新日本プロレスvsK-1②野人・中西学がK-1に挑戦!

2003年6月29日、さいたまスーパーアリーナで「K-1 JAPAN BEASTⅡ」に新日本プロレスの”野人”中西学が立ち技ルールであるK-1ルールでTOAと対戦した。

中西は5月2日の東京ドーム大会「アルティメットクラッシュ」で藤田和之とMMAルールで対戦し、藤田のパンチで鼻血を出して、うつ伏せになったところで藤田のパンチのラッシュを浴びてTKO負け喫した。中西もMMAルールでの試合は初めてあり、当初はプロレスルールでの対戦をする予定だったが、藤田が「嫌だ!オレはプロレスをやらない!」と拒絶したため、敢えて中西自らMMAルールでの試合に飛び込んだ。結果的に敗れはしたものの試合を見ていた高田延彦は中西を高く評価し、高田道場で特訓するように本気で誘ってくれたという。

 藤田戦が終わってからまもなく、中西にK-1から出場のオファーがかかり、中西が承諾したため決定となった。中西のK-1挑戦は、K-1と繋がっていた取締役の一人でもあった上井文彦氏を通じてのオファーだった。当時の新日本はオーナーだったアントニオ猪木が格闘技路線を推進しており、純プロレス路線を推進したい現場との距離を上井氏が間を取り持っていたいたが、現場側やファンの間では猪木の推進する格闘技路線への反発は根強いものがあったこともあり、中西のK-1挑戦は猪木の差し金で、格闘技路線の波に翻弄される新日本の犠牲になったに過ぎないと思われていた。

 中西のK-1挑戦は上井氏からのオファーもあったが、中西自身が結果を出せない現状を打破するためには考えた上での決断だった。中西は新日本がレスリングの選手を育成するために作られた闘魂クラブ、バルセロナオリンピックに出場、鳴り物入りで新日本に入門、アメリカWCWへ武者修行に出るなど、将来のトップ候補選手として大きな期待が寄せられ、1999年のG1 CLIMAXに武藤敬司を破って優勝を果たしたことでやっと覚醒したかに見えたが、肝心のIWGPヘビー級王座は奪取できず、足踏み状態となってしまい、その間に同期である永田裕志が台頭してIWGPヘビー級王座を奪取し、中西を抜き去ってしまっていた。中西は結果を出せない現状を打破するためには、新しいスタイルを取り入れるしかない、自分のプロレスを進化させるためには格闘技のエッセンスを取り入れた、自分なりの新しいストロングスタイルしかないと考え、格闘技へ挑む決心をした。上井氏も「中西も総合の練習をして、試合に出て、そうなれば変わりますよ。フィニッシュホールドを見つけたら、中西は日本のブロック・レスナーになれますよ」と大きな期待を寄せ、正式決定となった

 中西はPRIDEにも参戦したこともあり、新日本に参戦していたエンセン井上の下で特訓を開始、エンセンも指導していくうちに、中西の素直さにほれ込み、中西も休まず黙々とトレーニングを続け、5月31日には旧ロス道場にて新日本にも参戦していたジョシュ・バーネットの下で打撃特訓を行うなど、vsK-1へと備え、猪木からも「反則にされてもいいから頭突きでいけばいいんだ。相撲の体当たりみたいに」「楽しんでやれよ、どっちみち出て行くことで評価されるんだ。後はやれるだけのことはやって、目いっぱいに」まど直に激励を受けた。

 6月29日の決戦当日、リングサイド席には社長である藤波辰爾、蝶野正洋、永田、中邑真輔、新日本所属だった成瀬昌由、魔界倶楽部総裁の星野勘太郎、柴田勝頼が陣取り、中西はセコンドにエンセン、矢野通、ジョシュを従えて登場、対戦相手である”サモアの怪人”TOAをに挑んだ。

 開始から中西が前へ出てローキックもTOAが大振りながらもフックで応戦も、幸い当たらない、中西はジャブからコーナーへ押し込むが、TOAのジャブが当たりだし、中西も懸命にローキック、ジャブで応戦していくが、TOAのジャブが炸裂し、中西は懸命に倒れまいと堪えるが、TOAのバックブローが炸裂してダウンとなり、もうダメかと思われたが、中西は必死で立ち上がる。しかしTOAの左右のジャブが炸裂すると中西が沈み、KO負けを喫したが、中西はディフェンスなど一切考えず、前へ出る姿勢はレスラーの意地を見せつけた瞬間でもあった。

 この模様は日本テレビで当日ディレイで放送され、試合後には星野総裁と柴田がリングに上がり「K-1、これからもビッシビシいくからな」とアピールすれば、柴田は「K-1のKはケンカのKだろ!テメエらの中でオレのケンカを買うヤツはいないか!」とアピールするが、藤波と永田はリングに上がらず静観するだけだった。藤波は社長の立場としても「新日本プロレスの敗戦ではなく、中西一人の敗戦」と留めたかったか、中西が敗れてもあくまで中西の敗戦であり、新日本の敗戦ではないという姿勢は、この頃の新日本を象徴するものであり、誰もが猪木の推進している格闘技路線には乗り気でないことを示しているものだった。

 新日本はその後、K-1やPRIDEに選手を参戦させたが、中西に出番がまわって来ることはなく、新日本でも大きなチャンスが回ってこなかった。そして新日本が猪木からユークス体制に代わると、ZERO1-MAX(ZERO1)との対抗戦をスタートさせたが、対抗戦で先陣を切った中西が持ち前のパワーを発揮してZERO1勢に立ちはだかり、これがきっかけになって再びIWGPヘビー級戦線に浮上、2009年5月6日の後楽園大会で急遽王者だった棚橋弘至に挑み、念願だったIWGPヘビー級王座を奪取した。

 だが2011年6月に井上亘のジャーマンを受けた中西は首を負傷して長期欠場、「中心性脊髄損傷」と診断され再起すら危ぶまれたが、2012年10月に復帰。2013年3月にはタッグながらもPRIDEの象徴的存在だった桜庭和志と対戦、敗れはしたものの圧倒的なパワーで桜庭を苦しめ、健在ぶりを見せつけたが、高田の言うとおり本格的にMMAや格闘技の特訓を組んでいたら、中西は格闘技でも大活躍していたのかもしれない。

 最近は選手層が飽和となったことで中西の出場する機会が減ってしまったが、リングに上がって野人ぶりを見せつけてほしい。

追記=K-1にも参戦し、現在ブシロード傘下の「KCOCK OUT」に参戦しているキックボクサーである日菜太が新日本プロレス1月4、5日の東京ドーム二連戦に参戦を表明したことで、ファンから賛否を呼んでいる。高山善廣が以前PRIDEに参戦した際はPRIDEがテレビのゴールデンタイムで放送されていたこともあって「自分の名前を売るために参戦した」と明かしていたが、そういった意味では「KCOCK OUT」の存在を広めるための逆ケースなのか、PRIDE全盛期はプロレスは下と見られていたが、現在は立場が逆になったと思わざる得ないかもしれない。

(参考資料=ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.26 「格闘技の波」)

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