プロレスリングNOAH旗揚げ・番外編・・・三沢革命の功罪


2000年8月5.6日の2連戦で旗揚げしたNOAHは旗揚げ戦が成功したことによって順調なスタートを切り、12月にはNOAH初のビックマッチである有明コロシアム大会を開催、橋本真也のZERO-ONEとも交流したことをきっかけに他団体との交流も活発させた。また三沢は”自由と信念”を掲げ、選手たちの自己主張を反映させたマッチメークを組み、秋山準が新日本プロレスに出場を主張すると、三沢は動いて新日本側と話し合い、これまで禁断とされた扉を開いて新日本との交流をスタートさせた。2001年4月には日本テレビによる中継番組である「プロレスリングNOAH中継」がスタート、ここから日本テレビによる本格的にバックアップを受けることになったが、これに伴ってNOAH関連のものは全て日本テレビが独占することになり、旗揚げからNOAHを中継してきたFIGHTING TV SAMURAIとの契約を一旦打ち切らざる得なくなった。

 その反面プロレスマスコミのとの付き合いは一定の距離を取り、NOAHに不都合なことを書きたてば、仲田龍氏を通じてクレームなどいれるなどマスコミから反感を買っていた。三沢は自分の知らないところで勝手なことを書かれる事を非常に嫌っており、日本テレビ系列で放送された「INOKI BOM-BA-YE 2003」で小橋建太vsミルコ・クロコップ戦が企画された報道がされた際に、その話を知らなかった小橋が全面否定したことがあったが、おそらくだが小橋vsミルコの飛ばし記事の一件から仲田氏のマスコミへのチェックが厳しくなったのではと思っている。仲田氏にしてみれば全日本時代に共にカードを組んでいた市瀬英俊氏のように、一緒にカードを組んでも決して特ダネにせず仁義を守るような信頼の置けるマスコミを望んでいたのかもしれない。

 2001年7月には旗揚げ1周年で全日本プロレスの聖地だった日本武道館にも進出、武藤敬司体制になっていた古巣・全日本プロレスとも交流を始め、旗揚げ4年目の2004年月には東京ドームにも進出、三沢自身は一歩引き、小橋建太をエースとして前面に押し出し、丸藤正道やKENTA、杉浦貴、森嶋猛、力皇猛ら次世代を売り出すなど、順風満帆に進んでいくかに見えた。

 2005年もドーム大会を開催、佐々木健介や中嶋勝彦の健介Officeとも提携、一時は新日本プロレスも凌駕して、マット界の中心となっていったが、この年を持って東京ドームから撤退、武道館を中心にビックマッチを組んでいくも、青木篤志、谷口周平など若手をデビューさせたが、フリーだったモハメド ヨネ、石森太二、川畑輝慎などを入団させてしまったことで日本人選手だけで飽和状態となり、一部のファンから「中堅選手をリストラすべきなのでは」と声も出始めていたが、三沢は誰も辞めさせるつもりはなかった。ところが新日本プロレスはオーナーだったアントニオ猪木の方針で、対抗戦の行う契約を残しながら突如打ち切り、2006年に小橋が腎臓ガンで長期欠場を余儀なくされ、NOAHは丸藤やKENTAへの世代交代を図ったが、内部から「丸藤やKENTAでは客が入らない」と反発を受けてしまう。

 そういう状況の中で三沢がGHCヘビー級王座を奪取し、最前線に打って出らざる得なくなってしまったが、三沢も選手としてはピークが過ぎてしまっただけでなく社長業も兼務だったこともあって満足に体調作りも出来ず、それが身体にも出てしまっていたことから、全日本時代のようなファンを満足させるような試合が見せることが出来なくなり、武道館大会も超満員にならないことが多くなった。そこで提携中だったCIMA率いるDRAGON GATE勢を武道館大会に起用するも、他の中堅選手から「自分らの出番がなくなる」と猛反発を受け、さすがの三沢も「じゃあオマエらで観客を入れることが出来るのか!」とキレることもあった。三沢は選手らには”自由と信念”を掲げ、選手らの自己主張を尊重して任せてきたが、三沢の掲げた”自由と信念”を履き違える選手も出始め、三沢の指示を拒否することも増えてきていたが、三沢は拒否する人間も咎めもしなかった。

 2008年3月に三沢は森嶋に王座を明け渡すが、これまで三沢と小橋、秋山でもってきたことが反映されたのか、武道館における観客動員が一気に急落してしまい、さすがの三沢も菊地毅、本田多聞、泉田純、橋誠、川畑輝鎮の中堅選手やレフェリーのマイティ井上の所属契約を見直すなどリストラを断行せざる得なくなる。これは選手層が厚くなりすぎていたことを懸念していた仲田氏からの進言を三沢が聴きいれたのだが、選手を守ってきた三沢にとっても苦渋の決断だった。このとき三沢は周囲に「絶対NOAHを再浮上させて、アイツらを呼び戻す」と話していた。

 だが三沢の想いを他所にNOAHの苦難はこれだけでは収まらず、今度は宝島社のムック本によるNOAHバッシングも起き、鬼の首を取ったかのようにキャンペーンを張ってNOAHを叩きまくった。そういう状況の中で、猪木が撤退しユークス体制になった新日本とも交流を再開、三沢自身も2009年1月4日の東京ドーム大会に出場し中邑真輔とタッグで対戦したが、体調不安がもろに試合に出てしまい、ファンに満足させるような試合を見せることが出来ず、2009年3月には日本テレビがNOAHの地上波放送を打ち切ってしまった。

 一気に資金源を失ったNOAHは経営が苦しくなり、三沢も資金繰りに追われながらも、体調が悪化している身体に鞭を打つように試合を出場したが、6月13日に急死、三沢の葬儀には、全日本離脱後から疎遠となっていた馬場元子夫人が駆けつけ、三沢に線香を上げると、仲田氏に「これからはあなたがNOAHを支えなければ」と励ました。三沢と仲田氏は元子夫人とは旗揚げ以降険悪だったが、皮肉にも三沢が亡くなってから元子夫人と和解となった。

 仲田氏の主導で新体制が発足され、田上明が新社長、小橋建太と丸藤正道が副社長という新人事が発表されたが、株主の一人で副社長から降ろされた百田光雄は仲田氏と筆頭株主だった三沢夫人の考える新人事に猛反発しNOAHを離脱するが、新体制に待ち受けていたのは三沢体制の残した大きなツケだった。

 田上が社長に就任してわかったことだが経理はドンブリ勘定で、数千万の経費の仮払いがあって返済されていないのにも関わらず、三沢は咎めもせず何も言わなかったという。なぜ咎めなかったのか、仲田氏は「優しかったから」と答えていたが、優しさや男気だけでは経営はやっていくことが出来ないことを馬場や元子夫人を側でみていた仲田氏が一番良くわかっていたはずだった。だから仲田氏が経営者としての厳しい面を請け負って、団体としても嫌われ役になり、時には選手やスタッフ、マスコミに対して厳しく接することもあった。だがそれを知らない選手らは仲田氏の嫌われ役ぶりに疑問を抱く選手やスタッフも少なくなかった。

 仲田氏は田上を補佐するためにGMに就任、仲田氏は三沢の残したツケを精算した上で、再建の道筋をつけるてから退社するつもりだった。ところがNOAHに残ったことで宝島社から「私腹を肥やしている」とバッシングを受けてしまう。仲田氏も意地になってしまったのか”今引いたら逃げ出したといわれなけない”と考え、NOAHの業務に従事しバッシングには反論せず沈黙を守っていたが、リストラされた泉田が宝島社の本で仲田氏を告発、暴露本も出版したことでタニマチによる巨額詐欺事件も発覚、仲田氏へのバッシングは収束するどころか、ますます炎上してしまった。後でわかったことだが、泉田の告発は巨額詐欺事件以外は仲田氏への逆恨みから来る妄想が大半だったが、宝島社はその妄想をいかに事実であるように書きたて、仲田氏を叩きまくった。

 2012年1月31日、新日本プロレスがユークスからブシロードに売却された日、自分はNOAH津大会を観戦するために会場を訪れていた。この頃にはまた新たなる宝島本も出版されていたが、仲田氏は自分らに「(宝島)本のこと聞いてこないの?」と喋ってきた。さすがに自分もそれは聞けるはずはなかったが、仲田氏は新日本の記事を見るなり「羨ましい話だね、これから時代は変わるよ」と話していた。この頃の仲田氏はリングアナはせず、移動バスの運転手をするなど、現場に携わっていたが、2ヵ月後に巨額詐欺事件がきっかけとなって反体制勢力との付き合いが明るみになり、永源遥と共に平社員に降格するも、グッズ売り場の店頭に立つなど現場に携わっていた。おそらくだが仲田氏はNOAHが仮にダメになったとしても、最後まで看取るつもりだったのかもしれない。

 その仲田氏は2014年2月に心筋梗塞で急死、宝島社のバッシングに耐えていた仲田氏だったが、かなりやつれていたという。2017年1月に泉田も同じく心筋梗塞で急死、晩年の泉田は交通事故に遭ってから生活も困窮しており、宝島社からも利用価値がないとされたのか、相手にされなくなっていた。泉田は「恨んでも何も残らない」と悟っていたものの、仲田氏が死去したことを聴くと、相変わらず妄想を掻き立てて恨み節を周囲に語っていたという。

 三沢革命は一体なんだったのか、三沢は自分がやりたいことだけでなく、下の選手達を助けるためにやってきたことのはずだった。功の部分があるとすれば、全日本プロレス時代には成し得なかった新日本プロレスを含めた他団体との交流と、ジュニアを活性化だけでなく、秋山を始めとした選手らの自己主張を反映させたことで自由にやらせて、様々な可能性を広げたことだったが、罪の部分があるとすれば、その自由を履き違える人間達を三沢が咎めることが出来なかったこと、選手らに命じても指示を聴かない人間や、三沢があれだけ経営や経理のことで元子夫人を糾弾したにも関わらず、経理で間違いをやった人間も咎めるだけでなく切ることも出来ず、三沢の優しさや男気がNOAHを苦しめる結果になってしまった。

 三沢や仲田氏が亡くなった後のNOAHは試行錯誤を繰り返し、小橋が引退して秋山も退団、時には新日本プロレスからテコ入れを受け、鈴木みのるを始めとする鈴木軍が派遣されたが、経営は好転することが出来ず、2006年11月に運営、興行、関連事業をエストビー株式会社に譲渡、会社名をノア・グローバル・エンタテインメント株式会社と改め、田上は社長を退き、旧体制のNOAHは株式会社ピーアールエヌと改め、会社を精算した。泉田や宝島社から「置物」呼ばわりされていた田上だったが、胃ガンをわずらっていたことを告白、おそらく社長業のツケだったと思うが、田上も「置物」社長されながらも苦労をしていたを物語っていた。

 エストピー体制移行後すぐに永源も死去、しばらくして泉田も死去、NOAHの聖地とされたディファ有明も閉鎖、NOAHに長年に渡って抱えてきた三沢革命という呪縛から解放されるきっかけとなり、2019年1月からリデットエンターテインメント株式会社の子会社となり、そして経営はサイバーエージェントに委ねられ、三沢と仲田氏にGPWAから世話になったDDTの高木三四郎大社長が就任、DDTグループと経営統合してCyberFighが誕生、NOAHはCyberFightの一ブランドとなった。

 改めて三沢革命とは何だったのか、格闘技にプロレスが押され始めた、これまで頼りにしていた新日本プロレスが頼りに出来なくなったことで、三沢にどうにかして欲しいという”期待”で、自分は猪木に対して物言ったことで、馬場さんに代わって新しいプロレス界の首領になって欲しいという願望があったが、プロレス界は時代と共に首領という存在を必要としなくなっていった。

これを書くことを自分は迷っていた。三沢が亡くなってからのNOAHは一体なんだったのか?なぜ経営危機に陥ったのか、泉田のことも含めて、自分の中でモヤモヤとして残っていたものを精算したいだけでなく、また前に進みたくて書くことを決めた。これは自分なりの三沢に言いたかったことでもある。三沢は優しい人間でもあるが、組織を率いていくには優しいだけじゃダメなんだ。上に立つものは時には嫌われなければいけない、そのことを仲田さんだけでなく、馬場さんや元子さんも言いたかったのかもしれない。

 今年も三沢の命日を迎えるが、体制が変わっていても三沢革命の掲げていた”自由と信念”だけは決して忘れていけないで欲しいと常々願っている。

(参考資料 俺たちのプロレスVol.10「王道の真実」GスピリッツVol.20「90年代の全日本プロレス)

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