日本人で最初にWWF王者になったのはアントニオ猪木だった

7月14日、新日本プロレスの所属で現在WWEと契約している中邑真輔がWWEでは最も歴史のある王座といわれるWWEインターコンチネンタル王座を奪取した。

 これまで藤波辰爾がWWFジュニアやインターヘビー級王座を奪取したがでWWEの前身であるWWFヘビー級王座を唯一日本人で巻いているのはアントニオ猪木だけだ。

  「新間寿とWWF、熱意で築いたマクマホン一家との絆」で触れたとおり 新日本プロレスは1974年からニューヨークに本拠を持っていたWWWFと業務提携を結び、アンドレ・ザ・ジャイアントなどWWWF系の選手が来日するようになり、タイガー・ジェット・シン頼みだった外国人供給ルートが強化されたが、WWWF王者であるブルーノ・サンマルチノだけは親友であるジャイアント馬場の全日本プロレスへの参戦を優先していたため新日本には来日せず、当時のWWWFのボスであるビンス・マクマホン・シニアもサンマルチノが一番集客力のあったレスラーだったこともあって、サンマルチノの意向を優先せざる得なかった。 

提携を結びながらWWWF王者を派遣できない状況が続いたが、1977年にサンマルチノが”スーパースター””ビリー・グラハムに王座を明け渡し、長期政権に終止符を打つと、ビンスシニアは王者となったグラハムを1978年2月に新日本に参戦させ、猪木は上田馬之助と釘板マッチでの一騎打ちが決まっていたこともあって挑戦できなかったが、代わりに坂口征二がグラハムに挑戦、リングアウトで坂口が敗れ王座奪取はならなかった。これを契機にWWF王者は優先的に新日本へ参戦するようになった。

グラハムがアメリカへ帰国すると、王者はグラハムからボブ・バックランドに代わり、新王者となったバックランドはすぐ新日本に送り込まれた。バックランドはノースダコタ大学在学時の1971年にNCAAのレスリング選手権で優勝。卒業後はミネアポリスにてエディ・シャーキーのトレーニングを受けてプロレスデビューを果たすも、デビュー時は一日一食がやっとでボロ車で寝泊りする日々を過ごす下っ端レスラーだったが、テリー・ファンクと出会ってから運が開き、テリーの地元であるテキサス州アマリロに招かてからは、たちまちトップ選手として売り出され、全日本プロレスに初来日した後はNWA世界ヘビー級王者だったジャック・ブリスコにも挑戦するなど、アメリカでも注目の選手となっていった。

ところが当時NWAの会員だったビンス・マクマホン・シニアがNWA総会の場でバックランドをWWFに委譲して欲しいと申し入れた。実はWWF王者だったブルーノ・サンマルチノがスタン・ハンセンとの試合で首を骨折して以来、後遺症に苦しんでおり、ビンスシニアは早急に後釜を探していたところでバックランドに白羽の矢を立てたのだ。NWA総会の場ではバックランドも次期NWA世界王者の候補に名前が挙がっていたが、NWA王者にはヒールの側面も必要のため、ベビーフェース色が強いバックランドは候補から外されるも、WWFはベビーフェース色の強い王者を求めていたことから、NWAはバックランドの身柄をWWFに委譲することを決定、バックランドも期待に応えて1978年2月20日にサンマルチノを破り王者となっていたグラハムを破り新王者となった。

、6月1日日本武道館で猪木がNWF王座をかけてWWF王座とのダブルタイトル戦をじも、3本勝負の1本目は猪木がリングアウトで先取したが、2本目はフルタイムのドローに終わり2-1で猪木が勝利も王座は奪取できず、1ヶ月後同じ武道館で猪木がWWF王座に挑戦する形で再戦が行われたが、互いに1本を取り合うも時間切れ引き分けとなり、その後大阪でも再戦が行われたが王座を奪取することが出来なかった。

 1979年11月30日の徳島で猪木は3度目の挑戦でバックランドを破り念願だったWWF王座を奪取したが、12月6日に蔵前で行われた再戦ではタイガー・ジェット・シンの乱入もあって無効試合となり、猪木は裁定に納得いかず王座を返上、ニューヨークMSGで猪木とバックランドによる王座決定戦が行われると思われていたが、王者決定戦でバックランドの相手になったのは猪木ではなくボビー・ダンカンで王座決定戦ではなくバックランドの防衛戦として試合が行われたのだ。実は日本で猪木に王座が移動していたことはアメリカでは公式に発表されておらず、歴代王者として認められていなかったのだ。

なぜ猪木が王者になったことがアメリカに伝わらなかったのか、いまだ定かではない、ただこの頃にはジャイアント馬場も短期間ながらもNWA世界ヘビー級王座を奪取したことから、それに対抗して猪木に馬場に対抗するものを巻かせたかったのか?その後猪木は3度に渡ってバックランドに挑み王座奪取はならなかったが、この頃には猪木もIWGP構想を掲げていたこともあって、WWF王座奪還には本腰を入れる気はなかったが、新日本も猪木がバックランドには1度も負けなかったことから、WWF王者より猪木の方が上だと示すことが出来たことで満足だったのかもしれない。

 WWF王者狙いはヘビー級へ転向したばかりの藤波辰己に譲り、猪木はIWGP構想に戦いの軸を置くが、WWFはビンスシニアから現在のビンス・マクマホンに代替わりすると、バックランドはアイアン・シークに敗れて王座から転落、そしてすぐに王者はハルク・ホーガンへと渡り、ホーガンを全米のヒーローに仕立てたWWFはNWAやAWAの格エリアに侵攻を始め、また格安で選手をブッキングしていた新日本との関係を見直して、1985年に提携関係は解消、WWFも団体名をWWEに改めた。

 猪木は2010年にWWE殿堂入りを果たしたが、WWF王者としてはなくモハメド・アリとの戦いが認められたものであり、現在でも猪木の戴冠はWWEになっても公式には記録されておらず、日本のファンだけが知るだけとなった。

(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.16『王者の宿命』 猪木vsバックランド戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)

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