プロレスリングNOAH旗揚げ①全ては三沢革命から始まった

1998年5月1日に全日本プロレス初の東京ドーム大会が開催され、メインでは三沢光晴の保持する三冠統一ヘビー級王座に川田利明が挑戦、川田がパワーボムで三沢を降し三冠王座を奪取となり、全日本初のドーム大会は大成功に終わったが、全てはここから始まった。

ドーム大会を終えた三沢は「98スーパーパワーシリーズ」を全休する。三沢は「98チャンピオンカーニバル」中にジョニー・エースのメキシカンエースクラッシャーを受けた際に左足膝蓋骨を骨折、それでもドーム大会を控えていたこともあって休むことが出来ず、満身創痍のまま「98チャンピオンカーニバル」を優勝してドーム大会に臨んでいた。

 93年から四天王プロレス路線が始まり、三沢だけでなく川田、田上、小橋を中心に激しい戦いが繰り広げたが、疲弊が見られるようになっていた。「97チャンピオンカーニバル」では三沢、川田、小橋が同点のまま全公式戦を終えたことで三巴による優勝決定戦となり、三沢vs小橋、三沢vs川田、小橋vs川田の順に行われて川田が優勝となるも、川田が優勝を果たすも、当時の全日本は旗揚げから年俸制ではなく、1試合いくらの試合給制で、三つ巴戦も1人で2試合を行ったのにも関わらず、一つ試合と扱われて、試合級も1試合分と換算されてしまった。全日本も選手らのギャラに関しては決して悪くないものを与えていたが、次第に「もっと貰ってもいいのでは」と不満を抱き始め、秋山準が「年俸制にすべきでは」と側近だった和田京平レフェリーを通して馬場に進言したことがあったが、馬場は「今の状況だと会社が回っていかないといわれてしまった。給料制だと月々の固定費が決まってしまって経営が難しいそうだ。」とすまなそうに返答し、京平レフェリーを通じて選手らに告げられるも、それでも選手らは納得しなかった。

 全日本は旗揚げから元子夫人が経理を担当していた。元子夫人は学生時代に父から譲り受けたガソリンスタンドを経営したこともあり、前の日には残りの決算し、帳簿のつけ方をチェックするなど会社経営の仕方を把握しており、馬場も経営が疎いほうだったので、経理全般を元子夫人に任せていたが、当時のプロレス界はドンブリ勘定の経営がまかり通っており、ドンブリ勘定体質に浸かっていた選手やスタッフらと、経理にしっかりしている元子夫人との対立は絶えなかった。また全日本は「ファンこそスポンサー」と謳いながらも、日本テレビから来る放映権料が主な収入源で、興行だけでは全日本をまわせていけなかった。

シリーズを全休した三沢は他の選手らが巡業中にも関わらず、毎日のように全日本の事務所に訪れてスタッフとコミュニケーションを取り、スタッフは馬場夫妻には言えなかったことを全て三沢に話してしまい、スタッフから「ミスターB」などの関連会社の経理が不透明であるであることを知らされた。全日本は馬場とジャンボ鶴田が共同経営して道場や寮を管理する「BJ」、馬場のギャラの管理をする「ミスターB」、グッズなどを管理する「ジャイアントサービス」が関連会社があり、馬場は自分の買い物は全日本ではなく「ミスターB」で領収書を切って自分のギャラで支払っており、接待でしか全日本プロレス名義の領収書を切ったことがなかった。このことは京平レフェリーが三沢に説明したが、スタッフの一人が武道館の売り上げを馬場が持って帰ってネコババしたと伝える人間もおり、京平レフェリーは「土曜日は銀行が開いてないから、社長が元子さんに預けるほうが安心だから自宅の金庫で預かった」と説明するも、三沢も待遇の不満も重なって納得するわけがなく、次第に馬場夫妻に対する不信感を強めていった。

 2シリーズを全休した三沢は「98サマーアクションシリーズⅡ」から復帰したが、カンバックに合わせて馬場に対してマッチメイクの委譲を迫り、馬場も了承した。全日本はドーム大会が終わった後は観客動員が落ち、これまで超満員となっていた武道館も満員止まりに終わるなど、ドームロス状態に陥っており、日本テレビの「全日本プロレス中継」も30分枠は変わらず、制作費の削減でテレビ収録の興行にも関わらず、専用の照明も設置されていないなど、全日本は全ての面で下降線を辿ろうとしていたことで、三沢は新しい考えが必要と考えた。

早速三沢は行動を起こし、まずこれまでGETととしてタッグを組んでいた小橋とエースが仲間割れが起き、三沢も秋山とのタッグを解消して、小橋と秋山が組んでバーニングを結成した。三沢は現行でのマッチメイクは限界と感じており、自身が一歩引いて小橋と秋山を前面に押し出しそうとしていたが四天王時代からなかった仲間割れは馬場の考えを否定するものだった。

また三沢自身は世界ジュニアヘビー級王者だった小川良成とタッグを結成した。これも三沢が他団体のジュニアを見て、全日本のジュニアが扱いが悪いと考えており、小川もジュニアでありながらヘビー級でも通用する力量があるのにもかかわらず、身体が小さいからと評価されていないことを受けて、三沢が自身のパートナーに抜擢された。小川は三沢からタッグ要請をされた時は「まさか俺が」と驚いたという。三沢は小川とのチーム名を「アンタッチャブル」と命名したが、それは”俺たちに触るな”と意味するものだった。

馬場も最初こそ三沢は1~2シリーズで投げ出すだろうと思った。マッチメーカーは言わば現場責任者、組んだカード次第では割りを食う選手が出てくる、そういった選手にも配慮しなければならず、時には嫌われ役にもならなければいけない気を使う役割なことから三沢がやりとおせるわけがないと考えていたからだった。そのためこれまで現場責任者だった渕正信を引き継ぎがてら三沢を補佐させていたが、三沢は”渕の補佐はもういらない”としてマッチメイクを自身で独占してしまった。

 これまでの全日本のマッチメイクは渕だけでなく、馬場監修という形でリングアナだった仲田龍、週刊プロレスの全日本番記者だった市瀬英俊氏が組み、市瀬氏はマッチメークをしても、特ダネとして1度も記事にしなかったことで、信頼を置いていたが、ある日三沢が、京平レフェリーに「カードは誰か作ってんの?」と聞き、京平レフェリーは「社長だよ」と答えていたが、三沢は「嘘だよ。ターザン(ターザン山本)じゃないの?」と疑念を抱いていた。

 この頃の週刊プロレスは山本隆司氏が退陣、市瀬氏も週刊プロレスを退社してフリーライターとなっていたが、マッチメイクに関わり続けていた。この時代のプロレス団体はマスコミもアドバイザーとして深く関わることは当たり前であったが、おそらくだが三沢も山本氏が馬場から礼金を貰っている話を聞いて、外部に任せて礼金を払うより、自分らでマッチメイクすれば礼金など払わずに済むと考えたのかもしれない。三沢がマッチメイクを独占することで、市瀬氏もお役御免となり、これを契機に外部アドバイザーは全て締めだされ、マスコミとは一定の距離を取るようになる。

 10月31日の日本武道館で三沢は小橋に渡っていた三冠王座を奪還に成功、大会を終えた三沢は馬場と二人きりで話し合い、三沢はあることを要求したが、馬場が絶対飲めないものであった。(続く)

(参考資料 市瀬英俊著「夜の虹を架ける」GスピリッツVol.48 「馬場夫妻と全日本プロレス」)

コメントは受け付けていません。

WordPress.com でサイトを作成

ページ先頭へ ↑

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。