2020年2月から発生したコロナウイルスはたちまち世界中に蔓延、プロレス団体も影響を思い切り受け、世界中の団体は観客を入れての興行は自粛に追いやられる中、WWEは若い新しいタレントの発掘して育成するパフォーマンスセンターでプロレスの祭典「レッスルマニア」を無観客で開催されたが、かつて日本にもパフォーマンスセンターのようなものが存在していた。
1954年、アメリカへ武者修行した力道山が帰国、シャープ兄弟を招き、プロレス興行を蔵前国技館で開催されると、当時放送開始したテレビでプロレスが放送されたことでプロレスというジャンルはたちまち日本国民に受け入れられ、力道山はたちまちヒーローと祭り上げられるようになった。
日本プロレスを旗揚げした力道山は日本橋浪花町に道場となる「日本プロレス・センター」を設立、日本プロレス・センターでは時折り客を入れて興行するだけでなく試合もTVで収録されることもあったが、少人数しか観客を収容することが出来なかったことで、力道山は「プロレスにも、相撲の『国技館』のような常設会場が欲しい」と考えるようになっていった。
ちょうどそのタイミングでプロレス・センターが土地の所有者から土地収用の対象となって、立ち退かなければならなくなり、周囲から「引っ越すなら常設会場となる理想な施設を作ったほうがいい」と勧められて、力道山は常設会場設立へと動いた。
資金を15億円もかき集めた力道山は渋谷区道玄坂1丁目に土地を購入して着工を開始、レスラー達も工事に駆り出され、若手だったジャイアント馬場やアントニオ猪木もパネルを担いだり、コンクリートの流し込みを徹夜でやらされた。完成したビルは想い出の遠征地であるハワイ州ホノルル・シビック・オーデトリアムをモデルにしたものだが、建設途中で建設会社が倒産すると、建設会社が二転三転としたため、設計図とは異なる建物が出来上がってしまったという。

プロレスの常設会場であるリキパレスは完成を見たが、力道山はプロレスだけでなく、自身の野望も詰め込み、1階はボウリング場、2回は芸能人ご用達の高級レストランや喫茶店、裏には当時トルコ風呂と言われたサウナ、3~5階は吹き抜けの常設会場で試合が見やすいように円形型で収容人数は3000人、4階~5階は観光開発部門のリキエンタープライズ、6階は力道山の社長室とトレーニングルーム、7階はクリニックや美容室、8階はボディビルと力道山の事業の全てが集められた。力道山はこの頃から自身の衰えを痛感し始めており、いずれ引退しリキパレスを拠点として実業家へ転身することを考え始め、リキパレスのある渋谷を拠点に力道山王国を作り上げようとしていた。


1961年7月30日には落成式が行われ、政財界、言論界、スポーツ界、芸能界から1500人もお祝いに駆けつけ、当時大スターだった美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみの3人娘がショーも実現させるなど人脈の広さを見せつけ、8月18日のこけら落としではプロレスが開催され、メインでは主役である力道山も登場、3000人札止めを動員し、以降はリキパレスで週一回のペースで定期戦が行われ、試合が日本テレビが収録して放送、またプロレス以外にもボクシングの興行にも貸し出され、高級レストランやボウリング場、サウナにも各界の著名人が利用するなど、リキパレスは力道山にとって夢の殿堂はこうして軌道に乗ったかに見えた。




しかし、リキパレスが完成した2年後に力道山が急死するとリキパレスの存続が危ぶまれる事態が起きてしまう。力道山はアパートやゴルフ場など様々な事業も手掛けていたが、それは全て借金で賄われており、リキパレスも事業資金を捻出するために抵当に入っていた。ボウリング場は都内にボウリング場が出来ただけでなく機材も古くなったことで客を取られ、料金が高いレストランも力道山が死去したことで利用客が減り、力道山の事業部であるリキエンタープライズが運営していたが借入金利子・運営費などで経費がかかるなど運営が困難となっていった。
日本プロレスだけは力道山死去後も日本テレビのバックアップもあって利益が出ていたが、当時の営業部長だった吉原功氏は常設会場を失いたくないことから「リキパレスは日本プロレスが買い上げるべきだ」と主張して資金集めするも、経理担当幹部の遠藤幸吉が「吉原は資金を集めて日プロそのものを買収しようとしている」と吹聴してリキパレス買収計画を握りつぶしてしまう。表向きは「力道山の抱えた負債までは日本プロレスは面倒を見るわけにはいかない」というのが理由だったが、もう一つの理由は力道山とは日本プロレス旗揚げからの関係だった遠藤が、とかく金に関して汚い話が多かったことで、力道山と対立しており、力道山死去後に幹部となると、力道山の名の付くものは全て一掃しようと目論んでいたことも理由の一つだった。遠藤によってリキパレス買収話を握りつぶされた吉原氏は退社して新団体設立へと走る。
リキパレスは債権者である西山興業に取られてしまい、日本プロレスの事務所も移転したことでプロレスの常設会場としての役目を終えた。その後リキパレスの建物は近畿観光株式会社に転売され、キャバレーに変わったが、立地条件の悪さ、キャバレーという業態そのものの衰退で業種の継続を断念、吹き抜けやサウナ用の配管など、そのままではオフィスビルとして全く転用出来ず、土地建物を売却、1992年に取り壊されたが、今思えばプロレス一本でやればリキパレスの存続の可能性は充分にあったものの、負債を抱えた事業が原因となってプロレス界にとって夢の城のはずが、砂の城と化して消えてしまった。
「力道山が生きていたら日本のプロレスは新日本プロレスと全日本プロレス、また国際プロレスに分かれることはなかった」と言われた時もあったが、自分はそう思っていない。力道山の抱えた事業は起動に乗っていないにも関わらず、規模を大きくしようとしていたことを考えると、唯一利益が出ていた日本プロレスから資金を流用する可能性もあったのではないだろうか?アントニオ猪木が新日本プロレスの利益を事業に流用したことでクーデター事件が起きたように、力道山時代の日本プロレスにも起きる可能性があったのではないだろうか?
その後日本プロレスから各団体が派生され、常設会場の話も何度も上がったことがあったが、全て口だけで消えていった。現在コロナウイルスでこれまで使用してきたプロレス会場が使用自粛に追いやられ、都内で無観客での開催を模索しても会場が借りられない事態も起きるようになった。WWEがパフォーマンスセンターで無観客で試合を行って配信し続けているが、それを考えると新日本プロレスを始めとする企業化している団体も、無観客でも行えるような常設会場も必要とされる時期に来たのかもしれない。
(参考資料=ベースボールマガジン社 「日本プロレス事件史Vol.5 革命の夜明け」)
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