2001年9月1日、後楽園ホール大会からZERO-ONE初のシングルリーグ戦「火祭り」が開幕した。
7月13日のZeep TOKYO大会で田中将斗に勝利を収めた大谷晋二郎は「俺達が、上であぐらをかいている奴らのケツに火をつけてやろうじゃねえか。熱い奴集まれ!」 と「火祭り」開催をアピールすると、村上一成、石川雄規、アレクサンダー大塚が続々と集まり、代表だった橋本真也が 『お前等、やるんだったらリングでやれ。試合、組むぞぉ!こらぁ!』 と号令を出して開催にGOサインが出された。大谷は 『あぁ~楽しくなってきたぁ!』 と叫び締めくくったが、これから苦難が待ち受けていることは誰も予測していなかった
(出場選手)大谷晋二郎、田中将斗、石川雄規、アレクサンダー大塚、村上一成(和成)、佐藤耕平、関本大介、サモア・ジョー、ジャスティン・マッコリー、ショーン・マッコリー、
当時のマット界は三沢光晴のプロレスリングNOAHが2000年に旗揚げし、新日本プロレスは三沢の離脱を受けて選手層が薄くなった全日本プロレスと交流していたものの、当時K-1やPRIDEの格闘技ブームを受けてPRIDEのエクゼブティブプロデューサーとなっていたアントニオ猪木が格闘プロレス路線を推進していたことで、現場を取り仕切っていた長州力と対立が生じていた。3月に旗揚げしたZERO-ONEは当初こそは新日本の衛星団体として旗揚げしたが、独立志向の強い橋本が新日本から離れて独立も、猪木はやっぱり橋本が可愛かったのか裏では応援しており、小川直也のUFOとの繋がりを持たせるだけでなく、ザ・プレデターなど外国人選手もサイモン・ケリー氏からブッキングされていたことから、新日本との関係は切れても、猪木との関係は完全には切れていなかった。
火祭りに参戦した選手はZERO-ONEから大谷、田中、この年デビューしたばかりの耕平、格闘探偵団バトラーツからは石川にアレク、UFOから村上、大日本プロレスの関本、UPWからジョー、LA道場からマッコリー兄弟が参戦、全大会はCSのSAMURAI TVによって放送され、そのうち一大会はバトラーツの主催興行で行われる予定だった。この頃のバトラーツは田中稔、池田大輔が退団、PRIDEで活躍していたアレクも連敗続きと興行的にも苦しくなっており、一時両国国技館まで開催してきた勢いは完全に落ちていた。また大日本の関本は当初こそ参戦予定ではなかったものの、本人が大谷に出場を直訴したことで決定、このときの関本はデビュー2年目だったがMEN’Sテイオーと組んでBJWタッグ王座を奪取するなど将来を嘱望されていた選手だった。
これで選手が揃い「火祭り」が開幕を待つだけとなるが、開幕直前にとんでもない事態が起きてしまった。ZERO-ONEは主に格闘プロレスを主体とする「真撃」を開催していたが、8月30日の武道館大会にPRIDEで活躍していた格闘家であるマーク・ケアーが参戦することになっていた。ケアーは「霊長類ヒト科最強」の異名を持ち、PRIDEではエンセン井上を破るなど大活躍していたが、2000年5月に開催された「PRIDE GRANDPRIX 2000 決勝戦」で藤田和之に敗れてからは、イゴール・ボブチャンチン、ヒース・ヒーリングにも敗れて連敗続きとなり、「霊長類ヒト科最強」の異名も完全に影を潜めるようになっていた。

ケアーは代理人からサイモン氏を経由してZERO-ONEに売り込みがあり、橋本や中村祥之氏も「PRIDEの大物ファイターであるケアーが参戦すれば面白いんじゃないか」ということで、ケアーの参戦を決めたが、ケアー参戦にあたっては細心の注意を払い、DSE初代社長だった森下直人氏にケアーはPRIDEとの契約が切れていることを確認し、橋本も猪木に筋を通すため連絡を入れ、猪木からも「あいつはいい選手だから、取れよ」と激励された。そして中村氏が渡米してケアーと契約を結び、猪木がラスベガスにいることをサイモン氏から聞きつけると、ケアーと契約したことを電話で報告、猪木も「おお、よかったな」と激励され、晴れてケアーが真撃に参戦…になるはずだった。
後日に中村氏が猪木に相談することがあって電話を入れると「てめえ、マーク・ケアーなんかしらねんぞ、オレのところにそんな話を持ってくるな!バカやロー!」と一喝して電話を切り、中村氏や橋本も猪木が態度を急変させたことで戸惑ってしまう。実は作家でPRIDEにも大きく係わっていた百瀬博教氏が自分に断りもなくケアーをZERO-ONEに渡したことで激怒していることが猪木に伝わっていたという。猪木にとって百瀬氏は大事なタニマチ的存在で、常に頭の上がらず、また反体制勢力とも繋がりを持つ人間だった。百瀬氏はケアーの件で猪木を問い詰め、猪木は「中村というブローカーがケアーを引き抜いて橋本に渡した」「橋本はオレに黙ってそんなことをやった」と言い訳をしていたのだ。
橋本と中村氏は猪木と話し合いを持とうとして成田空港で待ち伏せするが、猪木は無視して立ち去ってしまう。だがそれは表向きで、裏では中村氏には秘かに会い「立場上怒らざる得なかった」と事情は説明して「参戦発表は待って欲しい」とケアー参戦にストップをかけていた。しかし橋本はもう待てないとしてケアーの「真撃」参戦を発表してしまい、この橋本のフライングが火祭りにも大きな影響が出ることになってしまった。
早速猪木の息のかかったUFOの村上が火祭りの出場をキャンセルするだけでなく、開幕1週間前になってバトラーツ勢の石川が会見を開き猪木軍入りしたことを理由に火祭り参戦をキャンセルする事態にまで発展してしまった。会見には猪木も出席し石川と握手していたことから、表向きは猪木の意向が反映されたとされていたが、実際のところPRIDEのレフェリーでバトラーツの渉外である島田裕二氏の意向が強く反映されており、バトラーツもこれまで通り猪木とZERO-ONE双方と付き合いを継続したかったのだが、PRIDE寄りの猪木を選択せざる得なくなってしまったのだ。

石川らバトラーツ勢のドタキャンという事態に大谷は「こんな腐ったことが、一社会でまかりとうるわけがない。この腐った業界、プロレス界を変えるためにも“火祭り”は絶対最後まで遣り遂げなきゃいけないんです!」と悔しさを露わにして、周囲の圧力には屈せず、火祭りは必ず開催する意向を示して興行日程の見直しをするなど開催へ向けて準備をするが、今度は「真撃」ケアーと組むはずだったでジャスティン・マッコリーが「真撃」開催直前で「真撃」だけでなく「火祭り」への出場をキャンセルする事態も起きてしまう。実はジャスティンの元に猪木事務所から電話が入り「ロス道場に迎え入れるからZERO-ONEに出るのはやめろ」と圧力をかけ、猪木事務所の指示を受けたジャスティン・マッコリーは宿泊していたホテルから姿を消して、そのまま帰国してしまったのだ。
8月30日の「真撃」には急遽大仁田厚が出場することになり、武道館大会は開催され、ケアーも出場したが、今度は出場予定だったショーン・マッコリーも右手を骨折する事態も発生、火祭り開催2日前になっても負の連鎖続いたことで大谷は 「どいつもこいつも馬鹿にしやがって!‥‥」と悔しさを滲ませるしかなかった。
そういう状況の中で助け舟が現れた。NOAHが興行の日程上リーグ戦には参戦できなかったが、最終戦のみバトラーツOBの池田、志賀賢太郎、金丸義信、杉浦貴を送り込むことを発表する。三沢は元々猪木嫌いで、ZERO-ONEや大谷に対して理不尽な圧力をかける猪木側に対して怒りを感じており、会見の席上で三沢は周囲の圧力に屈してリーグ戦をキャンセルしたバトラーツに対して「筋が通ってない」「自分の尻も拭けないのか」と批判するだけでなく、猪木に対しても「現場に出てない人間の言う事に従うのは考えなきゃいけない」と公然と批判した。
「火祭り」にはザ・コブラことジョージ高野の参戦も決まったものの、出場選手があと一人が決まらないまま、火祭りは興行日程を減らして開幕を迎え、紆余曲折の末、開幕を迎えた大谷は 「本日は、御来場頂きまして本当にありがとうございました。今、このリングにいる連中が、本物のバーニングハートです!」と目を潤ませていた。決定していなかった一人にはホース・シューが2日目から合流することになり、9月15日に優勝決定戦には提唱者の大谷と耕平が進出し、大谷はコブラホールドで耕平を降し優勝、試合後に大谷は「馬鹿にしやがった連中みたかぁ!火祭り、最後までやり遂げたぞぉ!バーニング・ハートをなめんじゃねぇぞ!」と叫んだが、大谷にしてみれば優勝よりも、苦難の末やっと開催にこぎつけた火祭りをやり遂げた嬉しさの方が大きかったのかもしれない。

その後ケアーの一件は、猪木との和解がままらない状況ではラチがあかないと思った中村氏は関係者の伝手を頼って百瀬氏と直接に会いに行くことになり、橋本は何かあったらいけないとエアガンを渡すが、そんなものは持っていけないと中村氏は拒否する。中村氏はちょうど百瀬氏は猪木とバーで飲んでいたところで二人に挨拶し、中村氏はケアーの一件で百瀬氏に謝罪すると、百瀬氏は以前から中村氏のことは知っていたこともあって「中村ってオマエか!だったら最初から言えよ、オマエ、オレのこと知らないわけじゃないんだから、言って来いよ、一言、そういうのがなかったから、こっちだって動くんだよ、おまえなら全然いいよ、じゃあ、この話は終わり、何も話す必要はない、頑張れよ」と激励を受けただけでなく、3人で記念撮影までして解決となった。
しかし猪木を取ってしまったバトラーツには報いが待っており、猪木の意のままに動いただけでなく、自身の利益を最優先したということでファンから反発を招き、火祭りとして開催するはずだったバトラーツ・ディファ大会も観客動員は99人と不振に終わってしまうだけでなく、石川自身もファンに対して「俺たちがやってるレスリングを見てわかんない奴は、バカなんだから見に来なくていい」と言い放ってしまう。石川の発言は内部の選手、スタッフも呆れてしまい、月一でレギュラー放送してもらっていたSAMURAI TVでの中継も、火祭りをキャンセルしたことで放送を打ち切られてしまう。
便りにしていた猪木もZERO-ONEと和解したことを受けて「(バトラーツに関して)迷惑な話だ、自身は関わっていない」と突き放して、一転して梯子を外してしまい。それでもバトラーツは10月にNKホールでビックマッチを開催したが、火祭りの一件が響いて観客動員も不振に終わった。石川と島田氏の対立、所属選手からも反発を受けたことも重なり、26日にバトラーツは一旦活動を停止を余儀なくされた。
猪木に振り回された末、やっと獲得したケアーだったが「真撃」8月30の武道館大会では、ザ・プレデターと組んで橋本、藤原喜明とタッグで対戦し、橋本にタックルを浴びせて後頭部を痛打させたものの、それ以上は全くなく、橋本がプレデターを腕十字で降したが、ケアーは大きなインパクトを残すことが出来ず、10月24日の武道館大会では元リングスのディック・フライと対戦して勝ったが、この試合でも大きなインパクトを残せなかった。「真撃」も武道館大会の観客動員も不振で主催していた「ステージア」も倒産したため2度と開催されることはなく、ケアーとの一件を契機に猪木は表立ってZERO-ONEを応援できなくなり、橋本は百瀬氏に頭が上がらない猪木に不信感を抱き、同じく百瀬氏に良い感情を抱いていなかった小川直也と共に、猪木と距離を取り始めることになる。
第1回「火祭り」の事件はNOAHまで巻き込んだことで、大きな波紋を呼んだ。この事件を契機に猪木はますますプロレスファンから反発を受けることになり、三沢が猪木に物言ったことでマット界の新リーダーに祭り上げられた。馬場が死去したことで、猪木がマット界の首領として君臨していたが、その猪木に物申した三沢に誰もが馬場のような存在になることを期待したと思う。
「火祭り」はZERO-ONEが崩壊してZERO1-MAX、ZERO1へと体制が移行しても継続され、来年で20回目を迎えるマット界のロングセラーの一つとなった。ZERO1が続く限り「火祭り」は開催され、熱い男達の歴史はこれからも続いていく。