「夢の架け橋」に対して見せた天龍源一郎の反骨精神!後楽園で”裏ドーム”を開催!


1995年4月2日、東京ドームにてベースボールマガジン社主催で「夢の架け橋」が開催された。

 当時の週刊プロレスは山本隆司氏が編集長となっており、山本編集長の掲げた”活字プロレス”で圧倒的な部数を獲得、また天龍源一郎が全日本プロレスを離脱してメガネスーパーが設立したSWSに移籍した際には、SWSではなく全日本を支援、SWSに対して金権バッシングのキャンペーンを張り、そしてSWSが崩壊に追いやられると、全日本を支援して勝ち組となった山本氏や週刊プロレスの影響力が大きくなり、各団体が週プロに表紙や特集を組めば観客動員が上がるとして擦り寄っていた。その傍らベースボールマガジン社が主催で新日本また全日本の興行を後楽園ホールで手がけて成功を収めていたが、味を占めたベースボールマガジン社の重役らは「オールスター戦を開催して対抗戦をさせる」目的で東京ドームを押さえてしまい、山本氏に全面プロデュースを任せてしまった。山本氏は各団体を揃えるだけでも大変な作業であることから反対はしたものの、社命には逆らえず、対抗戦はだけは反対を押し切り、各団体の提供試合に留めることが精一杯だった。

 「夢の架け橋」が開催されることは週刊プロレスによってスクープされ、山本氏は新日本プロレスを始めとする各団体と全方位で交渉を開始、前田日明のリングスを皮切りに次々と参戦する団体が名乗りを挙げるが、参加を決めた団体は「断って誌面で叩かれたり、ホサれたりするより、協力してギャラを貰ったほうがいい」と長いものには巻かれろというのが本音だった。だが、一番危惧していた事態が起きる。天龍源一郎率いるWARが不参加を意向を示したのだ。

 WARは「夢の架け橋」同日に後楽園ホールで興行を開催する予定だった。そこで山本氏はWARの武井正智社長に後楽園をキャンセルして「夢の架け橋」の出て欲しいと要請するが、武井社長は「後楽園は早い時期から押さえていないと取れない会場ですし、ドームにぶつかっているからといって、”ハイ、そうですか”と投げ出すことは出来ません」と返事を返答する。それは武井社長の意向だけでなく、天龍自身の意向でもあった。

 天龍は全日本プロレスからSWSに移籍した際には自身の真意とは別に「天龍は金で動いた!」とバッシングされたことをきっかけに、SWSは週刊プロレスに取材拒否して締め出しており、SWSが分裂してWARを旗揚げすると、週プロへの取材を解禁したが、天龍は金権バッシングの軋轢もあって山本氏とは距離を取っていた。

 本来なら後楽園ホールは東京ドームの敷地内にあったことから、ダブルヘッダーという考えもあったはず、山本氏は妥協案を示さないどころか「それではWARをマイナーなところへ追いやることになってしまう」と言い放ってしまう。この発言で天龍だけでなくWAR側の反骨精神に火が点き、週刊ゴングの取材で「”天龍は金で動いた!って散々言われたやつから金を貰いたくないんだよ、貰う意味のない金を貰ったら、俺の心はゆがむよ」と長いものには巻かれないという姿勢を示し、天龍の意思を汲み取った武井社長も「会社の社長としては正しかったのか、わからない、社員や選手のことを考えれば、ビジネスとして割り切ってもよかったかもしれない。これで、また昔のようにバッシングされてWARがコケたら、あとは天龍のバックアップをお願いします、責任は、すべて僕一人で被りますから」と天龍と心中する覚悟を決め、WARの総意として「夢の架け橋」からのオファーを断り、この年に起きた阪神淡路大震災のチャリティという名目で4月2日後楽園を強行することになった。

 WAR4月2日の後楽園大会には影ながら週刊ゴングがバックアップすることになった。週刊ゴングの編集長だった小佐野景浩氏は「夢の架け橋」のあり方に疑問を抱いていた。「夢の架け橋」は本来ならプロレス全体のイベントでなくてはならないはず、だがベースボールマガジン社のやることはプロレス界全体のためではなく、一つの会社が複数の団体を集め興行を行うことで、プロレス界全体にベースボールマガジン社や週刊プロレスの威厳を示すものと捉えていた。また記事は全て週刊プロレスや山本氏の親交のある週刊ファイトで独占することになったことで、他紙を排除したやり方にも納得しておらず「夢の架け橋」が成功することで週プロの力がますます大きくなっていくことを懸念していた。天龍番記者でもある小佐野氏は天龍とWARが巨大な権力に向かっていく反骨精神に共感を示し、週刊ゴングの紙面を通じてWAR後楽園大会のキャンペーンを行い、天龍自身も裏ドームに参戦する選手を募った。

 天龍の裏ドームに真っ先の参戦表明したのは平成維震軍の越中詩郎だった。この頃の越中は新日本本体とは別ブランドで平成維震軍の自主興行シリーズを開催しており、維震軍興行に専念するためWARとの抗争は小休止していたものの、越中は常々天龍に恩義を感じており、敵なれどWARの手助けをしたいと考えて真っ先に名乗りを挙げ、後藤達俊と小原道由を引き連れて参戦を決めた。次にSPWFに参戦していた高木功(嵐)が名乗りを挙げる。全日本やSWSでは敵対していたものの天龍が最も期待をかけていた一人であったが、いつのまにか退団してしまい、天龍の期待を裏切り続けていた。だが、高木の天龍を慕う気持ちは変わらず、天龍に馳せ参じたいと考えて、直接連絡を入れて参戦が決まった。

 そしてメキシコから自らのファイトマネーで孤児院を経営していたメキシコのルチャドールであるフライ・トルメンタが 長瀬正和から4月2日の後楽園を聞きつけて参戦に名乗りを挙げれば、「夢の架け橋」に参加をする団体からもWARと提携していたLLPWから風間ルミを含めた6選手、みちのくプロレスからはザ・グレート・サスケとスペル・デルフィンらは東京ドームに出場するため参加が出来ない代わりに、ヨネ原人(気仙沼二郎)がデルフィンのブッキングで参戦が決定する。

 そこで週刊ゴングがヨネ原人のパートナーとしてミッシング・リングはどうか提案する。リングは顔面に緑色のペイントを施し、前頭部と後頭部の一部分のみを残して髪を剃り上げた怪奇派ヒールで、テレビ東京系列で放送されていた「世界のプロレス」では紹介されたものの、まだ日本に来日したことがなかった。天龍も素顔のリンクとはアメリカ武者修行時代から旧知の間柄だったことから乗り気となってオファーをかけることになったが、この頃のリンクは腎臓摘出の手術を受けた影響で第一線を退いて消息を絶っていた。そこで週刊ゴングはウォーリー山口氏に捜索を依頼すると、カナダにいることがわかり、直ちにオファーをかけ、リンクも「オレでいいのか?」と快諾して参戦が決定した。

 そこで思わぬところで超大物が参戦を表明する。新日本プロレスの現場監督だった長州力が参戦に名乗りを挙げたのだ。長州は「ドームに天龍源一郎が出ないことは…出すことが出来たんだはずなんだから、これは大いに間違いだ!どう考えても間違いだ!」と天龍に対して配慮が足りなかったベースボールマガジン社の姿勢を批判、「どんなカードでもいいから、後楽園はオレの枠を空けといてくれ」と出場が決定、また長州の権限で金本浩二も出場することになった。

4月2日当日、後楽園を取材していた小佐野氏は目の前の東京ドームを見て「きっと超満員になっているんだろうな」と思いつつ、「ドームが成功してくれなければ困るな」と思っていた。「夢の架け橋」は新日本からは橋本真也に蝶野正洋、全日本からは三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太、FMWから大仁田厚、リングスから前田日明、UWFインターから高田延彦など豪華な布陣だったこともあってチケットは完売だったものの、各団体を仕切る山本氏の苦労も相当なものであると感じていた。現に山本氏は全日本プロレスにも出場要請をしていたが、ジャイアント馬場は「チャンピオンカーニバルの最中だから」と理由に返事を先送りにしたことで難航していた。馬場が返事を先送りにした理由は天龍がドームに出場するかどうかを様子を見ていたからだった。全日本を崩壊寸前にまで追い込んだSWSは既に解散していたものの、天龍に対しては、まだまだ複雑な感情を残していた。また全日本がまだ手を出していなかったドーム興行を一雑誌社が開催すること自体も納得しておらず、馬場も今回ばかりはマスコミ側のブレーンだった山本氏の要請に安易に乗ろうとしなかった。最終的には全日本は天龍が出場しないことを確認したのと、極秘裏に他団体より好条件を引き出したことでやっと出場に応じたが、馬場に近い関係とされていたはずの山本氏さえ、全日本を引っ張り出すのに苦労していたことから、ドーム興行を成功させるために、新日本と全日本を始めとする13団体を揃えことが大変だったか、おそらく山本氏以外は知ることはなかったのかもしれない。

WAR後楽園も天龍だけでなく長州、アニマル浜口、冬木弘道率いる冬木軍、後にクリス・ジェリコとなるライオン・ハート、ウルティモ・ドラゴン、越中率いる平成維震軍、LLPW勢、キム・ドクなど後楽園に相応しい布陣を揃え、観客動員も2200人超満員札止めを記録、メインは天龍が長州と浜口と組んで越中率いる平成維震軍と対戦し、天龍が後藤をパワーボム3連発で3カウントを奪い勝利、試合後は天龍がマイクを持って「お前ら!よく聞け!オレたちはプロレス界の噛ませ犬じゃねえんだ!このやろう!これからのなあ、正々堂々としたオレ達の生き様を、とっくと見ておけ!」とドームに対して反骨精神を貫いたことを叫んでを締めくくり、大会も大成功で幕を閉じた。

 4月2日の興行戦争は双方成功で終わったが、ドーム興行を成功させたベースボールマガジン社は決して勝ち組ではなかった。『夢の架け橋』のメインで行われた橋本真也vs蝶野正洋戦が終えた後で、締めくくりの挨拶のために山本氏がリングに上がると、ブーイングが巻き起こった。それは巨大になりすぎた山本氏の権力に対する反発から起きたブーイングでもあり、このブーイングがきっかけになって山本氏はプロレスファンからの支持を失っていく、それは週刊プロレスの勝ち組ぶりを長く続くものではないことを予感させるものだった。

 翌年の4月29日の新日本東京ドーム大会の直前になって、山本氏が連載する「マイナーパワー」の中で「地方で手を抜く新日本」と一文を書いたことがきっかけとなって、新日本が週刊プロレスに対して取材拒否を通告する。取材拒否の措置は現場監督をしていた長州にしてみれば山本氏の一文は動員や人気にも影響するものであり、団体としての信用問題にもなりかねないものだった。だが、山本氏や週刊プロレス内部も”週プロが載せないことで、一番困るのは新日本のはず””新日本の取材拒否はSWSが取材拒否したときと同じで部数が落ちるわけがない”と受け止めて楽観視していた。

 ところがWAR、Uインター、武輝道場も新日本と共闘戦線を張って週刊プロレスに取材拒否を通告すると、新日本連合軍の取材を独占することが出来たゴングが圧倒的な部数を伸ばして、週刊プロレスと逆転してしまい、山本氏だけでなく週刊プロレスに大打撃を与えた。SWSを取材拒否したときは、天龍が全日本を裏切ったというファン感情を煽って、山本氏や週刊プロレスもファンから支持されたが、勝ち組となって巨大な権力を手にした山本氏や週刊プロレスを支持するものが少なくなっていたのだ。

 週刊プロレスが苦境に立たされる中で、1996年8月にベースボールマガジンの重役達が全日本女子プロレス武道館2連戦をプロデュースするように山本氏に社命を下す。この頃の女子プロレスは対抗戦ブームがすっかり過ぎてしまっており、全女も団体としても下り坂になっていたことから、武道館2連戦が成功する可能性は全くなかったが、山本氏がプロデュースしたら成功するだろうと考えた重役達が、全女サイドの口車に乗ってしまい興行を買ってしまったのだ。
 新日本連合軍の取材拒否はボディーブローのように効きはじめ、週刊プロレスの部数は下がり、成功する可能性のない興行も押し付けられた山本氏は追い詰められた状況となってやる気を失っていく。

 取材拒否の間もベースボールマガジン社は新日本側の取材拒否の担当者である永島勝司氏に取材解禁を水面下で交渉しており、その一方で新日本の会長だったアントニオ猪木とも接触、猪木の「もう雪解けでいいじゃないか」の一言で、山本氏名義のお詫び文を週刊プロレスに掲載させることで事を全て済ませようとしていたが、お詫び分は事実上週刊プロレスが新日本に敗北したことを意味していた。ところがベースボールマガジン社は山本氏を週刊プロレスの編集長から降ろすことで全て解決させてしまい、山本氏は他部署に左遷させられ、事実上失脚し、疲れ切った山本氏はベースボールマガジン社からも去っていった。

 山本氏の失脚は自身が掲げた活字プロレスの終焉でもあり、そのきっかけを作ったのがベースボールマガジン社が押し付けてきた「夢の架け橋」だった。後年、山本氏は「『夢の架け橋』をやって完全に終わったわけですよ!」と答えていたとおり、山本氏にとって集大成でもあり、引き際でもあった。だが成功して浮かれきっていたのは山本氏ではなくベースボールマガジン社で、いざとなると山本氏をトカゲの尻尾のように切り捨てた。いやマット界全体が山本氏をトカゲの尻尾のように切り捨てたのかもしれない。

 今年は1月4、5日の新日本プロレス東京ドームの裏でNOAHが後楽園2連戦を開催、大日本プロレスも新木場で2連戦、4日の昼間には後楽園で東京女子、横浜ラジアントでアイスリボンとディアナ、両国KFCでスターダム、5日には板橋でDDTと東京女子、新宿FACEでセンダイガールズとOZアカデミー、新木場でSEAdLINNNG、亀アリーナではPURE-Jと関東でこれだけの興行を開催する。WWEのレッスルマニア開催間近にはアメリカの各団体や新日本プロレスが裏レッスルマニアを開催するように、日本でも裏ドームに開催するようになってきた。令和も2年目を迎えた今年もプロレスが隆盛を迎えることを祈りたい。
 
(参考資料 双葉社「『週プロ』黄金期 熱狂とその正体」市瀬英俊著「夜の虹を架ける」日本スポーツ出版社「あの話、書かせて貰いますⅡ」)

 

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