鶴見五郎と独立愚連隊


1979年10月3日、国際プロレス青森県黒石大会で、自身のカードが組まれなかったことで鶴見五郎が怒り、吉原功社長に抗議すると、制止した稲妻五郎と殴り合いとなったことで選手会から除名された。それが国際プロレスの日本人によるヒールユニット、独立愚連隊の誕生した瞬間だった。

 鶴見は東海大学理学部物理学科に入学したが、レスリング志望だったにも関わらず、大学にはレスリング部がなかったため、他の大学やジムで出稽古するなど、独自で練習していたが、ジムでコーチしてくれる一人がサンダー杉山と知り合いだったことから、1971年に6月に国際プロレスに入門を果たすことが出来たが、当時はカール・ゴッチとビル・ロビンソンが参戦しており、二人から指導を受けるたが、二人はレスリング論を巡って口論となると、鶴見は二人から呼び出されては実験台されることもあった。レスリングの下地もあって1か月後にデビューを果たし、旗揚げしたばかりの全日本プロレスにも助っ人として参戦した。

 1973年に同期だった剛竜馬と一緒に海外武者修行へ出され、剛とは途中で別れたものの、2年8か月の間にヨーロッパやメキシコを転戦、イギリスでは『蛇の穴』と呼ばれたビリー・ライレージムにてランカシャーレスリングを学んだ。1975年11月に凱旋帰国を果たすも、大事な凱旋試合で右足首を負傷してしまい、それ以降はメインクラスで組まれることはなかった。

 凱旋して4年目、前座に留め置かれながらも腐ることなく練習に取り組んでいる鶴見の姿を吉原功社長に「オマエを売り出したいけど、今のままじゃ無理だから、ヒールをやってみないか?」と提案された。吉原社長は外国人レスラーに支払うギャラや旅費の工面に悩んでおり、日本人がヒールとなって、外国人側の役どころを代行すれば経費が抑えられると考えていた。鶴見は元々海外ではヒールもやっていたことから、この提案を受け入れた。

 吉原社長に抗議した際に制止に入った稲妻二郎と遺恨が勃発したことで、稲妻二郎と11月7日の弘前で対戦、試合は稲妻二郎が勝って鶴見は丸坊主となったが、引退していた大位山勝三を巻き込んで独立愚連隊がスタートさせた。

しかし、ブッカーだったグレート草津は独立愚連隊を売り出すつもりはなく、前座で留め置かれていると、80年4月4日新日本プロレス川崎市体育館大会で山本小鉄の引退試合の相手に独立愚連隊を指名され、小鉄&星野のヤマハブラザーズと対戦、その試合はテレビ朝日に「ワールドプロレスリング」に全国ネットで放送されると、知名度が上がり、国際プロレスでも経営が逼迫して外国人選手が4人しか呼べなかったことから、独立愚連隊もやっとメインクラスで試合が組んでもらえるようになり。また新日本プロレスから上田馬之助が参戦すると独立愚連隊の助っ人として加わり、上田のヒールぶりは鶴見にも大きな影響を受けた。

  独立愚連隊にはマネージャーとしてミスター珍も加わるが、国際プロレスの経営は悪化しつつあり、ギャラの遅配も当たり前のようになると、1981年3月19日の和歌山大会で大位山がギャラの遅配に耐えかねて引退したため、独立愚連隊は解散となり、国際プロレスも8月9日の北海道羅臼町大会を最後に崩壊、最終興行のメインを飾ったのは鶴見でテリー・ギップス相手に金網デスマッチで対戦した。

 国際プロレス崩壊後は鶴見はドイツへ渡るも、全日本プロレスに再入社していた元国際プロレスのフロントの斡旋で1982年から全日本プロレスに参戦、初戦では元国際プロレスだった阿修羅・原と対戦、ミル・マスカラスともTVマッチで対戦し、国際プロレスで組んでいた上田と再合体を果たした。

その鶴見の悪名を大きく轟かせたのが1983年3月に秋田で行われた天龍源一郎vs上田のランバージャックデスマッチで、試合もランバージャックに加わっていなかったシンが客席で暴れ、全日本勢が制止に入っている間にセコンドの鶴見が上田にスパナを手渡し、上田がスパナで天龍を攻撃して流血に追い込んだ。試合は上田の反則負けとなるが、完全決着を謳った試合に乱入したことで、テレビ中継で解説していた山田隆氏が「鶴見は日本で試合をさせるべきではない」と発言したことがきっかけになったのか、鶴見は半年間全日本マットから締め出されたが、実際は馬場の命令を受けて半年間プエルトリコへ遠征に出されたのが真相だった。

 追放解除後は世界最強タッグにも参戦し、シンや上田が参戦しないシリーズでも外国人側に立ち、またアジアタッグ戦線にも絡み同じ元国際プロレスだったマイティ井上や原とも対戦するなど活躍したが、本格派ヒールだったシンや上田とのタッグが『独立愚連隊』の一番の理想系だったという。ところが1984年に上田が全日本から離脱すると、1989年からラッシャー木村、剛竜馬が全日本に参戦し、ウルトラセブンとして活躍していた高杉政彦、ヨーロッパ遠征から凱旋帰国したアポロ菅原が加わって国際血盟軍が誕生する。血盟軍にはシンと鶴見が加わったが、上田を失ったシンの扱いが悪くなり、また木村を盛り立てるユニットだったことから鶴見の考える理想からかけ離れたものになっていった。それでも鶴見は木村とのコンビで世界最強タッグの公式戦ではジャンボ鶴田、天龍源一郎の鶴龍コンビを破って金星を挙げた。

しかしカルガリーハリケーンズ(スーパー・ストロング・マシン、高野俊二、ヒロ斎藤)が全日本に参戦すると、人員整理ということで剛と高杉、菅原が解雇されてしまい、国際血盟団は一匹狼となっていた阿修羅・原、ヒールターンしたザ・グレート・カブキ、ハリケーンズと共闘という形をとったが、次第と形骸化されていった。

 その後、木村はマイクパフォーマンスでコミカル路線に走って、馬場と義兄弟タッグを結成。原も天龍と組んで龍原砲を結成すると、鶴見は一匹狼となってしまったが仕事ぶりは馬場さんから高く評価されてフリーながらも中堅の一角として活躍、そして鶴見は長年戦った全日本を離れてSWSへ移籍、全日本とはフリー契約だったのもあり、馬場と話し合っての円満移籍だった。SWSでは元国際の縁があって若松市政の『道場・激』に属したもののSWSは崩壊し、NOWに参加しシンや上田と再び合体したが団体は長続きせず崩壊、その後はインディベンデント中心に活動しつつトレーニングジムを経営、国際プロレスプロモーションで怪奇派路線のプロレスを展開しつつDDTのカリスマとなった高木三四郎を輩出、2013年にDDTやFREEDOMSの合同興行で引退した。

(参考資料=辰巳出版「実録 国際プロレス」鶴見五郎が出場した山本小鉄引退試合は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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