放送開始から50年…ワールドプロレスリングはこうして誕生した!

1969年7月2日、テレビ朝日の前名であるNETによって午後9時からの1時間枠で「ワールドプロレスリング」の放送が開始された。

放送のきっかけは1969年1月、グレート東郷がルー・テーズと組んで日本で新団体設立に動いていたていることがマスコミに報じられたからだった。力道山死去に日本プロレスから追われた東郷は168年に国際プロレスの外国人ブッカーに就任するも、ブッキング料を巡るトラブルで国際プロレスからも追われていたが、日本マット再進出の野望は諦めておらず、今度元NWA王者だったルー・テーズを担ぎ出し『トーゴー&テーズ・カンパニー』という会社を設立して新団体制設立へと動き、力道山のマネージャーでありテレビ業界にも顔が広かった吉村義雄氏を代理人して、プロレス中継がなかったNETやフジテレビ、そして東京12チャンネル(テレビ東京)に新団体を中継するように働きかけていたが、テーズは新団体には関わっておらず、東郷が名前だけを使ったに過ぎなかった。

 当時のプロレス中継は日本プロレスが日本テレビ、国際プロレスはTBSが独占放送しており、東京12chでも世界のプロレスを放送する「プロレスアワー」と日本女子プロレスを中継していた「女子プロレス中継」、TBSでも国際プロレスの若手の試合である「ヤングファイト」を深夜枠で放送するなど、高視聴率を稼ぐ魅力的コンテンツだった。特にスポーツ中継に遅れをNETは他の民放に並び立つにはプロレス中継しかないと考え、東郷の話に飛びつこうとしていた。ところが、東郷らの動きを察知した日プロは取締役の一人である遠藤幸吉氏がNETと接触し「東郷一派への協力はやめて欲しい、NETがプロレス中継を始めたい意向であれば、日本プロレスが協力する」と逆に働きかけてきたのだ。

 日本プロレスはただちに日本テレビにNET参入の許可を打診する、日本テレビは日本プロレスを独占放送してきたが、独占契約を結んでいたわけではなかった。日本プロレス側の打診に日本テレビ側も難色を示すが、遠藤氏は東郷一派が進出する新聞記事をフルに活用して、NETの参入の必要性を訴え、日本テレビも高視聴率を取る日本プロレスを失うわけにはいかないと考えて、条件付でNETの日本プロレス中継参入を認めた。条件とはジャイアント馬場と坂口征二をNET側に出さないことと、春の本場所であるワールドリーグ戦の公式戦は流さないというものだった。理由は馬場は日本テレビと契約していたため繋がりも深く、また日本テレビの顔として絶対欠かせない存在になっていたからだった。

そこでNETの主役に抜擢されたのはアントニオ猪木だった。猪木は日本プロレスに復帰後は馬場とのタッグ「BI砲」を結成、馬場に次ぐスタートなっていたが、この頃になると馬場に追いつき追い越せと猛ラッシュをかけ、同格にまで並び立とうとしていた。5月12日にNETによる記者会見が行われ、7月2日から日本プロレスの放送を開始することを発表、猪木だけでなく大木金太郎や山本小鉄、星野勘太郎の試合を中心に放送されることになり、また4日後に行われた「第11回ワールド・リーグ戦」でも猪木はクリス・マルコフを卍固めを降して、連覇がかかっていた馬場を差し置いて初優勝するなど、猪木だけでなくNETにとっても追い風と吹いていたが、猪木は「二局放送は派閥を作ることを招くのでは」と意外にも危惧を抱いていたという。

晴れてNETの参入が決まったが、遠藤氏がNETの参入を熱心に薦めたのか?元々編成局長で後に新日本の会長となる辻井博氏が東映の元宣伝部長で、力道山の主演映画の宣伝担当だった際に遠藤氏と知り合いになり、辻井氏のルートで東郷が進出することを知った遠藤氏は東郷の進出を利用して、NETにも日本プロレスを中継させ、2局から莫大な放映権料が日本プロレスにも入って利益になるだけでなく、遠藤氏は力道山時代からとかく金に汚い噂が絶えなかったことから”2局から金が入れば、自分の懐に入るお金も増える”と考えたかもしれない。

NETのプロレス中継参入が決まると、実況アナに抜擢された舟橋慶一氏はプロレス誌の編集部を訪れ、実況のために技のことを含めてプロレスをリサーチ、番組名も「NETワールドプロレスリング」に決定、水曜夜9時からの放送が決定した。7月2日に放送が開始され、6月23日の大田区体育館地大会からの録画中継で、カードは山本vsフレッド・ブラッシー、大木vsエドワード・ペレス、主役の猪木は吉村道明と組んでクルト・フォン・スタイガー&カール・フォン・スタイガーのスタイガー兄弟と対戦、解説はNET参入の立役者となった遠藤が務め、ゲストとして落語家の桂小金治が招かれた。だが日本テレビは裏番組のゲストに馬場を招くなど、NETに対して露骨に嫌がらせしていたという。一方東郷は最後のあがきとしてNWAに加盟申請したが、日本プロレスが先手を打って加盟申請できないように根回ししていたため、東郷の加盟申請は却下、東郷の日本再進出の夢は事実上絶たれてしまった。

放送開始された『ワールドプロレスリング」は視聴率で苦戦を強いられてしまう。理由はNETは日本テレビと比べて、まだ全国ネットワークを形成されていないため、まだ見れない地域多く、また水曜9時の放送枠では生放送が出来ないため録画したものが中心に放送され、またタイムラグが不規則で前シリーズの大会が放送されることもあり、12月にNWA王者だったドリー・ファンク・ジュニアが来日して猪木と名勝負を繰り広げるも、放送されたのは29日後の大晦日だった。

 生中継が出来ず、タイムリーさに欠ける「ワールドプロレスリング」をテコ入れするため、NET側は日本テレビと同じ土俵で放送させて欲しいと日本プロレス側に訴えると、1970年4月からは月曜日夜8時に移行して生中継が実現し、坂口の登場とワールドリーグ戦の公式戦放送が実現、猪木もUNヘビー級王座を奪取するだけでなく、女優である倍賞美津子さんと結婚するなど、猪木だけでなく「ワールドプロレスリング」も上昇気流に乗ったかに見えた。

1971年12月に、猪木が日本プロレス内を改革するために動き出すと「会社乗っ取りを企てた」として日本プロレスから除名され追放される事態が起きてしまう。番組の主役を失った「ワールドプロレスリング」は坂口と大木を主役に据えるも、視聴率は不振となって時には3%にまで急落するときもあった。

そこでNETは日本プロレスに対して「ワールドプロレスリング」の打ち切りと放送権料アップを盾にしてに馬場の登場を要求、日本プロレスも利益を最優先して日本テレビの承諾を得ないまま馬場のNET登場に踏み切ってしまう。これに怒った日本テレビは5月をもって日本プロレスの中継を打ち切りとなるも、今度は最後までNET登場に反対していた馬場自身も日本プロレスを離脱してしまい、日本テレビのバックアップを受けて全日本プロレスの旗揚げへと動く。

馬場も失った「ワールドプロレスリング」は再び坂口と大木の二人を主役にせざる得なくなり、月曜8時だけでなく、日本テレビが放送していた枠である金曜8時から「NET日本プロレス中継」も放送開始して、週二回放送でテコ入れを図ったが、週2回放送は1ヶ月で挫折し、月曜日8時から撤退して金曜8時一本に絞り、「ワールドプロレスリング」のタイトルは一旦消えてしまうも、金曜8時1本に絞っても視聴率は好転しないどころか、日本プロレスも観客動員数も低下、時には観客数よりテレビスタッフの方が多い大会もあったことから、NETはテコ入れのために、当初の主役である猪木に戻ってきてもらおうと考え、社長だった芳の里に提案、芳の里も承諾して坂口が猪木と会談が実現する。

日本プロレスから追放された猪木は新日本プロレスを旗揚げしていたが、テレビ中継もなく、外国人ルートも弱かったこともあって興行的に大苦戦しており、累積赤字も1億に達しようとしていた。料亭で会談した猪木と坂口は新日本と日本プロレスが合併することで合意に達し、団体名も新・日本プロレスに改められ、会長は芳の里、社長は猪木、副社長は坂口、NETはそのまま新団体を放送するというプランが進められる。

ところが猪木に主役を奪われると懸念した大木が猛反対、合併に賛同していたはずの芳の里も反対意見に押し切られてしまったため、合併プランは崩れ、孤立した坂口は木村聖裔(木村健悟)小沢正志(キラー・カーン)大城勤(大城大五郎)と共に日本プロレスを離脱、新日本プロレスに合流すると同時にNETも新日本に鞍替えすることを決定する。

大木は「新日本を放送することはあっても、力道山先生から伝統のある日本プロレスをNETが見捨てるわけがない、隔週でウチを放送するだろう」と楽観していたが、1972年3月をもってNETは容赦なく日本プロレスの中継を打ち切り、新日本プロレスを中継する「ワールドプロレスリング」がスタート、唯一の資金源だったテレビ中継を失った日本プロレスはしばらくして崩壊する。旗揚げから助っ人として活躍していた豊登もテレビ中継がつくまではという約束を守って正式に引退、旗揚げから猪木の側近だったユセフ・トルコは坂口が合流することを自身にも知らされていなかったことで猛反発するが、豊登の説得もあり、新日本から撤退した。

 「ワールドプロレスリング」放送開始の立役者の一人である遠藤氏はNETの要請で新日本でも引き続き解説を務めることになり、興行も請け負っていたことで新日本の顧問となったが、クーデター時に糾弾する一人だった遠藤氏がNETの要請とはいえ解説や顧問に据えることは猪木も良い顔はしていなかったという。遠藤氏は1970年の中頃まで解説を務めたが、新日本が顧問から降ろされると同時に解説も降板、現在も存命しているがマット界とは一切縁を切っている。

金曜8時に放送された「ワールドプロレスリング」の躍進ぶりは言うまでもないと思う、猪木がピークが過ぎたと共に金曜8時からも撤退、時には土曜夕方4時台という不定期放送枠に移行させられたときもあった。現在は深夜枠で放送され、何度も打ち切りの危機があり、1時間から30分枠になったものの、日本テレビが地上波でのプロレス中継から撤退したことで、全国ネットで唯一放送するプロレス中継となり、今年で放送開始から50年目という長寿番組となった。

 現在はテレビからインターネットでプロレスを見る時代に変わったが、これからも地上波で放送するプロレス中継として放送し続けてほしい。


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