三沢は馬場に出した提案とは「元子さんには現場から退いてもらえないでしょうか」だった。三沢の狙いはこれまで通り馬場を全日本の象徴としながらも、現場だけでなくフロントまでも自分のカラーで染め上げようとしていたのだ。
しかし元子夫人の退陣は馬場にしてみれば絶対飲めない話だった。馬場にとって元子夫人は身の回りの世話だけでなく、馬場自身も経理に疎かったこともあって、自身の金銭面も含めて全日本の経理全般を任せていた大事なパートナーの一人、馬場にとって全日本では欠かせない存在になってしまっていたからだった。
三沢からの提案に対し馬場は腹を立てつつも返答はしなかった。馬場は元々鶴田より人望があった天龍源一郎を自身の後継者にと考えていたが、天龍が他団体へ去ってしまったことで、自分の後継者は他の選手から人望があった三沢と決めており、もし馬場が拒否すれば三沢らも退団するだろうと考えて敢えて返答は避けたのだ。だが馬場も三沢からの提案を元子夫人には言えるわけがなく、またこれまで従順だった三沢が周囲の声を聞くことで変わっていくことに嘆いていたという。
そんなある日、元気のない馬場に和田京平レフェリーが話しかけると、馬場はグチをこぼすように、これまでの話を京平レフェリーに明かした。馬場にとって京平レフェリーはグチの聞き役であり、また元子夫人にも決していえない話を京平レフェリーに打ち明けることもあった。馬場は「京平、じゃあ全日本はもういいか。かあちゃんが退くならオレも退かないといけない。オレは全日本の看板を持ったまま出て行くから、後は三沢プロレスでも小橋プロレスでも立ち上げたらいいかもしれないな」と明かしたが、三沢は全日本の全てを自分のカラーで染め上げることは間違いないだろう。そうなれば象徴と祭り上げられても馬場も居場所がなくなっていく、そうされるなら全日本プロレスの看板だけは自分の財産だから持って去るから、後は自分らの看板を掲げてやっていけばいいと考えていたのだが、自分の目の黒いうちは全日本を分裂させない、二人の調整役になっていくことも考えていた。
しかし三沢からの提案をどこからか聴こえたのか、元子夫人に伝わることになり、怒った元子夫人は馬場の世話を京平レフェリーに任せて「98世界最強タッグ決定リーグ戦」の巡業から一時離れた。自分も11月の大阪大会を観戦した際に、これまで馬場に付き添っていた元子夫人の姿が見えないことでおかしいと思っていたが、そういう事情を抱えていたことを知らなかった。しばらくして元子夫人が巡業に合流したが、馬場が体調不良を訴えて欠場し、最終戦の武道館には復帰したものの、数日後に入院となり、99年1月31日に死去する。馬場の死は元子夫人の意向で周囲に公にせず密葬にしたが、病院関係者から馬場の死がマスコミに伝わってしまい、馬場の死が公表された。
4月16日の日本武道館にてファン葬が催され、5月1日の東京ドーム大会興行で「引退試合」が行われた後で、全日本は三沢光晴社長、川田利明副社長による新体制が発足したが、株式などは全て元子夫人が握っていたこともあり、実質上は雇われ社長に過ぎず、全日本を自分のカラーに染め上げようとしても、馬場が遺した全日本の行く末を心配するだけでなく馬場カラーを消そうとする三沢に対して元子夫人が反発するなど、調整役だった馬場の死を契機に二人の亀裂は埋め難いものになってなっていた。

そういう状況の中で日本テレビが三沢に近づきつつあった。日本テレビは旗揚げから「プロレスは正力松太郎さん(初代社長)の遺産)」として旗揚げから全日本プロレスをバックアップしてきたが、昭和56年に全日本が経営危機に晒されたことがきっかけに、日本テレビが経営に介入し、馬場を強制引退させジャンボ鶴田への世代交代を図ったことで、馬場と日本テレビの間で亀裂が生じ始めていた。90年代になると日本テレビも「プロレスは正力松太郎さんの遺産」 と考える人も少なくなり、広告費を産み出さない「全日本プロレス中継」をお荷物と扱いだして、30分枠に降格させて打ち切りを視野に入れるも、馬場と日本テレビの間には「馬場が生きている間は全日本プロレス中継は打ち切らない」と取り決めがされており、馬場が生きている間は簡単には打ち切ることが出来なかった。
全日本中継は深夜の30分枠でもまずまずの視聴率を稼ぎ、三冠戦など武道館のビックマッチでは45分枠で放送されることもあった。スタッフもいずれは60分枠を復活させたいと考えて、馬場夫妻に他団体との交流やビッグマッチに欠かせない『一本花道』を馬場に提案したが、馬場は日本テレビの介入と受け止めて「経費がかかる」「他団体との交流は選手が望んでいない」として拒否したが、全日本の取締役の一人だった百田義浩、光雄兄弟を通じて三沢は日本テレビ側とも接触して真剣に話を聴いたことで、百田兄弟を窓口にして日本テレビとの間も次第に親密になっていった。
当初は1年が経過したら元子夫人は株を譲渡すると約束したが、1年経過しても、元子夫人は馬場カラーを消そうとする三沢にまだ株を渡せないと判断したのか、株の譲渡は先送りにされ、鶴田も死去したこともきっかけになったことで、もう待てないと判断した三沢は自分の側近となりつつあった仲田龍と独立へ動き出す。仲田氏も馬場の側近で、当初は三沢と元子夫人の関係をなんとか取り持とうとしたが、元子夫人から三沢側の人間になったとみなされ、仲田氏も三沢と行動を共にする決心を固めていた。三沢の当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものとするはずだったが、小橋も田上も三沢に同調したため追随することを決意したことで次第にその話が広まっていく。
三沢と仲田氏の独立への動きは京平レフェリーも察知していたが、三沢の気持ちをわかっていた京平レフェリーは敢えて元子夫人には報告することはなく、京平レフェリーは三沢と二人きりで話した際に「オマエの好きなようにやれよ、オマエの行動をオレは悪いとは思っていない、でもオレは元子派なんだよ、オレの耳に入ることは逐一元子さんに報告しなきゃいけないんだよ、だから頼むからオレの見えないところで動いてくれ」と話した。三沢も京平レフェリーもNOAHに入れたかったのではと思う、しかし京平レフェリーは馬場から生前元子夫人の世話をすることを仏壇で誓ってしまったこともあり、元子夫人に追随する決意を固めていた、その際に三沢は「分かりました、元子さんをよろしくお願いします」と頭を下げたという。
だが三沢が独立するという話は元子夫人にも伝わると、元子夫人は三沢を社長から解任することを決めるが、三沢も全日本を退団することを決意、6月13日奇しくも後に三沢が亡くなる日に役員会が開かれた。実は元子夫人はこの場で三沢たちに自分の持ち株を三沢の言い値で買い取ってもらい退こうとしていた。元子夫人にしても三沢が全日本から馬場を消そうとするなら、自分は馬場と一緒に全日本を出て行くと考えたのかもしれない。ところが役員会議が行われた場所は全日本の事務所ではなく日本テレビの法律事務所で、三沢だけでなく取締役となっていた百田兄弟、田上明、小橋建太と共に一方的に辞表を提出して去り、それをきっかけに全日本からは選手やスタッフなどが次々と三沢に追随して退団また退社し、日本テレビもここぞとばかり「全日本プロレス中継」を終了させ放送を打ち切ったが、三沢らの退団劇に日本テレビが深く関わっていたことは明白だった。
16日に三沢は全日本を退団して新団体設立を発表、ディファ有明を拠点として「プロレスリングNOAH」が設立された。三沢は全日本では否定された試合内容は全日本時代とは変わらずも大型のセットやライトアップ、一本花道など華やかな演出を実現させ、選手らと契約の際には全日本では実現できなかった年俸制を導入、 休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップを実現させるが、 三沢の想定外以上に選手がやスタッフの数が集まり、このときはまだ日本テレビの正式なバックアップも受けていなかったこともあって、三沢はいきなり資金繰りに苦しみ、 自分の保険を解約し、自宅を担保に入れ、選手やスタッフの給料にあてたことでなんとかカバーしたものの、三沢は旗揚げを早急にせざる得なくなっていく、おそらく三沢も当初の構想通りだったら旗揚げまでの期間は自身のオーバーホールにもあてたかったと思う。
旗揚げ戦は8月5、6日のディファ有明での2連戦に決定、旗揚げにあたって三沢はこれまで出演しなかったバラエディ番組にも出演、日本テレビだけでなく他局であるフジテレビの「笑っていいとも!」にも出演してPRに務め、その甲斐があって、三沢らへの期待感から2連戦ともチケットは完売、チケットを買えなかった人に対応するためには外に巨大スクリーンを設置して対応するなど配慮されたが、TV中継はこのときはまだ日本テレビ上層部がNOAHを中継することにGOサインを出していなかったこともあって、旗揚げ2連戦はCSのFIGHTING TV SAMURAIが独占放送した。
旗揚げ戦は超満員札止めと、メインに登場した三沢は田上と組んで小橋&秋山と3本勝負で対戦、1本目は秋山が三沢をフロントネックロックで2分で下し、2本目も田上をエクスプロイダーで3カウントを奪い、旗揚げ戦で敗戦も、試合後も秋山が小橋に襲い掛かりフロントネックロックで絞めあげるなど、秋山が団体の中心になることをアピール、新時代の到来を予感させた旗揚げ戦は大成功となり、順調な滑り出しとなったが、それと同時に三沢は新たなる戦いを強いられることになるとは、三沢自身も知る由もなかった。

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