全日本プロレス中継がゴールデンタイムに復帰…日本で実現したNWA、AWAダブルタイトル戦


1985年10月、これまで土曜夕方5時半に放送されていた「全日本プロレス中継」が土曜夜7時の枠に昇格し、ゴールデンタイムで再び放送されることになった。

全日本プロレス中継は全日本プロレスが旗揚げから土曜日夜8時に放送されたものの、「8時だよ!全員集合」などの強力な裏番組に押されるだけでなく、プロ野球シーズンになると読売巨人軍の中継が最優先で放送されるため安定した視聴率が稼げず、1979年4月からは土曜夕方5時半の枠に降格となるも、それは安定した視聴率を稼ぐための措置で、生中継は出来なかったが土曜日夕方の枠となってからは安定した視聴率を稼いでいた。しかし、ゴールデンタイム復帰は諦めたわけではなく、土曜夜の特番枠である「土曜トップスペシャル」で全日本プロレスが特番で放送されると、10%台の視聴率を稼いでいた。そこで1985年1月に長州力らジャパンプロレスが全日本に参戦を果たすと、夕方枠ながらも全日本プロレス中継は高視聴率を稼ぐようになり、日本テレビはゴールデンタイム復帰にGOサインを出した。

ゴールデンタイム復帰が決まった10月、全日本プロレスは「’85ワールド・チャンピオン・カーニバル」が開幕、シリーズにはザ・ロード・ウォリアーズ(ホーク&アニマル)、ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)、ミル・マスカラス、ビル・ロビンソン、テリー・ゴーディ、チャボ・ゲレロなど豪華な布陣を揃えて、ゴールデンタイム復帰に華を添え、そのゴールデン復帰のビックマッチ第1弾として21日の両国国技館大会が行われることになったが、そのビックマッチのメインを飾ったのは長州やジャンボ鶴田ではなく、当時のNWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーとAWA世界ヘビー級王者だったリック・マーテルの二人によるダブルタイトル戦だった。

NWAとAWAはかつてアメリカマットでは二大メジャーと言われ、当時はWWF(WWE)がNWAに加盟していたこともあって、アメリカマットは事実上二分されていたものの潰し合いはせず共存共栄を図っていた。

ところが1983年にWWFがNWAから脱退すると、ケーブルテレビという新しい媒体を利用して、NWAとAWAに侵攻を開始、両団体のエリアはたちまちWWFの圧倒的な力の前に飲み込まれ、多数を誇っていたNWAの会員も減少、例年行われたNWA総会に参加したのも会長だったジム・クロケット・ジュニア、副会長だった馬場、カルロス・コロンの三人だけとなっていた。クロケットはWWFに対抗すべく、AWAのボスであるバーン・ガニアが手を組み、プロレスリングUSAなる事業を立ち上げ、各地で両団体による合同興行を開催し、NWA世界ヘビー級選手権、AWA世界ヘビー級選手権の2本立てでWWFに対抗していた。

そこで馬場はNWA、AWAのダブルタイトルマッチを行いたいと両団体に申し入れ、双方も了承した。NWAとAWAが日本でのダブルタイトルの開催を了承した理由は、クロケットはNWA副会長である馬場の存在は無視できず、またAWAのガニアにしても、WWFによって選手が引く抜かれて選手層が薄くなり、全日本からジャンボ鶴田やスタン・ハンセンを借りるなどテコ入れを受けていたことから、馬場に大きな借りを作っていた。しかしクロケットとガニアも馬場の申し出を簡単に受け入れたわけでなく、条件として日本でダブルタイトルマッチが行われたことは、アメリカで知られないように報道規制を敷いて欲しいと提示した。理由はNWA、AWAによるダブルタイトル戦はプロレスリングUSAにとって最後の切り札であり、もし日本で実現したとわかればアメリカでもやって欲しいと望む声が多くなるからだった。
馬場も条件を受け入れたことで、日本でNWA、AWAによるダブルタイトル戦が実現となったが、馬場がゴールデンタイム復帰を記念しての初のビックマッチに鶴田や天龍、長州ではなく、NWAとAWAによるダブルタイトル戦を持ってきた理由は、長州のようなハイスピードな試合ではなく、全日本のコンセプトである王道プロレス、古き良きアメリカンプロレスであることをゴールデンタイムで視聴者にアピールしたかったのかもしれない。

当時のNWA王者のフレアーは前年にケリー・フォン・エリックを破ってから再び長期政権を築いており、一方のAWA王者であるマーテルも前年に鶴田を破って長期政権を築いていたが、マーテルがベビーフェース色が強すぎるだけでなく、王者としてのキャリアの浅さもあって人気を獲得するまでには至っていなかった。ゴールデンタイム移行第1弾である後楽園大会ではフレアーは鶴田、マーテルは長州とそれぞれ15分1本勝負と対戦、フレアーは得意のインサイドワークを駆使して鶴田を翻弄してフルタイムとなったが、マーテルも長州とフルタイムとなったものの、短期決戦を得意とする長州に終盤攻め込まれてしまって長州の評価を挙げてしまうなど好対照の結果となり、フレアーが貫禄の差を見せつけた。

10月21日の両国大会となったが、長州は谷津嘉章と組んでマスカラス&アート・クルーズと対戦して8分で長州がリキラリアットでクルーズを降し、セミでは鶴田が天龍源一郎と組んでロードウォリアーズと対戦も10分でウォリアーズが反則負けになるなどアンダーカード扱い、NWAとAWAによるダブルタイトル戦をあくまでメインにしていた。

試合はマーテルがヘッドロックからショルダータックル、アームホイップからリフトアップスラムと先手を狙うが、フレアーがサードロープにしがみついて「Oh, No!」で間を取り、それでもマーテルは両足を引っ張って叩きつけるが、フレアーは得意の「Oh, No!」で焦らしにかかってから、攻めてくるマーテルにマンハッタンドロップを決める。
フレアーは逆水平から場外戦を仕掛けてマーテルの左肩口を鉄柱に叩きつけ、リングに戻ってハンマーロックと流れを変える。しかし切り返したマーテルはハンマーロックで捕らえると、コーナー付近の攻防で逆水平を放ってくるフレアーに対してナックルで応戦、フレアーは「Oh, No!」で間を取ろう取るも、マーテルは構わずストンピングを連打、串刺しショルダーからエルボー、パンチで攻め込み、コーナーに叩きつけてからショルダースルーで投げる。
マーテルはボディースラムを狙うフレアーを首固めで丸め込み、ボディースラムからエルボードロップは自爆してしまうと、フレアーは逆水平からダブルアームスープレックスで反撃しコブラツイストで捕らえるが、マーテルは切り返して逆にコブラツイストで捕らえる。
逃れたフレアーはエルボードロップは自爆すると、マーテルはサイドスープレックスで投げるが、フレアーはマーテルのボディーにエルボーを一閃して場外に追いやると、マーテルをエプロンに引き上げてロープ越しのブレーンバスターを狙うが、背後に着地したマーテルが回転エビ固めで丸め込み、エルボーからコーナーナックル、反対側のコーナーへ振るも、フレアーはそのまま1回転して場外転落へ転落するターンバックルフリップで巧みに場外へ逃れる。
場外で休もうとするフレアーをマーテルが追いかけるが、フレアーは逆水平で反撃してリングに戻るも、マーテルはクロスボーディーを浴びせ、コーナーへ押し込むも、フレアーはニーで反撃して首投げからニードロップ、しかし2発目をキャッチしたマーテルは掟破りの足四の字固めを敢行、フレアーを追い詰めにかかる。
フレアーはロープに逃れると、マーテルはリング中央にまでフレアーを引っ張り足四の字を狙うが、フレアーが蹴って逃れると、ヘッドロックで捕らえるマーテルにニークラッシャーを決め、それでもマーテルはローキックの連打から串刺しニーを狙ったが、避けられてコーナーに直撃すると、マーテルの膝をサードロープに固定してヒップドロップを落とすが、マーテルの足四の字の影響で足を押さえてうずくまる。
それでもフレアーはブレーンバスターを決めてから足四の字固めで捕らえ、今度はフレアーがマーテルを追い詰めにかかるも、マーテルはリバースして返し、技が解けたところでブレアーは足四の字固めを狙ったところで、マーテルが首固めで切り返し、ブレーンバスターも、フレアーはマーテルの腿にパンチを浴びせてからコーナーへ昇るも、マーテルはデットリードライブで叩き落とす。
マーテルはニードロップからヘッドロックも、フレアーはロープへ振ってバックハンドエルボーを浴びせるが、マーテルはスリーパーで捕らえてから絞めあげるが、フレアーはバックドロップで投げる。
フレアーはマーテルを場外へ出すが、鉄柱攻撃狙いはマーテルが逆に叩きつけ、もう1度叩きつけるとフレアーは流血、これを逃さなかったマーテルはフレアーの額にナックルを連打も、フレアーは前のめりで時間差で倒れるなど、まだ余裕ぶりを見せる。
それでもマーテルはナックルを浴びせるが、ニーで反撃したフレアーはパイルドライバー狙いも、リバースしたマーテルはパワースラム、フレアーをコーナーに叩きつけてからナックル、場外へ逃れたフレアーはエプロンに昇ったところでロープ越しのブレーンバスター、ロープ越しのダイビングボディープレスと畳みかけてカバーもフレアーの足がロープにかかっていたためブレイクとなってしまう。
マーテルはシュミット流バックブリーカーから、セカンドコーナーに乗ってボディープレスを投下も、フレアーは剣山で迎撃し、フレアーが背中から覆いかぶさったところで、マーテルはブリッジから逆さ押さえ込みも、フレアーはカウント2でキックアウトし、マーテルの逆水平を避けたフレアーはクロスボディーを放つがマーテルがキャッチしたまま場外へ転落、そのまま立ち上がれず両者リングアウトで、双方防衛となった。

試合中にも再三場外へ転落して、両者リングアウトになるのではと館内はため息となったが、最終的には館内から拍手が起きた。だが、内容的にはマーテルが攻める場面は多かったものの、フレアーにまだ余裕があったのも事実で、マーテルの試合ぶりは王者の試合ではなく挑戦者の試合であり、マーテルが攻め続けても、フレアーは60分フルタイムに持ち込める自信と余裕はまだまだ残っていたことから、王者としての貫禄はまだまだフレアーが上であることを見せつけられた試合だった。

ダブルタイトル戦を終えたフレアーとマーテルは22日の京都でタッグを結成して鶴田&天龍の鶴龍コンビと対戦するが、マーテルが場外戦で天龍のボディーアタックを食らってリングアウト負けを喫し、23日の水戸では長州&谷津と対戦するが両軍リングアウトとなってしまうなど、またしてもフレアーとマーテルの貫禄の差を見せつけられることとなった。

しかし、フレアーvsマーテルの再戦はアメリカでは行われなかった。12月29日にマーテルはスタン・ハンセンに敗れてAWA王座から転落、AWAも若くてキャリアの浅いマーテルでは客が呼べないと判断したうえでの王座交代劇だった。マーテルは2度とAWA王者に返り咲くことはなく、またプロレスリングUSAもクロケットとガニアの思惑の違いが出たことで亀裂が生じ、クロケットが撤退したことで、NWAvsAWAのダブルタイトル戦はアメリカで行われないままプロレスリングUSAは解消されると、今度はハンセンでは客が呼べないと判断したAWAがハンセンから強引に王座を剥奪してニック・ボックウインクルに王者を戻すなど強引な措置を取ったことで、AWAもますます衰退し、マーテルもAWAに見切りをつけて1986年の世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦するために全日本に登場した後でWWFへ転出する。

WWF移籍後のマーテルはベビーフェースとして扱われていたが、ザ・モデルというキザなキャラクターでヒールに転向、全日本プロレスとWWFの共催で開催された「日米レスリングサミット」ではタッグながら鶴田との対戦も実現、そしてSWSにも参戦したが、ジュニアヘビー級の選手として佐野直喜と初代SWSジュニアヘビー級王座決定戦で対戦して敗れるなど、元AWA世界王者でありながらも低い扱いを受けた。マーテルはWCWへ移籍するも試合中に負傷して1998年に引退、現在は不動産事業を手掛けているという。

ゴールデンタイムに復帰した「全日本プロレス中継」は、テレビ朝日の「ワールドプロレスリング」よりも視聴率が上回っていたが、土曜8時時代と同じように、土曜夜7時に放送されていたこともあって、プロ野球シーズンになると夕方に放送されるようになり、日本テレビも元横綱の輪島大士を全日本に入団させるなど視聴率獲得のためにテコ入れを図る。1987年4月に長州力が一部選手を引き連れて新日本にUターンを果たしてもそこそこの視聴率を稼いていたが、テレビ朝日の「ワールドプロレスリング」が生中継をやめて録画中心に切り替わったことがきっかけとなって、1988年3月に全日本プロレス中継も録画中心に切り替えることに決め土曜7時の枠から撤退、日曜日の夜10時半の枠に移行、新日本プロレスと全日本プロレスのライバル関係はテレビ朝日と日本テレビの視聴率戦争でもあったが、新日本だけでなく全日本もゴールデンタイムから外れたことで視聴率戦争を終え、新しいプロレス中継の形を模索していった。

(参考文献=GスピリッツVol。38=小泉悦史「ジャイアント馬場の海外行脚」より)  

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