馬場・猪木に挑んだ男・大木金太郎


 1973年4月13日、日本プロレス界の老舗団体、日本プロレスは4月20日群馬県吉井町大会をもって崩壊、大木金太郎や上田馬之助、グレート小鹿や高千穂明久など残党となった選手らは日本テレビの仲介で全日本プロレスに吸収されるも、対等合併だと思い込んでいた選手らと全日本側と齟齬が生じたことで上田が離脱、全日本における自分の扱いに満足しきっていた大木も、全日本側が次代のスターとして売り出すジャンボ鶴田が凱旋帰国すると、大木は鶴田の下として扱われたため、プライドを傷つけられた大木は韓国に帰国、全日本のツアーには参戦しなかったため、そのまま離脱となったが、大木はこのまま引き下がるつもりはなかった

 大木は1958年にプロレスラーになるために韓国から密入国するも、同じ朝鮮半島の出身だった力道山が身元引受人となって弟子入りを果たし、以降は力道山を師匠として慕うようになった。翌年には馬場と猪木が入門、二人と1年先輩ながらも、若手三羽烏の一人とされ将来のスター選手候補生として凌ぎを削り、猪木のデビュー戦の相手を務めたのも大木だった。
 力道山が死去すると、日本プロレスはアメリカ武者修行で大スターとなっていたジャイアント馬場をエースに押したて、また猪木も一旦日本プロレスを離れて東京プロレスの旗揚げに参加するが、東京プロレスのエースとして活躍したことで一気にブレイクすると、日本プロレスに復帰してから馬場に次ぐエース格にのし上ったが、大木はNo3の座に留め置かれ、馬場と猪木に遅れを取っていた。そして猪木、馬場が離脱して独立したことで、日本プロレスのエースの座は大木に転がり込み、インターナショナルヘビー級王座も奪取するが、馬場と猪木の抜けた穴を埋めるまでにはいたらなかった。

 大木はインターナショナルヘビー級王者としてPWFヘビー級王者の馬場、NWF世界ヘビー級王者の猪木に挑戦を表明。これにより猪木がかねてから提唱していた日本マット界統一へ向けての日本選手権への気運を高めたが、大木は馬場への挑戦を突如却下する。理由は大木は日本テレビの契約で全日本プロレスに参戦していたため契約が残っており、全日本に戻れなかったからだった。馬場も全日本から一方的に離脱した大木を相手にせず、猪木もvs大木が馬場への挑戦者決定戦みたいな形になることから「馬場さんと戦って勝った上で挑戦してくるのが筋」と相手にしなかった。

 ところが水面下で営業本部長だった新間寿氏が日本にたまたま滞在していた大木と接触する。猪木は表向きはvs大木は拒否していたものの、本音は興味を持っており、交渉するように命じると、大木が日本にいる愛人宅にいることを聞きつけた新間氏は大木と交渉、大木は1974年9月30日の愛知県体育館大会のテレビマッチの日に現れ、猪木に挑戦を改めて表明、猪木は受諾して10月10日の蔵前国技館大会でNWFヘビー級王座に挑戦するという形で実現した。

 試合は開始直前で猪木はまだガウンを脱いでいない大木をいきなり顔面を殴り、大木はダウンして館内は騒然となる。
 正式に試合開始となると、猪木は殴る構えを見せて大木を牽制しつつロックアップで組み合うも、大木はブレーンバスターを狙いに来ると、猪木は堪え、スタンディングになると、今度は大木が殴る構えを見せて牽制する。
 猪木はヘッドロックで捕らえるとコブラツイストを狙うが、警戒した大木はロープに逃れ、ロックアップから猪木が押し込むと、レフェリーを務めた豊登とサブレフェリーのミスター高橋の二人が両者を分ける。
 猪木はヘッドロックで捕らえるが、大木がタックルからグラウンド狙いは猪木が蹴って逃れ、猪木はロックアップから再びコブラツイストを狙い、大木は足を捕らえて逃れてから得意の頭突きを狙うも、猪木はロープに逃れる。
 猪木はグランドに持ち込んで肘を顔面に押し付け、逃れた大木は再び頭突きを狙うが、猪木はロープに逃れ、ロックアップから大木がブレーンバスターで投げると、猪木はダブルアームスープレックスする。
 大木はロープに押し込むと、猪木のボディーに頭突きを連発、コーナーに押し込んでから猪木の額に頭突きを打ち込み、大木は連発して猪木はダウンしてしまうが、立ち上がった猪木は「打って来い!」と挑発すると、大木は頭突きを連発、猪木は何度もダウンして場外に逃れると、大木はアピールして勝利を確信する。
 猪木は戻ってくると再び「打って来い!」と挑発、大木は容赦なく頭突きを連発して猪木は頭部から流血する。大木は一本足頭突きを浴びせると、猪木はカウンターのナックルを浴びせてからボディースラム、バックドロップで逆転勝利を収めるが、猪木と互角以上に渡り合った大木もまだまだトップレスラーであることを大きくアピールすることが出来た。

猪木vs大木はその後は2度対戦して、そのうちの一つは1975年3月27日に大木の地元である韓国・ソウルで猪木が大木の保持するインターナショナルヘビー級王座に挑戦するという形となったが、猪木が足四の字を仕掛けた際に場外へ転落してリングに戻れず両者リングアウトとなって引き分け、4月4日の蔵前の第2回ワールドリーグ戦では開幕戦で対戦し、大木が速攻勝負を仕掛けて頭突きを連発してリングアウト勝ちとなって1勝1敗1分となったが、戦績で猪木と五分となったが、猪木vs大木はこれで最後となった。

 大木と新日本の契約が切れてからしばらくして、日本プロレス残党ながらも全日本に残った小鹿が日本に大木が日本に滞在していることを知ると接触し、全日本に戻らないかとオファーをかける。大木が日本に滞在していた理由は金策だった。大木の地元である韓国マット界は当時の大統領である朴正煕の庇護下に置かれて、韓国全体が大木のスポンサーになっていたが、北朝鮮による朴大統領暗殺未遂事件、大統領夫人が暗殺されてからは朴政権に陰りが見え始め、国内からも「いつまでプロレスに税金を使うのか?」と韓国国内の世論の声に押し切られてしまいプロレスに投入する予算を半減せざる得ず、国を頼りにしていた大木はたちまち資金繰りに追われ、そのため新日本の外国人選手を借りて興行を打つことが難しくなっていた。おそらく外国人招聘にあたっては仲介していた新日本から高額な仲介料を取られていたと思う。大木は半額した予算を補填するため水産業の事業を起こすことになり、在日系の知人に協力を求めるため頻繁に日本に来ていたのだ。小鹿から話を持ちかけられた馬場は大木が新日本との契約が切れているどうかしっかり確認した上で全日本に参戦させることにした。

  1975年9月に馬場が大韓プロレス協会の招きで、韓国へと渡り、マスコミとの食事会を行ったが、食事会の席で大木が突如現れて馬場に挑戦を表明する。マスコミも大木はまだ新日本側と思い込んでおり、また新間氏も星野勘太郎を伴って韓国に滞在していたことから、馬場側もマスコミももう対戦に向けて合意に達していることを知らなかったのか”新日本の仕掛けた罠だ”と馬場に忠告するも、馬場も「筋を通せば受ける」とあっさり受諾したことで周囲を驚かせた。馬場がマスコミとの食事会の席で大木に挑戦をアピールさせたのも、大木が全日本に戻るという既成事実を作り上げたかった意図もあったと思う。

 馬場vs大木は猪木vs大木が行われた1年後の10月30日、会場も同じ蔵前国技館で実現となったが、シリーズ中に大木の挑戦は受けても、自身の挑戦を受けようとしないアブドーラ・ザ・ブッチャーが業を煮やして馬場の試合に乱入し、コーナーに昇っていた馬場を襲撃すると、場外に落ちた馬場が本部席の角に頭を直撃させ、頭部裂傷の重傷を負ってしまう。”ポスターに自分の顔が乗っている限りは欠場しない”ことを信条にしていた馬場は強行出場してシリーズをこなしていたが、コンディションは万全でないまま大木戦に臨むことになる。しかし、一方の大木もシリーズは馬場戦のみの1試合だけの出場だったこともあってコンディションは万全で整えようとした矢先に母が死去、決戦直前まで葬儀などで対応に追われていたため、大木も万全なコンディションで臨んでいなかった。

開始から大木は下から突き上げてくる頭突きで牽制し、馬場はバックしつつ腕のリーチの長さを巧みに利用して距離を取り、大木が頭突きを狙っても腕をクロスしてガードする。
 しかし互いに組み合わないためジョー樋口レフェリーは試合にならないとして双方に注意する。大木は馬場をコーナーに押し込んで馬場のボディーに頭突きを打ち込むと、大木は馬場のリーチの長い腕をかいくぐって懐に飛び込んでボディーに頭突きを打ち込み、さすがの馬場も前屈みぎみになったところで大木は馬場の頭部に頭突きを炸裂させ、馬場も裂傷した傷がまた開いて出血し、たまらず場外へ逃れてしまう。
 リングに戻ると馬場は蹴るが、大木がショルダータックルを浴びせ、もう一発を狙ったところで、ここ一番で決まる大技・ランニングネックブリーカードロップがカウンターで決まって3カウントとなったが、試合後にメインを控えるブッチャーが乱入して、馬場と大木双方を襲撃するという大荒れとなり、試合後も大木はまさかの速攻での敗戦に納得しなかったが、樋口レフェリーに促されて馬場と握手してノーサイドとなった。

 試合時間も猪木vs大木より早い6分決着、馬場は大木が頭突きを使うことで首を慢性的に痛めており、また受身もあまり得意でなく、馬場自身も万全ではないことから、速攻勝負狙いと考えたのか、最後のランニングネックブリーカーも、馬場から仕掛けてくることで敢えて大木が突進することを誘った上での勝利だったが、両者とも万全でなかったことを考えると短期決戦が精一杯だったのかもしれない。

 その後の大木は全日本を主戦場にし、また馬場の推薦もあって韓国のプロモーターとしてNWAの会員となり、NWAを通して外国選手を招いて、韓国内の興行を継続させることが出来た。また全日本では付き人だったキム・ドクと組んで馬場&鶴田に挑んで、日韓師弟対決として抗争を繰り広げ、遂にインタータッグ王座を奪取、馬場vs大木はチャンピオンカーニバルの公式戦や選手権で7度行い、最後の対戦となった1978年のチャンピオンカーニバル公式戦では急所打ちから3カウントを奪い、やっと馬場から勝利を収める。

 大木は1979年に一旦全日本を離れて国際プロレス入団するが、この頃の大木は実力的にピークが過ぎていたこともあって全日本内での居場所を失っており、東京12チャンネル側は観客動員や視聴率に苦しむ国際プロレスにテコ入れするために、推薦という形での入団させたが、テレビ局側の干渉と受け止めていた国際プロレス側が大木を歓迎していなかった。大木はニック・ボックウインクルの保持するAWA世界ヘビー級王座にも挑戦したが、観客動員だけでなく視聴率など好転しなかたっため、9ヶ月目で契約切れで退団、全日本にUターンしたものの、今度はNWAの会員団体でない国際プロレスでインターヘビー級選手権を開催したことNWAから咎められてしまい、後生大事にしていたインター王座の返還を要求されてしまうが、それは表向きで馬場がインター王座を買収しにかかったのだ。

 馬場にとってインターヘビー級王座は自身の代名詞的なベルトであり、日本プロレス離脱の際にはには、馬場自身が筋道論を破り、NWAの許可を得てベルトを持って離脱することを考えたほどだった。しかしベルトの管理権がある日本プロレスは許さず、大木を馬場への刺客として差し向けようとしたが、余計なトラブルを避けた馬場は王座を返上して日本プロレスを去り、インター王座は大木が奪取し、日本プロレスが崩壊してからは尊敬する力道山の遺産として個人で所有し続けていた。

 馬場は大木から勝って奪取し封印していた、もう一つの力道山の遺産であるアジアヘビー級王座プラス金銭でインター王座との交換を条件に出すと、大木は応じてインターヘビー級王座を全日本に譲り渡した。実は全日本参戦の間に大木の身辺にも変化が起こり、これまで大木をバックアップしてくれていた朴正煕が暗殺されると、後任の大統領である全斗煥は朴政権を否定するかのように政策が改められ、プロレスに対する支援を打ち切れるだけでなく、大木の経営していた事業も不渡りを出してしまい、金銭的にも窮地に立たされていたことから、馬場からの取引に応じざる得なかったのだ。

 アジアヘビー級王座を手にした大木は全日本マットに復帰したが、天龍源一郎が台頭するだけでなく崩壊した国際プロレスから阿修羅・原やマイティ井上が入団したこともあって、日本陣営は厚くなっていたことから大木は目立つ存在ではなくなり、中堅また前座で試合をするようになっていたが、以前のように馬場に反発することなく黙々と試合をこなしていた。11月5日の市原大会におけるマスクドX戦を最後に全日本マットから姿を消し、1982年に地元・韓国にてアジアヘビー級王座をかけて原の挑戦を受けて防衛したのを最後にマット界からも消えた。消えた理由は慢性的に痛めていた首が年齢と共に悪化してしまい、頭突きを使えないどころかリングに上がれる状況ではなくなってしまったからだった。

 マット界から離れた大木は消息を聴くことはなかったが、1995年4月2日に行われたベースボール・マガジン社(週刊プロレス)主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で大木が来場し、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」行われ、車椅子姿で花道にルー・テーズに押されて入場した大木は、リングインの際にはリングに上がり、四方に頭を下げ、感謝の言葉を述べ、引退の10カウントが鳴らされた際には涙を流した。そしてバックステージでは来場する予定ではなかった馬場が現れて大木と再会、短い時間ながらも馬場はねぎらいの言葉をかけ、大木も笑顔で答えたという。
 馬場が死去後に大木が頭突きの後遺症による脳血管疾患、高血圧・心不全・下肢浮腫で闘病中であることが明かされると、猪木がわざわざ韓国を訪れ見舞い、昔話に話を咲かせていたが、大木は2006年10月に死去、危篤の一報を聞いた猪木は大木の下へ駆けつけようとしたが、死に目には会えなかった。

 馬場、猪木、大木は日本プロレス時代ではライバルでもあり仲間でもあったが、常に先頭に立ってマット界をリードしていたのは馬場、猪木で、大木はトップに立つ器ではなかったのか、実力がありながらも二人から遅れを取っていた。しかし晩年の3人の姿を見ると、競い合っていたライバルから仲間へと戻っていった。大木にしてみれば馬場と猪木はライバルでもあり、二人がいるから上に立てないというコンプレックスの対象だったのかもしれないが、馬場と猪木にしてみれば大木はライバルであり、仲間だったのかもしれない。

(参考資料 新日本プロレスワールド、ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史vol.9「ザ・抗争」Gスピリッツvol.51「初期の新日本プロレス」、猪木vs大木戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)

 

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