SWS分裂②・・・カブキの降板、谷津の告発で分裂への引き金が引かれた!

 SWSは1991年12月13日に2回目の東京ドーム大会を開催、メインでは天龍がハルク・ホーガンと対戦して敗れたものの、「プロレス大賞」の年間最高試合賞を受賞、折原昌夫も新人賞を受賞するなど、SWSもやっと業界内で認められ始め、リング内でも天龍&阿修羅原の龍原砲、谷津嘉章&キング・ハクのナチュラルパワーズ、ジョージ&俊二の高野兄弟の3チームの抗争を軸に繰り広げるだけでなく、3軍の抗争に次世代の北原光騎&仲野信市の挑龍軍も参戦、SWS初のリーグ戦であるSWSタッグ王座決定リーグ戦が開催され、またジュニアもSWSジュニアヘビー級王座も新設して佐野直喜(佐野巧真)が王者になり、WWFからもジ・アンダーテイカーなど大物選手が派遣されるなど、表向きは活性化され、SWSは軌道に乗ったかに見えた。

 しかしブッカーであるザ・グレート・カブキはこれまで通り天龍や「レボリューション」を比重に置いたマッチメークを組むため、「パライストラ」や「道場・檄」の不満も変わらず、田中八郎氏に直訴して、直訴を聞き入れた田中氏が天龍とカブキに苦言を呈する状況は続いており、表向きはSWSは活性化されても、内部は相変わらず派閥闘争が続いていた。

 その最中に1月8日の大阪府立体育会館大会で第1試合で出場した片山明がトペに失敗して場外フロアーに落下するアクシデントが発生し、片山は第4頚椎脱臼骨折の重傷を負ってしまうが、この件でもカブキが組んだマッチメークに原因があるのではと反天龍派から糾弾されてしまう。

 3月にカブキはブッカー辞任を申し入れ姿を消してしまった。カブキはブッカー就任後はオフになっても事務所には顔を必ず出して、デスクワークやカード編成を行い、現場でも必ず一番乗りして会場の隅々までチェック、また第1試合に出るのは嫌だという中堅選手の反発を受けて自ら率先して第1試合など前座に出場し続けていたが、反天龍派のクレームだけでなく田中氏の介入などには常に頭を痛め、精神的に参ってしまい、とても仕事が出来る状態ではなくなっていた。

 そんなカブキの苦労を知っていたからこそ、天龍は慰留に務めていたが、カブキの意思は変わらずブッカーを降板、4月からレボリューションは敢えて離脱し一匹狼のフリーとして復帰するも、レボリューションも離脱した理由は、留まることでまた天龍が槍玉に上げられると思ったことでの配慮で、敢えて距離を取って外から天龍をサポートしようとしていた。マッチメークはレボリューションから石川敬士、反天龍派から鶴見五郎と合議制で組まれることになったが、カブキがブッカーを降りたことを反映してか、天龍の試合がメインで組まれることは減っていくも、カブキのブッカー降板はSWSに起きる大激震に向けての余震に過ぎなかった。

 カブキがブッカー降板の会見からの一週間後、選手会長だった谷津嘉章が辞任をしたことをマスコミに向けて発表する。谷津は若松が夫人の死去のショックでSWSでの業務が出来なくなり、田中氏らの配慮でメガネスーパー内の他部署に異動したことに受けて、「道場・檄」の道場主を引き継いでおり、また新日本や全日本共に所属していたこともあって、天龍や反天龍派の間を取り持つために選手会長に就任していた。

 会見では谷津は天龍を中心としたレボリューションへの不満と派閥闘争があったことを暴露するが、谷津は後年、オーナーである田中八郎氏が全ての黒幕だと明かしていた。田中氏はSWSには多額の先行投資をしたにもかかわらず、全く利益は出ない、赤字が続きで多額の負債が出ていたことから、メガネスーパー本体から突き上げを喰らっていた。負債が出た理由は先行投資だけでなく、天龍が社長としての権限でSWSのステータスを高めるために予算をふんだんに使っており、特にWWFとの提携もブッキング料が破格で、選手からも「天龍とカブキ、佐藤昭雄がマージンを取って儲けている」と憶測が出て反発が起きていた。

 メガネスーパー本体からの突き上げと、SWSの統率のなさに田中氏もSWSを続けることに嫌気を差しSWSを解散することを決め、解散を実行するための汚れ役として谷津を選んだ。谷津は天龍やジョージらと違って誘われてSWSに移籍したわけでなく、自分の意志で移籍し、反天龍派の「道場・檄」で道場主となっていたが、表向きは中立の立場として天龍やジョージに接していたものの、内心は元々新日本プロレスに対して冷めた目で見ていたことから、ジョージらに対しても冷めた目でみており、また天龍に対しても長州力と同じく冷めた目で見ていた。田中氏が谷津を汚れ役に選んだ理由は、谷津の本心というものを見抜いていたからかもしれない。

 田中氏は谷津に全てを打ち明けると「もうそれぞれの道場に年間2億円を出すから、独立してほしい。」「年に1,2回合同興行をする」と条件を出す代わりに、「それぞれの道場が独立することを持ち掛けて欲しい」と谷津に依頼する。さすがの谷津も躊躇したが、SWSだけでなくプロレスそのものに嫌気を差していたこともあって、口止め料として2億円をもらってプロレス界を去ることを条件にして田中氏の依頼を引き受けるも、田中氏は「SWSをなくす話に僕が絡んでいることは言わないでくれ」と念を押されたという。

早速、谷津は根回しのためにジョージや天龍にメガネスーパーの支援を受けての独立を谷津の提案として、それぞれに説明したが、ジョージは天龍とは一緒にやっていけないとして賛成したが、天龍は納得しなかった。天龍にしてみれば自身が週刊プロレスだけでなく反天龍派からバッシングを受けながらも、SWSの盛り上げるために頑張り、2年がかりでやっと団体を起動に乗せたにも関わらず、谷津の提案は団体が分裂に等しい話で、納得しがたいものだった。

 天龍と谷津の話し合いは平行線に終わり、「冷静に話し合おう」と日を改めて話し合いすることになり、話し合いの内容も口外しないことを約束していたはずだった。だが谷津はこれ以上話し合いをしても天龍は絶対納得しないだろうと判断して、フライングで会見を開き、内部事情を暴露した。谷津にしてみれば、それぞれの道場が独立する話を強引にでも推し進めるために内部事情を暴露したに過ぎず、あとは田中氏がSWSを解散することを発言すれば、全て計画通りというシナリオになるはずだった。ところが田中氏は突然「谷津が勝手にやったことだ」と発言してしまい、谷津はクーデターを企てたとして孤立してしまう。実は谷津とは別に田中氏もシナリオを用意していたのだ。

 田中氏は待遇や引退後の保証目当てで移籍してきた選手や、全日本プロレスを退団してまでSWSに賭けてきた天龍は絶対に納得するわけがないことは充分わかっていたが、解散という選択肢を取ったとしても、選手やスタッフを大量に整理(リストラ)を意味していることから、メガネスーパー本体の企業イメージに傷がついてしまうことから簡単に解散することは出来なかった。そこで田中氏はSWS内部による派閥闘争を利用して解散させることを思いついた。ただでさえまとまりがない選手たちを勝手に揉めさせて分裂となれば、メガネスーパー本体に傷はつかない、それが田中氏の考えたシナリオだった。田中氏は谷津に「形だけでもいいから頭を下げて欲しい」と要請したが、利用された挙句に裏切られた谷津は応じようとしなかった。

 田中氏は狙い通りに内紛が表沙汰になったことで、これ以上続ける意味がないとして、このまま全てのスケジュールをキャンセルしSWSを解散しようとして天龍に持ち掛けていた。しかし天龍も5、6月の日程も発表しチケットも売っており、キャンセル出来ないとしてレボリューションやWWFの選手だけで残り日程を消化するために開催すると反発するが、天龍も田中氏にSWSを続ける意志はないことは、この時点で察知したと思う。天龍はSWSでは社長だったが、あくまで雇われ社長過ぎなかった。だが社長としての意地がある。このまま解散するにしてもファンを無視した形でやりたくない、応援してくれたファンに礼を尽くした上で幕を引こうとしていたのかもしれない。

 天龍の意思の固さに早期解散を目論んだ田中氏もサジを投げ、5月シリーズは強行されることになり、出場が微妙視された反天龍派も、レボリューションとWWFと絡まないカードを条件に出場を決め、カード編成も天龍派&WWF、反天龍派同士のカードに変更となったが、反天龍派が一転して出場を決めた理由は、田中氏の要請で谷津も契約通りシリーズに出ることになったからだった。

(参考資料 、日本スポーツ出版社 小佐野景浩著 「SWSの幻想と実像」ベースボールマガジン社「SWS激闘史」宝島社「谷津嘉章 闘いの日々」)

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