ジャンボ鶴田の意識を変えた”天龍革命”


2015年11月、39年に及ぶプロレス人生に幕を閉じた天龍源一郎は引退会見で「一番のライバルは?」という質問に、天龍は「一番身近にいて、影響を受けたのは鶴田選手ですね」と答えた。

 1976年6月11日、全日本プロレス蔵前国技館で行われたNWA世界ヘビー級王者だったテリー・ファンクにジャンボ鶴田が挑戦、当時幕内力士だった天龍は客席で試合を観戦していた。天龍は前頭筆頭の番付にいたが、師匠の二所ノ関部屋の後継者騒動に巻き込まれ、各界に嫌気を差していたところで、ジャイアント馬場のマスコミ側のブレーンを務めていた森岡理右氏からプロレス転向を薦められ、馬場と会い、テリーvs鶴田戦を見て「プロレスは許容範囲が広くて楽しめそうだだな」と思ってプロレスに転向することを決意した。

 1976年の秋場所を8勝7敗で勝ち越したのを最後に天龍は力士を廃業した天龍は全日本プロレスに入団、入団会見が行われた後で桜田一男(ケンドー・ナガサキ)と共にテキサス州アマリロに送り込まれ、ザ・ファンクスの指導を受け、11月13日にテッド・デビアス相手にデビューを果たした。12月9日に一旦帰国して蔵前国技館で断髪式を行ったが、その天龍に「おい!がんばれよ!」と肩を叩いたのがメインを終えた鶴田だった。その時は天龍が着物姿だったこともあって、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)が鶴田の無神経さに怒って一喝し、鶴田は軽く謝ったが、これが二人の初めての出会いだった。

 天龍は再び渡米し、1974年6月に帰国、鶴田は「天龍選手!」と呼びかけ、巡業バスでも鶴田が隣に座り、テレビを見ながら四方山話をしていた。鶴田はデビューしてからトップとして扱われ、同期と言われる存在はおらず、また下積みも経験しなかったこともあって、なかなか周囲に対して溶け込め方をわかっていなかったが鶴田が天龍に親しみを感じたのは、天龍を同期の仲間のように感じていたのかもしれない。

 しかし、デビューから才能が開花した鶴田に対し、なかなかレスラーとして覚醒しなかった天龍との差は歴然としており、コーチ役のドリー・ファンク・ジュニアからは「3ヵ月もしたら、トミー(鶴田の愛称)に教えることは何もなくなってしまった」と常に鶴田と比べられ、凱旋したが、凱旋してすぐエースとして活躍した鶴田と比べ、天龍はすぐスランプに陥って再度アメリカに送られ、帰国してもなかなか内容や結果を出せず、またアメリカへ送り込まれるなどを繰り返したことで、なかなか日本での確固たるポジションを築くことが出来なかったが、鶴田はアメリカへ遠征に出た際に、再度アメリカへ送られてきた天龍の下を訪ね、天龍もチャンコを振る舞い、一緒にエルビス・プレスリーのコンサートを見に行くなどプライベートでも鶴田は天龍に親しげに接して、天龍を励ましていたものの、天龍にしてみれば鶴田は劣等感の対象に過ぎなかった。

 昭和56年に天龍が帰国すると、ディック・スレーターの途中帰国で空席となったビル・ロビンソンのパートナーに抜擢され、馬場&鶴田の師弟コンビの保持するインターナショナルタッグ選手権に挑戦、アントニオ猪木の必殺技である延髄斬りも披露するなど、これまでにない試合ぶりを見せたことで一気に覚醒、またこの年にはリック・フレアーの保持するNWA世界ヘビー級王座へ初挑戦するなど、第3の男として一気に覚醒する。

 鶴田と天龍の差を詰めたのは1982年4月16日の福岡、「第10回チャンピオンカーニバル」公式戦で、鶴田と対戦した天龍は30分フルタイムを戦い抜き、天龍も「プロレスラーとして飯を食っていける!」と自信を深め、1年後の1983年4月20日の東京体育館でも二人は対戦し、2度目の対決もフルタイムのドローに終わるも、見ていた馬場も「そろそろオレだはなく、ジャンボと天龍を中心に…」に考え始めるようになったが、この頃の全日本プロレスのブッカーは佐藤昭雄が務めており、馬場を少しずつ退かせて、鶴田と天龍をメインにすることを考えていた。

 また二人がトップとなっても発言力があったのは天龍の方で、煩わしさを避けるために馬場に意見することがない鶴田に対して、天龍は馬場に物を申して堂々と意見を言うなど正反対、次第に馬場も天龍の意見に耳を傾けるようになるが、今思えば鶴田が馬場に言いにくかったことを、天龍が代弁していたのかもしれない。

「83世界最強タッグ決定リーグ戦」では鶴田はインターナショナルタッグ王座でのパートナーである馬場との師弟コンビを一旦棚上げして、天龍と組んで初エントリーし、スタン・ハンセンとブルーザー・ブロディの超獣コンビが優勝を果たしたが、翌年には師弟コンビが返上したインターナショナルタッグ王座を奪取してから、鶴田と天龍による鶴龍コンビが本格始動し、「84世界最強タッグ決定リーグ戦」では反則勝ちながらも超獣コンビを破って優勝を果たしたが、天龍は「強敵と闘わされていたなって、鶴龍コンビと呼ばれるようになっても、ジャンボが御盛するような気持ちで組んでいたと思うよ、最初の頃は迷惑掛け放しだった」「オレは”ジャンボ鶴田の添え物でしかない”っていうのが正直なところだったよ。プロレスって不思議なもので、二人が光るってことってないよ。両雄並び立つことはないんだよ」と後年語っていた通り、鶴龍コンビは天龍が相手の攻撃を受けまくって、相手がスタミナをロスしたところで鶴田につなぐというパターンだったこともあり、最初こそは天龍自身も鶴田に足手まといになるまいと思い懸命に頑張った。

 長州力率いるジャパンプロレスが参戦すると、鶴龍コンビは長州&谷津、ハンセン&デビアス、ホーク&アニマルのロードウォリアーズ相手にインタータッグ王座、最強タッグ優勝を巡って好勝負を繰り広げたが、ジャパンプロレスが分裂、長州が新日本へUターンを果たし、鶴龍コンビはウォリアーズに敗れてインタータッグ王座から転落すると、天龍は冷え切った全日本を活性化するために鶴龍コンビを解消、天龍革命の狼煙を挙げた。

 鶴田と天龍が3度目の対決を行ったのは1987年8月31日の日本武道館、両者はエプロン際で延髄斬りを応酬しあった後、二人がロープ越しでラリアットが相打ちとなったが、エプロンにいた鶴田がロープに足を絡めて、場外で宙づりとなったままリングアウト負けとなってしまい、ノンタイトルでフォール勝ちでないものの天龍は鶴田から勝利を収める。10月6日に同じ武道館で再戦を行うが、エキサイトした鶴田が天龍の額にナックルを浴びせ、制止に入ったレフェリーまで突き飛ばして反則負けとなるも、天龍との戦いから鶴田は「怪物」と言われるようになった。

 「あの頃は全人生をかけてジャンボとやりあったからね。人生から価値観から全て対極にいるジャンボが反対側のコーナーにいたわけだから」と語っていたが、天龍は内に秘めていた劣等感を鶴田相手に全力でぶつかっていった。

1988年に入ってからの鶴龍対決は三冠統一を絡めた戦いへとシフトを変え、10月28日の横浜文化体育館では1年ぶりにノンタイトルながら鶴龍対決が実現するも、天龍が背面ダイブングエルボーを決めるが、突進を迎撃した鶴田はパワーボムで叩きつけると、空中胴絞め落とし、フライングショルダータックルと攻勢をかけるが、鶴田がジャンピングニーパットでコーナーに押し込むと、串刺しラリアットからエルボーを乱打する。鶴田がエキサイトしていると察した和田京平レフェリーが制止に入るが、これに怒った天龍も急所蹴りを何度も浴びせたると、コーナーに押し込んでストンピングを乱打、和田京平レフェリーの制止も無視したため反則負けとなり、天龍は反則裁定ながらもvs鶴田に初黒星を喫してしまう。

 1989年4月20日、初代三冠統一ヘビー級王者となった鶴田は大阪府立体育会館で天龍の挑戦を受け、天龍がロープ越しでエプロンの鶴田に逆水平を浴びせると、リングに戻った際にもドロップキックを浴びせるが、ブレーンバスターを着地した鶴田はビックブーツを連発する。
コーナーに昇った鶴田を天龍はデットリードライブを狙うが、鶴田は体を入れ替えて押さえ込み、天龍のパワーボム狙いも鶴田がリバースすると天龍もエビ固めで丸め込む。
鶴田はジャンピングニーパットを炸裂させるとパワーボムで叩きつけ、変な角度で叩きつけたことで天龍は失神してしまい3カウントを奪われ初フォール負けを喫するだけでなく、首まで負傷してしまうが、天龍と戦っていくうちに、鶴田の中に眠っていた怪物性が次第に目覚め始めていったのだ。

6月5日の武道館では再び三冠王座をかけて鶴龍対決の再戦が行われ、天龍の痛めた首をネックロックで攻める鶴田だったが、突進は避けられてしまうと、天龍はラリアットを浴びせ、延髄斬りからパワーボムを決めるが、鶴田はカウント2でキックアウトも、天龍は再度パワーボムを決めて3カウントを奪い三冠王座を奪取、念願だった鶴田からのフォール勝ちを達成したことでやっと鶴田を追い抜くことが出来た。

しかし、それもつかの間で10月11日の横浜文化体育館大会で行われた再戦では天龍は相手の太腿を抱えて投げる新型パワーボムを狙ったが、鶴田が秘策ウラカンラナで切り返して3カウントを三冠王座を奪還、11月の最強タッグ決定リーグ戦では天龍がタッグながらも師匠である馬場から3カウントを奪い、鶴田でも成しえなかった偉業を達成したことで、名実共に全日本プロレスのトップレスラーとなった。

 鶴田だけでなく馬場からもフォールを奪った天龍だったが目的を達成したことで焦燥感にかられるようになり、1990年4月19日横浜文化体育館で鶴田と三冠をかけて再び対戦したが、天龍が望んだ試合ではなく、全日本が一方的に決めたカードで天龍は乗り気でなかった。天龍はそれでも鶴田との試合を盛り上げようとして流血戦も辞さない覚悟を示したが、鶴田はそれを知ると「そんなこと付き合ってられないよ」と和田京平レフェリーを通じて返答したため、天龍は鶴田に対しての想いが一気に醒めてしまいバックドロップホールドで3カウントを奪われ完敗を喫し、天龍はこの試合で全日本を去る決意をしていたこともあって、最後の鶴龍戦となった。実は鶴田はジャパンプロレス参戦時からB型肝炎のキャリアであることがわかっており、周りに感染する危険性があったことから流血戦はなるべく避けるようにしていたが、天龍がそのことを知ったのは後のことだった、二人の勝敗は4勝3敗2分で鶴田が勝ち越し、鶴田が天龍からフォールを奪ったのは3度に対して天龍は1度だけだった。

 天龍は馬場に全日本を退団することを申し入れていたが、馬場は天龍に社長就任を打診して引き留めようとしていた。実は馬場も自身の後継者は鶴田ではなく天龍と考えていたのだ。さすがの天龍も”長男”である鶴田を押しのけてまで全日本の社長に就任する気はなく固辞し全日本から去っていった。

 天龍が去ったことは鶴田にも影響を与えた。天龍ロスに陥ったことで、せっかく目覚めた鶴田の怪物性は再び眠ってしまうのかと思われたが、6月8日の日本武道館で鶴田が三沢に敗れてしまうと、鶴田に危機感が芽生えたのか、眠りかけていた怪物性が再び目を覚まして、三沢ら超世代軍の壁として立ちはだかり、ファンからブーイングを浴びながらも三沢らを圧倒的な強さで痛めつける。1991年10月14日の大阪大会では三沢が鶴田のエルボーを受けて鼻骨骨折すると、馬場の欠場勧告を振り切って15日のTVマッチで強行出場したが、鶴田は田上や渕と共に、三沢の折れた鼻を徹底的に痛めつけ、レスラーとしての厳しさだけでなく怖さまでも見せつけ、また組んでいた田上にも厳しく接するなど、ブッカーである渕正信のアドバイスを聞きながらも、四天王をトップに押し上げようとしていた。

SWSへ移籍したことで週刊プロレスによるバッシングを受けた天龍は覇気を失いかけると、1990年4月にスタン・ハンセンを破ってチャンピオンカーニバルを優勝し、三沢光晴を破り三冠王座を防衛した鶴田が「同世代の天龍や長州が元気がないので、”この世代はまだまだ負けないぞ!と見せたかった。”天龍、長州、どうした!?”と言いたいね」と発言すると、天龍も「ジャンボに”元気がない”と言われたら、俺も大したことはない反面、言われても仕方がないと思った」「ジャンボの口から言われるとは思わなかったよ、でも同じ世代で見詰め合っているのはすごく大事だと思うよね。俺の葬式の参列者は決まったよ」と感謝したが、鶴田自身も三沢に初めて負けたことで、”天龍が辞めたからといって、全日本は面白くなくなったと言われたくない”と考えたのか、”自分の与えられた仕事をしっかりこなせればいい”と考えていた鶴田が、真剣に全日本の将来を考えるようになった。そういった意味では天龍革命は鶴田の意識さえも変えていったのだ。

この年に鶴田がプロレス大賞MVPを受賞し天龍もベストバウト賞を受賞、授賞式では同じ雛壇で鶴田と天龍が久しぶりに肩を並べたが、二人は別々の道を歩んでも鶴龍の二人は競い合うだけでなく、度々連絡を互い取り合う関係が続いていた。1999年1月31日に馬場が死去し、三沢が新社長に就任したが、全日本の人事に納得できなかった天龍は鶴田に「なぜジャンボじゃないの!?」と鶴田に電話をかけるも、鶴田は「源ちゃん、わかっているだろう。俺にそんなことを聴くなよ」と答えるしかなかった、この頃の鶴田はB型肝炎を患い、試合には復帰したものの、体調面を配慮してスポット参戦に留まり、鶴田も第二の人生を考えてに筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂には非常勤講師ながら大学教員となっていた。鶴田は馬場の配慮でこれまで通りギャラは支払われ、鶴田は試合がなくてもなるべく都内の会場には顔を出していたが、試合をしない鶴田にギャラを支払うことに周囲から疑問視する声も多く、選手らからも冷たい眼で見られていたこともあって、居心地が良いわけではなく、鶴田は元々政治的なことにかかわることを嫌っていたこともあって社長になる気もなかった。

 鶴田は3月6日に引退、スポーツ生理学の教授待遇に招かれてアメリカ・オレゴンへと旅立っていったが、鶴田が引退をしたとき天龍は「オレを置いていくなよ!」と思いつつ、鶴田に電話を入れ「お疲れさんでした」と労ったという。それが二人の最後の会話だった。

 2000年3月22日、天龍の自宅に鶴田から電話がかかった。あいにく天龍は不在だったが、鶴田からかかってきた電話はアメリカからではなく岐阜県からで、天龍はなぜ鶴田が日本に戻ってきているのかと不思議に思いつつ電話を待っていたが電話はかかってくることはなかった。鶴田は前年12月に帰国した際に肝臓がんが発見され、岐阜市内の病院に入院しており、鶴田は移植手術をするためにフィリピンへ向かう直前にも天龍に電話を入れたが、この時も天龍は不在で鶴田は「また電話するよ」と言い残してフィリピンへ向かったが、2度と鶴田から電話がかかってくることはなかった。5月14日に鶴田死去の一報が伝わると天龍は「くだらないガセを流しやがって!」と怒ったが、ニュースは事実であることがわかると天龍は愕然とするしかなかった。だが、最後に自分のことを思い出してくれた鶴田に感謝していた。

 天龍にとって鶴田はなんだったのか、ライバルであり戦友でもあり、越えたい存在だったかもしれないが、鶴田にとって天龍はライバル、そして戦友であり、弟のような存在だったのではないだろうか…

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Vol ザ・抗争」双葉社「俺たちのプロレスVol.14 ジャンボ鶴田最強説を追う」)

読み込み中…

エラーが発生しました。ページを再読み込みして、もう一度お試しください。

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。