カリブ海に消えたキングコング・・・ブルーザー・ブロディ刺殺事件


 1988年7月17日いや18日の朝だったと思う。試験休み中だったのにも関わらず、朝日で早朝から眼が覚めてしまい、朝食を食べようとして台所へ向かい、何気なしに日本テレビでニュース番組だった「ズームイン朝!」を見ると、ブルーザー・ブロディが死去したという一報が流れ、愕然としていた。自分はすぐ駅へ向かいスポーツ新聞を購入、日刊スポーツだったと思うが、ブロディの死が報じられていた。

 1986年に新日本プロレスから追放され、日本マットから締め出されたブロディは1987年8月から全日本にUターンを果たした。全日本プロレスの首領であるジャイアント馬場は裏切った人間を二度と使わないことを信条にしていたが、ザ・グレート・カブキとフリッツ・フォン・エリックのとりなしがあり、新日本側が長州を奪還して貸しがあったことから、借りを返す意味でブロディのUターンを認めた。ブロディが全日本に戻る決意をした理由は、ブロディは株をしており大損をしたということで金が必要となり馬場さんに泣きついたという話もあったが、アメリカマットではWWF(WWE)やWCWによる全米侵攻の影響もあって、フリーランスで活躍していたブロディも活躍する場も少なくなってきたのもあった。

 全日本に復帰したブロディは、最強タッグでは盟友であるスタン・ハンセンとタッグながら対戦も実現させ、1988年3月にはブロディは鶴田からインター王座を奪還、天龍源一郎とPWFヘビー級、UNヘビー級をかけた三冠統一戦も実現させた、鶴田に初フォール負けを喫しインター王座を明け渡したが、プロモーターとトラブルを起こすトラブルメーカーである一面は影を潜め、全日本のブッカーだったカブキには絶大の信頼を置いていたことで、馬場も「昔と違って扱いやすくなった」と周囲に漏らしていたという。

 ブロディは海外ではアメリカだけでは食っていけないと考えたのか、プエルトリコの団体WWCを主戦場にしていたが、日本では影を潜めていたトラブルメーカーとしての一面も出始めており、WWCで売り出そうとしていたケンドー・ナガサキ&ミスター・ポーゴ組とタッグで対戦した際に、ブロディはナガサキらを全く引き出させようとせず、一方的に痛めつけてしまい、これにはWWCのボスであるカルロス・コロンも激怒して抗議するが、ブロディは「この試合はジャパンのマガジンに載る、だからナガサキらに花を持たせるような試合は出来なかった、これは全日本プロレスのビジネス・マターなんだ」と意に介さず、ブッカーだったホセ・ゴンザレスを困らせていた。ブロディとゴンザレスの仲は悪くもなかったが、ブロディは体格の小さいゴンザレズに対して見下した態度を取っており、それはゴンザレスがブロディを使う側になっても変わりはなかった。またブロディも常に周囲に打ち解けることはなく、レスラーの友人も多くなかった。AWA時代にブロディとサーキットしていたレオン・ホワイト時代のビックバン・ベイダーもその一人で、最初こそはブロディとはバックステージでは全く口すら聴いてくれなかったが、ベイダーに子供が生まれたことが知らされると、真っ先に祝福したのは家族想いだったブロディで、それ以降ブロディと打ち解けるようになり、いろいろアドバイスを貰うようになっていたという、

ブロディが刺殺される当日、ブロディはゴンザレスと共に車で会場入りし、ゴンザレスはオーナーであるカルロス・コロンとビクター・ジョピカと何か話し合っていた。バックステージではゴンザレスの前でブロディは自分の子供の写真を持ちながら、ニュージーランド出身だったバーバラ夫人がアメリカ国籍を取得したこともあって家族の話をしていたという。ブロディは家族の話をするときは最も機嫌が良かった。しかしゴンザレスは突然何かのスイッチが入ったかのようにブロディをシャワー室へ連れ出すと、ブロディは背後から腹や胸を刺された・・・

 同じ控室にいたトニー・アトラス、ダッチ・マンテル、TNT(サヴィオ・ベガ)が悲鳴を聞いて、ただちにシャワー室へ駆けつけ、カルロスも駆けつけて馬乗りになって首をなおナイフで切ろうとするゴンザレスを壁際に押さえつけつつバックステージから出て行く、しばらくして警官が駆けつけたがブロディが刺されたことをプロレスにおける演出だと思い込んでなかなか救急車を呼んでず、誰かが無線で救急車をやっと手配され、意識が朦朧としていたブロディは戻ってきたカルロスに「息子をよろしく頼む」と伝え、カルロスは「オレが君の息子を守る」と答えた。

 バックステージでブロディが刺されたことは、すぐ選手たちに広まったが、惨劇が起きていたにも関わらず大会は強行され、動揺した選手の中には泣き出す選手もいた。大会は強行されるがカルロスや、加害者であるホセもインベーダー1号として何事もなかったように試合をした。ブロディはダニー・スパイビーとの試合が組まれていたが、カードは変更され、観客には何も事情説明すらなされなかった。

 ブロディが刺されたことは自宅にいたバーバラ夫人にもカルロスから伝えられ、バーバラ夫人は早朝にもすぐ現地に向かおうとしたが、17日午前5時40分、ブルーザー・ブロディことフランク・ゴーディッシュは死去した。ブロディは左肘や右手の指を2本骨折していたことから、数種類の鎮痛剤を常用しており、これらの薬剤が出血多量を早めたとされる。

 同じ控室いたマンテル、アトラス、TNTは警察からの事情聴取で全てを話したが、警察はアトラスらの供述はなぜか理解できないフリをした。それでも地元のレスラーであるTNTは食い下がり、ゴンザレスが殺したと主張した。TNTは日頃からゴンザレスが「あの野郎(ブロディ)がまた生まれたら、オレがまた殺ってやる」ことを話していたことから、ゴンザレスがブロディを殺したと確信していたのだ。

 しばらくしてマンテルを始めとしたアメリカから来たレスラー達は興行をボイコットしてプエルトリコから去った、ナガサキと一緒に遠征に来ていた武藤敬司もその一人だった、実はTNTがアトラスに「今すぐプエルトリコから出なきゃ!」とアドバイスされていたことから、TNTはアトラスらがプエルトリコに留まると彼らに危険が及ぶと考え、プエルトリコから出るように指示したのだ。

 18日にゴンザレスは第一級殺人罪と銃刀法違反で逮捕されるも、凶器として使用されたナイフは発見されなかった。ゴンザレスは保釈金を支払い翌日に釈放され、8月に裁判が行われる予定だったが、なぜか再三延期となって翌年の1月20日に行われることになり、マンテルやアトラスも出廷する予定だったが、なぜか現れなかった、後になってわかったことだが、プエルトリコの裁判所から召喚状が来たのは裁判が行われた翌日である21日だった。罪状は第一級殺人罪から業務上過失致死に引き下げられ、ゴンザレスは出廷せず、カルロスが証言するのみで、否はブロディにあってゴンザレスの行為は正当であることを主張、裁判所はゴンザレスの正当防衛を認め、ゴンザレスは無罪放免となった。

 ゴンザレスがなぜブロディを殺したのか、取調べの際に黙秘していたため、未だに明らかになっていない。ゴンザレスの子供が事故死していたことから精神的におかしくなっていた。ブロディに対して普段から鬱憤が溜まっていた。カルロスらの差し金で殺したという説もあるが、真相は未だにわからない、ただここまでの経過を見ると、立場が逆転しているのにも関わらず、コントロールを受け付けようとしないブロディに対して日頃の鬱憤が溜まっていたのは確かだったが、真相はゴンザレスをかばうようにプエルトリコ全体が全て闇に葬ってしまい、ゴンザレスだけでなくカルロス自身も真相を口にすることはない。

 ブロディ死去2日後の1988年7月19日、全日本プロレス後楽園大会にてブロディの追悼セレモニーが行われ、馬場が遺影を持ってリングに上がると、ファンはブロディシャウトで出迎え、追悼の10カウントゴングで亡き故人を偲び、盟友のハンセンもシングルマッチで高木功をウエスタンラリアットで降したあとで、観客に向けて”ブロディ”コールを連呼した。

 ブロディが刺殺された後のプエルトリコマットは、「伏魔殿」もしくは「危険な土地」と印象付けてしまったため、アメリカンレスラー達が敬遠するようになり、一時的に大きく冷え込んだがカルロスの旧友だったゴリラ・モンスーンの仲介でWWF(WWE)と提携を結んで乗り切った。モンスーンもかつてWWFでブッカーを勤めていた際にブロディを起用したが、ブロディはモンスーンと口論となり、WWFを離れたことがあった。カルロスは現役を引退しプロモートに専念、2014年にはWWE殿堂入りを果たした。

 加害者だったゴンザレスはカルロスを袂を分かって、ビクター・キニョネスが旗揚げしたIWAに参加したが、1990年にFMWを立ち上げていた大仁田厚がゴンザレスを来日させようとした際にプエルトリコを訪れると、ゴンザレスに刺されるという事件が起きた。これはゴンザレスを日本に招くための仕掛けだったが、さすがに関係者やファンから反発を買ってしまい、ゴンザレスは来日することはなかった。この一件はミスター・ポーゴが一枚噛んでいたものの、ポーゴ自身はこの仕掛けに噛んでいたことを後悔していた。キニョネスが死去後はWWLという団体を旗揚げしたものの、自宅が何者かに放火されるという不幸に見舞われたという。

 2019年にWWEがレガシー部門でブロディが殿堂入りしたことを発表したが、ブロディは死去後にアメリカマット界は大きく激変した。バーバラ夫人によるとブロディは引退後のプランも立てていたという。ブロディはWWEが中心となったマット界をどう生きていこうとしたのか、それとも見切りをつけて去ろうとしていたのだろうか、これも永遠の謎となった。

(参考資料 斎藤文彦著「ブルーザー・ブロディ 30年目の帰還」GスピリッツVol.18「ブルーザー・ブロディ 栄光と反逆の軌跡」)

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