柔道金メダリスト、アントン・ヘーシングがプロレスデビュー、全日本プロレスで行われた柔道ジャケットマッチ


1973年9月25日の深夜、オランダのユトレヒトから共同通信からニュースが入り、東京オリンピックの柔道メダリストであるアントン・ヘーシングが日本でプロレスラーになる契約を交わしたことが報じられた。

ヘーシングはオランダ出身の柔道家で、1964年に開催された東京オリンピックでは決勝戦で日本代表の神永昭夫を袈裟固めで一本を取って金メダルを獲得、1965年の第4回世界選手権には坂口征二を破ったが、翌日に引退を表明、1967年に復帰してヨーロッパ選手権では準決勝でウィレム・ルスカを破るなどして金メダルを獲得して、金メダルも計21個獲得するなど、金メダルホルダーとして名をはせていた。

現役引退後は後進の指導にあたりつつ事業も手掛けていたが、スイスのローザンヌで行われた世界柔道で主審として招かれた際に、柔道連盟批判をマスコミにしたことで主審を途中降板させられ、オランダの柔道連盟から浮いた存在になっていた。そこでプロレス入りを薦めたのは嵐田三郎氏で1966年にビートルズの来日を実現させた共同企画のプロモーターで、音楽や芸能だけでなくスポーツも手掛けるなんでも屋のプロモーターだったが、ヘーシングのプロレス転向の真の黒幕は日本テレビだった。

1972年10月に土曜日夜8時の枠で全日本プロレス中継がスタートしたが、裏番組のTBS「8時だよ!全員集合!」の圧倒的な視聴率に押され、また4月~10月になるとプロ野球シーズンに入ると全日本プロレス中継は夜11:45に放送されることもあって、思うような視聴率を稼いでおらず、また後発でNETが新日本プロレスを中継する「ワールドプロレスリング」を放送開始、本来のプロレスタイムである金曜夜8時に放送されていたこともあって、全日本プロレス中継より高視聴率を稼いでいた。日本テレビは全日本プロレス中継のテコ入れにヘーシングを独自で獲得、全日本のリングに上げて高視聴率を稼ごうとしていたのだ。

この頃の全日本プロレスはレスリングでミュンヘンオリンピックに出場していた鶴田友美(ジャンボ鶴田)は獲得していたものの、アメリカから凱旋したばかりで、日本側の助っ人としてザ・デストロイヤー、崩壊した日本プロレス勢を取り込むなど選手層は厚くなっていたが、鶴田がまだ未知数だったこともあって、馬場とデストロイヤー以外は日本側に目玉になるレスラーはいなかった。

10月3日にヘーシングが来日し、会見には馬場が同席するなど、早くも特別待遇を受けるが、9日に蔵前国技館大会に来場して背広姿でリング上で挨拶した後で、11月24日の蔵前大会でプロレスデビューすることが発表され、誰もが鶴田よりヘーシングに大きな期待をかけていた。10日にヘーシングは馬場の側近でコーチ役であるマシオ駒を伴って、テキサス州アマリロに向かい、ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの指導を受け、アルゼンチンバックブリーカーをマスター、20日にマック・フォーリー相手にデビュー戦を行い、アルゼンチンバックブリーカーで勝利を収めるが、駒の指導を受けた後はアマリロを離れ、地元であるオランダへ戻ってしまった。本来なら鶴田のように実戦を重ねてキャリアを積まなければならなかったが、指導と技を教わり、デビュー戦をしただけで、真剣にプロレスに取り組もうという姿勢が見られなかった。

 しかし馬場はそんなヘーシングを咎めようとしなかった、理由は内心は歓迎しておらず、日本テレビから押し付けられた厄介者しか見ていなかったからだった。4月から大木金太郎や上田馬之助ら旧日本プロレズ勢を取り込むことが出来たが、実際は全日本を旗揚げした際にバックアップを受けた力道山家を含めた周囲から押し付けられたもので、中堅や若手は欲しかったものの、トップを張っていた大木と上田は歓迎していなかった。鶴田の凱旋を契機に二人は追い出したが、今度は日本テレビがヘーシングが押しつけてきた。ヘーシングは馬場に対して上から目線でプロレスを見ていたこともあり、おそらく駒からの連絡を受けたことで、馬場自身はヘーシングは真剣にプロレスに取り組む気はないと判断し、新しい厄介者を押しつけてきたと思っていたのかもしれない。だがヘーシングは日本テレビからの派遣でもあり、ギャラも日本テレビが支払うということで無碍に扱うことは出来なかった。

11月24日の蔵前大会でヘーシングは国内デビューを果たし、馬場とのタッグで当時の全日本の常連外国人選手のトップ格であるブルーノ・サンマルチノ、中堅だったカリプス・ハリケーン組と60分3本勝負対戦したが、ヘーシングは一本背負いや払い腰、袈裟固めなど柔道技は披露したが、サンマルチノのニースタンプなどプロレス流の受けに回ると一気に失速する場面が目立ったことで館内から失笑が漏れてしまう。それでも馬場のリードやサンマルチノとハリケーンが上手くヘーシングに合わせたこともあって、1本目はハリケーンの暴走で反則勝ち、2本目はヘーシングが必殺技であるアルゼンチンバックブリーカーでハリケーンからギブアップを奪い2-0でストレート勝ちを収める。内容的には好試合と言えなかったが、日本テレビ的には15.8%を記録するなどまずまずの結果を残した。

その後ヘーシングの試合は放送されたものの、視聴率はだんだん下がり、ヘーシングはテコ入れどころか、単なる打ち上げ花火に終わり、ヘーシング自身もプロレスでは相手がどう仕掛けてもどう反応していいかわからず、試合巧者のディック・マードックと対戦しても単調な試合ぶりを見せるなど上達が見られない。馬場は後に「プロレスに適応しようとしなかった」「柔道着を着て押さえ込まれたらこれほど強い男はいないが、裸になるとこれほど弱い男もいない」と批判するが、ヘーシングが真摯にプロレスに取り組もうとしない態度に内心は相当腹を立てており、デビュー戦の蔵前大会は視聴率は取れていても、観客動員は満員にもならなかったこともあって馬場も「客の呼べないレスラー」と評価していたのかもしれない。

 プロレスに全く上達が見られないヘーシングのために、1974年に全日本プロレスは柔道ジャケットマッチを取り入れることになった。ルールは共にルールの胴着を着用して通常のプロレスルールだけでなく、特別ルールとして柔道の押さえ込み20カウントが加えられたもので、ヘーシングは6月にゴリラ・モンスーン、11月にドン・レオ・ジョナサン、1975年1月にハリケーンと対戦、初戦のモンスーン戦では5分3R(3本勝負)で行われ、1本目はヘーシングは上四方固めで先制も、2本目はモンスーン戦のベアハッグに捕まり、プロレス入りして初のギブアップ負けを喫し、3本目はモンスーンがベアハッグを狙った際にヘーシングの体当たりと正面衝突、ダブルダウンとなってヘーシングが先に立ってKO勝利も、不完全燃焼に終わる。

 ジョナサン戦では、ジョナサンが柔道マニアだったこともあって、ヘーシング相手に柔道で真っ向から挑み、1本目は袈裟固めからの押さえ込みでヘーシングが先取も、2本目は一本とならなかったがジョナサンがヘーシングを一本背負いで投げ、ヘーシングの裸絞め狙いも全てブロック、必殺技であるハイジャック・バックブリーカーを決めるなど好試合となり、時間切れとなってヘーシングが1-0で勝利も、ヘーシングのスタミナロスが目立っていたことから、ジョナサンの凄さを見せつけられる結果となった。

 ハリケーン戦では、ヘーシングは柔道にない頭突きを食らってしまって失速、おまけにハリケーンがルールを無視して胴着を脱いでヘーシングに被せて頭突きを乱打して反則負けになるなど、ヘーシングは勝つには勝ったが、またしてもプロレスに対応できていないことを露呈してしまったため、さすがのファンもヘーシングに見切りをつけるようになり、ヘーシングは全日本では所属ではなく、外国人選手のように来日していたが、1976年の参戦は1度だけで、1977年にはまったく呼ばれないどころか、試合もせずセミリタイア状態となるなど、次第に忘れかけられた存在となっていく。

1978年2月、久々に来日したヘーシングは鶴田の保持するUNヘビー級王座に挑戦、試合は鶴田がサイドスープレックスを連発、ジャンピングニーで攻め込み、ヘーシングも投げから寝技に持ち込み、アトミックドロップから袈裟固めで反撃する。
 しかし鶴田がロープに押し込むとストンピングを浴びせ、ヘーシングは「タイム!」らしきポーズを取るが、鶴田は構わずストンピングを浴びせていく、ヘーシングはエプロンに出されると、張り手を浴びせる鶴田の背後を奪ってスリーパーで捕らえるが、ロープ際だったためジョー樋口レフェリーが制止も、ヘーシングが無視して反則負けとなる。

ヘーシングはこの試合をもって全日本プロレスを離れた、契約切れだったという。馬場はプロレスに上達がないどころか、日本テレビも視聴率を稼げず、期待外れに終わったことで引き留めるつもりはなく、契約消化のつもりで呼ばれたのもしれない。最後の鶴田戦はマッタを欠けたのにも関わらず、攻めてくる鶴田にヘーシングはキレたのか、鶴田にしてみればレフェリーに止められない限りは反則ではないということだったのだろうが…

 ヘーシングは1度だけアントニオ猪木と対戦するチャンスがあった。11月にローランド・ボックの招きで猪木がヨーロッパを遠征すると、ヘーシングも一時的に復帰して猪木との対戦が組まれることになったが、ヘーシングはドタキャンしたことで実現しなかった。理由は馬場からストップがかかったとされているが、まだ日本テレビとの契約が残っていたのだろうか…

 ヘーシングは完全にプロレスから撤退して、元居た場所に戻るかのように柔道に戻って後進を指導、1985年から1989年までは国際柔道連盟教育普及理事、1987年より国際オリンピック委員会委員を務めたが、1999年、2002年冬季オリンピック招致活動における収賄疑惑が出たことで、悪い意味で名が再び出ることになったが、プロレスラーだった経歴は触れられることはなかった。
 2010年8月27日、ヘーシンクは故郷のユトレヒトの病院にてその生涯を閉じた。享年76歳。死去の一報は世界中に広がったが、この時には馬場や鶴田も亡くなっていたこともあって、全日本プロレスでプロレスラーとして活躍していたことも、ほとんど触れられることはなかった。けどヘーシングが全日本のリングでプロレスをしていたことは永遠に残る。

(参考資料 ベースボールマガジン社 「日本プロレス事件史 Vol3 年末年始の波乱」「日本プロレス事件史Vol.26 格闘技の波」)

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