第2回IWGPの裏で開催された、日本初のイリミネーションマッチ!


 1984年6月14日、新日本プロレス蔵前国技館大会で行われた「第2回IWGP」と同日、後楽園ホールでは全日本プロレス「84グランドチャンピオンカーニバルⅡ」最終戦が行われ、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス軍とタイガー・ジェット・シン&上田馬之助率いるシン軍団の間で、日本初のイリミネーションマッチが行われた。

全日本は前年から総当りリーグ戦形式で行われていた「チャンピオンカーニバル」を封印、通常のシリーズとして「グランドチャンピオンカーニバル」をⅠ・Ⅱ・Ⅲと三つに分けて開催されており、この頃の全日本は鶴田がAWA世界ヘビー級王座から転落したばかりで、前シリーズでは馬場がスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディの合体パイルドライバーを受けた際に首を痛め、現役生活初の負傷欠場となり、それを受けてジャンボ鶴田との師弟コンビで保持していたインターナショナルタッグ王座を返上、鶴田は天龍源一郎を新パートナーにして、鶴龍コンビを結成させてインタータッグ王座を狙わせるなど、ブッカー佐藤昭雄の主導で馬場から鶴龍時代へと移り変わろうとしていた。

シリーズ全体のメイン外国人はフル参戦のシンと上田だったが、シリーズの前半戦にはNWA世界ヘビー級王座になったばかりのケリー・フォン・エリック、そして前王者のリック・フレアー、元王者のハーリー・レイス、後半戦にはビル・ロビンソン、ザ・グレート・カブキが特別参戦し、また当時全日本所属でプエルトリコやカナダマットで活躍していたプリンス・トンガの凱旋という豪華な布陣を揃えた。

 ケリーは5月6日、地元テキサス州ダラスでフレアーを破り、NWA世界ヘビー級王座を奪取したばかりだったが、全日本が当時のNWAのトップ3を揃えたのは同時期に新日本で開催されていた「第2回IWGP」への対抗意識の現れだったのかもしれない。

一方のシリーズ全体のトップ外国人選手である、シンは昭和56年に新日本から全日本に移籍するも、ブロディと後から移籍したスタン・ハンセンの台頭などもあり、新日本で活躍してきた頃の勢いは薄れ、それと共に全日本におけるシンの扱いも悪くなっていった。

レイスは開幕戦から参戦していたが、ケリーとフレアーが参戦するまでは脇にまわって、全日本軍vsシン軍団の抗争が中心となり、シンと上田は20日の後楽園大会では空位となっていたインターナショナルタッグ王座を巡ってジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビと王座決定戦を行って無効試合となって、決着は持ち越しで王座は空位のままに終わってしまったものの、鶴龍コンビ相手に存在感を発揮し、自分らこそシリーズの主役だとアピールしていた。だが22日の田園コロシアム大会からNWA王者のケリーと前王者のフレアーが参戦すると、二人は一転して脇に回されてしまう。

田園コロシアム大会では鶴田がケリーのNWA王座に挑戦セミではノンタイトルながらフレアーとレイスの一騎打ちがダブルメインとして組まれ、シン&上田は馬場&天龍と対戦、扱いはセミだったが事実上のアンダーカード扱い、決着も両軍リングアウトで大きなインパクトを残せなかった。
ケリーvs鶴田は三本勝負で行われ、鶴田にAWA王座に次いでNWA王座も奪取という大きな期待がかかるも、1-1のイーブンの後での3本目で両者リングアウトで鶴田は王座奪取ならなかったが、自分もテレビで視聴していたがケリーでは荷が重いのではという印象を受けていたが、それはNWAやフレアーもケリーは王者としての器ではないと充分わかっており、三日後の5月25日の横須賀大会ではフレアーが挑戦して2-1で王座を奪還に成功、フレアーは25日の船橋でレイスの挑戦を受け1-1の引き分けで防衛した後、フレアーとケリーは25日をもって帰国するが、シリーズ前半の主役はケリー、フレアー、レイスの3人に持っていかれた形となってしまった。本来の主役であるシンも王座奪還したばかりのフレアーに挑戦を迫ったが、フレアーは「いつでも」と返答するだけで終わり、シンや上田も自身のアピールに苦心していた。

31日にレイスも帰国し、入れ替わりにロビンソンとカブキが参戦、カブキを助っ人に加えた全日本軍vsシン軍団の抗争、鶴田の保持するインターナショナルヘビー級王座へロビンソンが挑戦という二本立てが後半戦の軸となり、上田は顔に『天』を黒い文字を入れたテングというペンティングレスラーに変身してカブキと抗争を繰り広げるだけでなく、天龍の保持するUNヘビー級王座にも挑戦するなど存在感をアピール、ロビンソンもいきなり来日初戦の前哨戦のタッグマッチでワンハンドバックブリーカーで鶴田から直接フォールを奪い、大きなインパクトを残す。

6・8川崎では鶴龍コンビvsシン&上田のインタータック王座決定戦の再戦が行われ、両軍反則で決着つかずで新王者組誕生は持ち越しとなった。6・13大阪で鶴田はインターヘビー王座をかけてロビンソンと対戦し、鶴田は空中胴締め落としで3カウントを奪い王座を防衛、その翌日の14日、全日本軍vsシン軍団の4vs4のイリミネーションマッチが行われた。全日本軍は馬場、鶴田、天龍に加えカブキではなくトンガを抜擢、凱旋したトンガだったが大きなインパクトを残せておらず、全日本側にしてもラストチャンスのつもりで抜擢したのかもしれない、シン軍団はシン、上田、鶴見、バス・タイラーの布陣で臨んだが、日本初のイリミネーションマッチはさほど注目されなかった。理由は同日に新日本が第二回IWGPの優勝決定戦が行われていただけでなく、ノーテレビだったからだった。

 試合は鶴田がバックドロップでタイラーを下して先制するが、すぐさまシンがコブラクローでトンガを降してイーブン、天龍が延髄斬りからDDTで鶴見を破るが、すぐさま上田が凶器攻撃で天龍から3カウントを奪い一進一退の攻防となる。
 シンの凶器攻撃が上田に誤爆すると、馬場が上田に16文キックを炸裂させて3カウントを奪い上田が退場、最後は鶴田が残ったシンと場外乱闘となって両者リングアウトとなり(この時はオーバー・ザ・トップロープルールは採用されていなかった)馬場が一人残って全日本軍が勝利となったが、凶器攻撃の誤爆を受けてシンと上田が仲間割れを起こし、シン&上田の極悪タッグが空中分解となるも、これも第2回IWGPの影響で大きな話題とならず、その後インタータッグ王座は鶴龍コンビとブロディ&ワンマン・ギャングとの間で王座決定戦が行われ、鶴龍が勝ち新王者となった。

上田はこのシリーズをもって全日本から去った、理由はわからないが、シンと同じく全日本へ移ったものの、シンの扱いが次第に悪くなっていったこともあって、上田自身も全日本に見切りをつけたのかもしれない。シンは上田と別れた後も全日本に参戦し続け、アブドーラ・ザ・ブッチャーとも組んだが上田以上のパートナーは見つからず、シンも1990年5月を最後に全日本からフェードアウトしていった。

シリーズが終わって1週間後、マット界に激震が起こり、馬場が新日本プロレス興行の大塚直樹氏と業務提携を結んだことを発表する。これが影響したのかブッカーだった佐藤は降板を決意、理由は全日本再建への道筋は作ったとしているが、「これ以上ブッカーを務めれば馬場さんと揉めることになる」と考えた上での降板だった。

上田は昭和60年に選手大量離脱で揺れる新日本プロレスに参戦、翌年に行われた新日本vsUWFのイリミネーションマッチでは、前田日明のキックを受け止めた上田がそのまま場外へと引きずり込み、両者オーバー・ザ・トップロープの場外心中という大活躍をした。新日本創立30周年記念興行でシン&上田の極悪タッグが復活し、北米タッグ王座をかけて抗争を繰り広げた坂口征二&ストロング小林とエキシビジョンで対戦、エキシビジョンを無視した暴れっぷりを見せて健在ぶりアピールするも、メジャーには返り咲くことは泣くNOWやIWA JAPANなどインディーで時には組み、時には敵対するなどして活躍を続けた。

1996年6月、上田が交通事故で頚椎損傷の重傷を負い、 胸下不随で車椅子の生活を余儀なくされたため1998年に引退、その後妻の実家である大分に住み、シンが来日したときは上田を訪ね見舞っていたが、2011年12月に誤嚥が原因で死去、シンは上田の死を聞くとショックを受け泣いたという「ウエダサンとは本当にたくさんの思い出がある。彼は偉大なファイターでありウォリアーだった。それと同時にリングを降りれば本当の紳士で、彼のような人というのはめったにいない。本当に素晴らしい人間だ。 ウエダサンは本物のプロフェッショナルで、ヒールとして他のレスラーと食事をしたり行動をするようなことをしなかった。だから朝起きるといつも私を起こしに来てくれて、朝食を一緒に摂って、それから昼食も夕食もいつも彼と一緒だった。我々はいつも一緒に行動していた。インドと日本、生まれた場所は違うけど本当の兄弟のように付き合い、同じ時を過ごした。我々は世界一のヒールタッグだったし、上田さんとの友情は40年に渡って続いてきた。それは今までも、そしてこれからもずっと変わらないものなんだ 」と語ったが、シンと上田は新日本プロレス時代からタッグを組んでいた仲だったが、何度も組んでいくうちにチームとして絆を深めるだけでなく、国籍や人種も違えど兄弟以上の関係を築き上げていった。そういった意味ではシンと上田も一時代を築いた名タッグだった。

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