる水戸へ向かっていくも、猪木側に立っていた山本小鉄も選手会に辞表を出し、孤立した猪木と腹心であるユセフ・トルコと行動を共にせざる得なくなったが、このことはマスコミに漏れないため極秘とされた。

12月7日 札幌中島体育センターで馬場と猪木のB・I砲は保持していたインターナショナルタッグ王座をかけて、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのザ・ファンクスの挑戦を受けたが、この日も選手たちからの袋叩きを警戒して、猪木は別行動を取り、ホテルで試合コスチュームに着替えて会場入りしたが、これを目撃した日本テレビ側も内部で何かが起きていると察知したという。周囲から孤立したことを受けて猪木に覇気がなく、1本目は猪木があっさりドリーにフォールを奪われ、2本目は馬場がテリーを降してタイに持ち込むも、3本目は馬場がテリーに3カウントを奪われてしまう。試合後の猪木は小鉄らと共に、すぐ会場から出て選手会とは別のホテルに宿泊したが、馬場とのB・I砲、日本プロレスにおける試合もこれが最後となった。

8日に猪木はトルコの薦めで都内の病院へ入院、これは都内へ戻っても選手らの襲撃があるかもしれないと考えた措置で、身を守るために仮病を使って入院したものだった。猪木は結婚したばかりの倍賞美津子さんに診断書を持たせて、日本プロレスの事務所へ向かわせ、残り日程を欠場すると申し入れた。9日の大阪で行われる予定だったNWA世界ヘビー級選手権には猪木の代わりに坂口がドリーに挑戦したことで穴埋めは出来たが、日本プロレスも日本テレビ、NET両局に猪木が追放されると根回しし、シリーズが終えた翌日の13日に社長の芳の里、選手会長の大木、協会長の平井義一が会見を開き、選手会全員による猪木除名決議書が提出されたと報告し、猪木が日本プロレスから除名・追放したことを正式に発表した。記者会見を終えた選手らは猪木追放を祝してビールで乾杯となったが、若手だった藤波辰巳だけは同席せず、猪木のもとへ走る決意を固めた。

これを受けて猪木、木村も翌日に会見を開き、改革の正当性を主張、途中で手を引いた馬場や上田を非難したが、猪木は最終的に独立して新団体「新日本プロレス」を旗揚げすることを決意、山本小鉄、猪木の付き人だった藤波、トルコの付き人だった木戸修が日本プロレスに辞表を出して退社し猪木に追随、トルコも翌年には解雇され、猪木派は一掃された。

なぜクーデターが失敗したことで猪木は後年「会社経営に疎い我々レスラーにとって、木村の経理の知識は武器となったが、今考えれば、木村という男を選んだのは私の大きな間違いで、木村としては日本プロレスに食い込み、金を引き出そうとしていたのだろう。木村が隠れて切った小切手がきっかけで、ほかの選手らが不信を抱いた」としていたが、小鹿ら選手からも木村に関しては金に汚い話もあったことから、木村はあわよくば自身が遠藤幸吉に取って代わって日本プロレスの経理をコントロールできる立場になりたかったのもしれない。しかし、猪木も木村が元・警察官だったという経歴を信用して、自身の側近に据えたの大きな間違いだったが、以降も猪木が怪しい人物を信用して事業に手を出しては失敗するなど、脇の甘さは後年になっても変わることはなかった。

クーデター事件が終わった後は馬場もこれで日本プロレス側も考えは改まるのではと思ったが、体質はそう簡単に変わることもなく、馬場自身もエースでありながら選手会長の座を大木に奪われたことで、発言力を大きく低下させていった。そしてNETが番組の主役である猪木を失ったことで、馬場の試合を放送してほしいと申し入れると、日本プロレス側はこれまで日本テレビで独占していた馬場の試合をNETでも放送することを決定してしまう。これには役員である馬場日本テレビ側に立っていたこともあって猛反対したが、これも馬場の発言力が低下したことが現れたのか、日本プロレス側に押し切られてしまい、NETで馬場の試合が放送され、取り決めを破られた日本テレビは怒り、旗揚げから放送してきた日本プロレスの中継を打ち切ってしまう。

発言力もなく、名ばかりのエースの座に嫌気がさした馬場も日本プロレスから離れることを決意、一時はかつての主戦場だったアメリカへ戻ることを考えたが、日本テレビの後押しを受けて新団体「全日本プロレス」旗揚げへ動き出した。

猪木は後年「(B・I中心になっても)うん、また分裂があったかもしれないね、(結果的にはそれでよかった?)、まあよかったとしても、そうなっちゃんで今言ってもしょうがないんだけど」と答えていたが、仮にクーデターが成功したとしても、依然馬場派や猪木派と派閥があり、馬場や猪木に対して面白くない気持ちを持っている大木がいる限りは、日本プロレスは”まとまりのなさ”というものを抱えたままで、それらを抑えていた芳の里や吉村道明を排除したことで、よけいにまとまりを欠いてしまい、SWSのように分裂していたのかもしれない。

猪木は1972年3月に新日本プロレスを旗揚げ、木村氏も重役の一人として参加したが、プロモーターであっても巡業に関してはど素人で、会社に来たとしても自分の業務をするだけだったこともあって、猪木は東京プロレス時代に袂を分かっていた新間寿氏を招いてサポートしてもらうことになり、木村氏はしばらくして新日本から離れたが、おそらくこれ以上猪木と組んでいたとしても自分の利益にならないと見ていいだろう。

しかし新間寿という軍師を獲得し、坂口も新日本に合流、日本プロレスの中継を打ち切ったNETがテレビ中継を開始するなど、木村氏がいなくなってから新日本プロレスは躍進した。
猪木を裏切ったとされた上田は日本プロレスに最後まで留まったことで、全日本プロレスに合流せざる得なくなったが、待ち受けていたのはいばらの道だった。
(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol.3 年末年始の大波乱」GスピリッツVol.50「BI砲時代の日本プロレス」Vol.56「日本プロレス黄金時代余話」)

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