日本プロレスクーデター①腐敗した団体を正すための改革


ジャイアント馬場への挑戦問題は却下されたものの、これで自身の存在を大きくアピールすることが出来たアントニオ猪木は絶頂期で、坂口征二と組んで「第2回NWAタッグリーグ」に優勝、翌日に倍賞美津子と1億円といわれた超豪華な挙式を挙げ、12月9日の大阪府立体育会館ではNWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアに挑戦が決定するなど、公私とも最良の年末になるはずだった。

しかし挙式を終えたあたりから猪木は上田馬之助と共に日本プロレスの改革に動いていた。日本プロレスは日本テレビ、NETの2局から巨額な放映権料や興行収益により経営は引き続き好調を維持し、自社ビルまで建設するなど潤っていたが、幹部たちも自分らの言い値で給料を決めていたこともあって、選手らより高い給料を貰っており、社長である芳の里は銀座で豪遊、遠藤に至っては相変わらず売り上げの一部を抜いて自分の懐に入れるだけでなく、会社近くの高級レストランで1万円もするステーキを連日食べ、レフェリーの九州山に至っては給料以外にコーチ料の名目で高額の手当をもらうなど、経理は杜撰のままで、レスラー達も幹部達が選手より高い給料を貰っている現状に不満を抱いていた。

その現状に憂いたのが上田馬之助だった。上田は1960年に大相撲から転身して日本プロレスに入門、ジャイアント馬場、アントニオ猪木とは同期で、上田は1960年に大相撲から日本プロレスに入門、ダブルリストロックを得意としていたことから自身でもガチンコの強さを自負していたが、試合スタイルは地味過ぎて、レスラーとしては面白みが欠けるため、ファンは感情移入しづらく、また元来の人の好さもあり、周囲の人間を大事にすることもあって、同期に対するライバル意識は薄く、そのせいもあって馬場と猪木に先を越されてしまい、同期に後れを取るようになった。

1966年に念願だった海外武者修行に出されると、ヒールとして活躍したことをきっかけに、やっとプロレスに開眼して「第9回ワールドリーグ戦」にエントリーするために1967年4月に凱旋したが、日本ではベビーフェースとして扱われるため、海外と違って思うような活躍は出来ず、中堅で燻るようになり、馬場どころか出戻りの猪木、大木金太郎、吉村、デビューしたばかりの坂口征二、アメリカから凱旋した山本小鉄、星野勘太郎に差をつけられてしまい、本人の希望で1968年にアメリカへ再修業しヒールとして活躍するも、日本に帰国すると以前と変わらず中堅で燻る日々が続き、タイトル戦線にも加わることすらなかった。

上田は選手達が血と汗を流した稼いだ金を、幹部達が銀座で豪遊するなどして使っていたことで、「自分らの稼いだ金は選手らにもっと還元すべきだ、何もしていない幹部らが選手より高い給料を貰っているのはおかしい」と改革を考えるようになったが、一介の選手では発言力がないため、猪木に相談を持ち掛けた。猪木とは「第9回ワールドリーグ戦」開幕前の合同練習で、東京プロレスが崩壊して去就が注目されていた猪木がまだ復帰会見を待たずにサプライズで現れて合同練習に参加するも、馬場ら所属選手とは溶け込めずに独りでいると、上田が笑顔で「猪木さん、久しぶり!一緒に練習しようよ」と声をかけたことがきっかけになって、他の選手らと合同練習の輪に加わることになり、それ以降は猪木も上田とは心を許せる相談相手となっていた。

猪木も以前から日本プロレスの経理面に不信を抱いており、いつか追及する機会を伺っていたことから、上田に同調して改革に乗り出すことになり、それに猪木の側近だった木村昭政が加わることになった。木村は日本プロレスの興行を請け負うプロモーターの一人で税理士の資格を持っているこということで、猪木の側近となって後援会事務局でアントニオエンタープライズの取締役となり、また上田とも旧知の間柄だった。その木村がどこから入手したのかわからないが、日本プロレスの二重帳簿を入手し、幹部達が不正をしていると確信した猪木らは幹部達の追及することを決意するが、ここで上田が馬場に話を持ち掛けることを提案する。当時の馬場は役員の一人で選手会長となっており、幹部達に対して発言力が強かったこともあって、馬場や選手会の後押しを受ければ猪木らにも勝ち目が出てくると考えていた。

猪木と木村も馬場を抱き込むことに同意して、早速馬場に話を持ち込んだ。この時の馬場と猪木は互いの派閥があって対立していたとされているが、対立していたのは双方の周囲だけで決して対立し合っていたわけでなく、上田は馬場とは仲は悪くなかったものの、入門当初は馬場がガチンコなどセメント的なことが苦手とあって、ガチンコが得意だった上田は内心、ガチンコが得意としていない馬場をトップに立たせていることに疑問に思っていた。

猪木と上田からの話を聞いた馬場も不明瞭な経理には疑問に思っていたことから、木村に経理面の調査を依頼することで3人は合意し、その後も馬場、猪木、上田の間で何度も話し合って改革案を練り上げ、年末シリーズ直前で木村が「資料が揃い次第、臨時取締役会を開催して芳の里、遠藤幸吉、吉村道明の退陣を要求する」「馬場が社長、猪木が副社長と二人を中心とした選手主導の新体制を発足させる」とクーデターを提案するが、馬場が「不意打ち的なやり方では世間がクーデターととらえるからまずい」と難色を示し、「まず。改革案が飲めるかどうかを打診して、それが飲めないのであれば、次のステップへと考えるのが筋だ」と提案する。馬場の提案には猪木と木村は納得しなかったものの、馬場がここで手を引いてしまうと改革そのものが挫折すると考え、馬場の提案を飲むことになったが、馬場も猪木の考える改革案には若干乗り切れないものがあった。理由は木村が二重帳簿をどこから入手したか明らかにせず、プロモーターの一人であるが外部の人間である木村が口を出すのはどうかと疑問に思っており、金に汚い遠藤は追放されても仕方ないとしても、温厚な芳の里や吉村まで追放するのは横暴すぎる、遠藤さえ取り除けば幹部達はこれまでの考えを改めるだろうと考えていたからだった。

年末の「ワールドチャンピオンシリーズ」が後楽園ホールで開幕し、シリーズにはNWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアがテリー・ファンクと共に来日し、12月8日の大阪府立体育会館大会では猪木がドリーの保持するNWA王座に挑戦することが決定していた。11月18日のシリーズ開幕戦である後楽園ホールでの大会開始前に猪木と上田が選手達に対して会社の改革案を説明すると、馬場と猪木、上田を始めとする選手達が賛同する意味で署名したが、坂口征二はまだ若手だったこともあり、会社の事情がわかっていないため署名せず、また大木金太郎もなぜか署名せず、馬場は事前に署名はしたものの説明の場には同席しなかった。

シリーズは巡業に入り25日の広島大会を終えた選手らは東京へ戻り、馬場らは28日には臨時役員会が開かれ、「日本プロレスの経理明朗化と健全な経営」と、芳の里ら幹部達の退陣を要求する。幹部達の退陣は幹部達の抵抗もあり、馬場も早急な改革を望んでいなかったことから先送りとなり、経理全般の監査を木村に任せることで、その場は収まったが、吉村は怒ってブッカーを降板、マッチメークは馬場と上田に移譲、また経費で不明瞭な面が多い遠藤は選手らから吊るしあげを食らった。

これで馬場、猪木、上田による日本プロレス改革は始まったが、夜に異変が起きていた。(続く)

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