激動のPWF戦線!脇役キラー・トーア・カマタの大金星…馬場を破りPWF王座を奪取

1978年6月1日の秋田でジャイアント馬場は自身が保持するPWFヘビー級王座をかけて、キラー・トーア・カマタの挑戦を受けた。

カマタはハワイ出身で1959年にデビュー、1965年にアメリカ本土に渡ってから現在のリングネームに改め、NWAやAWA圏内だけでなくカナダで活躍、カナダでは後にパートナーとなるアブドーラ・ザ・ブッチャーと抗争を繰り広げた。

1975年に大剛鉄之助氏のブッキングで国際プロレスに初来日、ラッシャー木村の保持するIWA世界ヘビー級王座にチェーンデスマッチ、金網デスマッチなど5度に渡って挑戦、IWA世界タッグ王座にも挑戦するなど、国際プロレスでは外国人エースとして一角を担う存在となった。

 そのカマタが1978年に全日本プロレスに戦場を移した。カマタは国際プロレスの社長だった吉原功氏に筋を通して円満に移籍したとしている。カマタが在籍していた頃の国際プロレスで大剛がブッカーとなって現場を取り仕切っていたが、大剛の組んだマッチメークが好評だったにも係わらず、吉原功社長によって降板させられた。国際プロレス側の”政変”もカマタが全日本に移籍するきっかけになったのかもしれない。 

カマタは「78スーパーパワーシリーズ」全日本に参戦、外国人エース格はAWAでも抗争を繰り広げていたビル・ロビンソンで、シリーズ中にはジャイアント馬場の保持するPWF王座に挑戦することが決まっていた。しかしこの頃の馬場は1977年10月26日に大木金太郎の挑戦を退け、38度目の防衛戦に成功して以降、防衛戦を行っていなかった。理由は坐骨神経痛を患っており、リングに上がっていることがやっとのため、防衛戦どころではなかったが「ポスターに自分の顔が出ている以上、出なければいけない」ことを信条にしていたことから、決して負傷で欠場することはなかった。

 馬場もやっとコンディションが良くなったことで、ロビンソン防衛戦相手に防衛戦を行うことになったが、ロビンソンとの防衛戦を迎えるころには防衛期限である半年以上が経過するため、その前に防衛戦を行わなければならなくなり、馬場はロビンソンの準エース格であるカマタを抜擢した。馬場もこの時点ではカマタはあくまでロビンソン戦へ向けて試運転に過ぎないと考えていたのかもしれない。

 試合は開始からカマタが手刀の連打を浴びせ、馬場がグラウンドに持ち込んでもカマタがロープ際で蹴りやクローで馬場を攻め込み、脳天チョップで逃れた馬場は蹴り上げ、カマタの左腕をハンマーロックで捕らえても、指突きで逃れたカマタはサミングや噛みつきとラフで応戦する。
 馬場は脳天チョップから首投げ、フェースロックとカマタの動きを止めにかかり、サミングで抵抗するカマタに脳天チョップを浴びせるも、カマタはトーキックで反撃して再びクローで捕らえ、ベアハッグで絞り上げる。膝蹴りで脱出した馬場はカマタを場外へ追いやるが、カマタは馬場の足を掴んで場外へと引きずり出すと場外戦となり、馬場は本部席へカマタを叩きつけ、脳天チョップを浴びせる。
 リングに戻った馬場は蹴りの連打から16文キックを決めるも、カマタは場外へ逃れ、リングに戻るとカマタはトーキックの連打から指突き、馬場を場外へ蹴り出し、カマタは鉄柱攻撃から入場用の階段を持ち出し、馬場の痛めている腰を殴打する。
 カマタは馬場がリングに戻る際にも馬場の腰を攻めるが、怒った馬場はカマタを場外へ引きずり出してエプロンに叩きつけ、鉄柱攻撃で流血に追い込み、流血したカマタに脳天チョップを乱打も、カマタはキックや指突きで応戦してコーナーからダイビングボディープレスを投下する。
 再び場外戦で馬場も鉄柱攻撃から放送席へ叩きつけ、放送用のコードでカマタの首を絞め、さすがのジョー樋口レフェリーも馬場が激怒していることを察して制止に入るが、馬場は突き飛ばしてしまう。ここで樋口レフェリーが試合終了のコングを鳴らし、カマタの腕を上げて反則勝ちで王座奪取となり、馬場のまさかの敗戦に館内は騒然となる。

 馬場もカマタを格下だからと思っていたが、痛めていた腰を攻められたことでカっとなって、ロビンソン戦を前にして反則負けを喫してしまい、38度防衛してきた長期政権に自ら終止符を打ってしまった。周囲もカマタの大金星に唖然とするしかなかった。

 しかし11日後の12日、愛知県一宮大会で行われたロビンソンとの防衛戦では、ロビンソンがジャンピングエルボーアタックからのワンハンドバックブリーカーで3カウントを奪い、カマタは11日天下に終わって、PWF王座は海外へ流出した。

ロビンソンは10月から開幕した「ジャイアントシリーズ」に前半戦のみ特別参戦し、9日の久留米では前王者のカマタの挑戦を受け、試合は3本勝負となったが、2-1でカマタを降し王座を防衛するが、18日の栃木でアブドーラ・ザ・ブッチャーの挑戦を受けた際に、1-1のイーブンの後で、ワンハンドバックブリーカーの多用で痛めていた膝を攻められてしまい、レフェリーストップで敗れ王座から転落してしまう。

 腰の調子が良くなった馬場は11月17日の東大阪大会でブッチャーに挑んだが、1-1の後、両者リングアウトで王座奪還に失敗してしまい、馬場の王座奪還は越年、馬場は翌年の1979年2月10日、イリノイ州シカゴに乗り込んでブッチャーに再び挑み、1-1の後でリングアウトで馬場が勝利を収め8ヶ月ぶりに王座を奪還した。

 カマタは馬場が王座から昭和55年2月の沖縄、昭和56年の6月の後楽園と2度に渡って馬場の保持するPWF王座に挑戦したが、王座を奪取することは出来ず、ブルーザー・ブロディの台頭、スタン・ハンセンとタイガー・ジェット・シンが新日本に移籍したことでタイトル戦線から大きく後退、次第に全日本マットからフェードアウトしていった。

 1989年フジテレビのバラエティー番組「とんねるずのみなさんのおかげです」で石橋貴明が「トーアカマタ!」と叫んで指突きを披露し番組のワンコーナーである「仮面ノリダー」ではトーアカマタ男が登場するなど、再びカマタの存在が注目され、再来日が期待されたが、1987年の来日を最後に引退していただけでなく、1980年には既に心臓に疾患を抱えていたため、減量しており「痩せ衰えたを姿を見せるのはファンのイメージを損ねる恐れがある」という配慮から、カマタの来日は実現しなかった。

カマタは2007年の7月23日に心臓発作で死去、享年70歳だった。カマタは全日本では脇役だったものの、馬場からPWF王座を奪ったことで、全日本の歴史に名前を残すことが出来たレスラーだった。

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