ドームプロレス30周年、全てはペレストロイカ、レッドブル軍団から始まった!

1989年4月24日、新日本プロレスが初の東京ドーム大会「98格闘衛星・闘強導夢」を開催した。

 全てのきっかけは新日本プロレスが台湾遠征をした際に、アントニオ猪木が現地の新聞記者から 「ソ連の選手は結構プロレスが好きみたい」 と聴かされたことから始まった。

1986年、当時のソ連(ロシア)の書記長であるミハイル・ゴルバチョフによってペレストロイカ(改革)が掲げられ、ソ連は共産主義から、民主主義社会への転換し始めた影響で、プロという概念がなかったスポーツもプロ化が推進され、ソスポーツ選手は次々とプロに転向して、西側(資本主義)に進出、サッカーやアイススケートの分野で成功を収めたことで、次に着目したのは格闘技だった。

 早速猪木はこの話に飛びついた。 当時の新日本プロレスが1987年12月27日に起きた暴動事件で両国国技館から無期限の貸し出し禁止を通達され、テレビ朝日で放送されていた「ワールドプロレスリング」も4月にゴールデンタイムから、土曜日夕方4時という不定期放送の枠に降格、また前田日明が旗揚げした第2次UWF、ライバル団体である全日本プロレスの天龍源一郎の天龍革命人気に押されていた。新日本は藤波辰巳が飛龍革命を提唱していたIWGPヘビー級王座の藤波辰己を中心に据えていたが、人気回復には至らず、猪木も物足りなさを感じていた。そこで猪木が起死回生を狙って、ソ連のペレストロイカに乗って、「ソ連のアマレス五輪メダリスト達をプロレスラー にして、新日本のリングに上げる」という壮大な計画を思いついたのだ。

 猪木は政財界の様々なパイプを使ってソ連と接触、1988年に密使としてマサ斎藤と取締役だった倍賞鉄夫を送り込んだ。 モスクワに飛んだ二人は国家スポーツ委員会の幹部と会談、台湾で得た情報が事実であり、格闘技へ進出したいうという意向を知らされると、倍賞氏は猪木に「何も言わないですぐ来てください」と打診、猪木もモスクワへ飛び、猪木流の定義でプロレスとは何たるかを、スポーツ委員会の幹部や選手らに説明した。

猪木流プロレス定義「四つの柱」

一.受け身は己を守るだけではない。優れた受け身の技術はかけられた技をより美しく見せられる。

二.攻撃は見る者に力強さと勇気を与える。攻撃した相手にケガをさせないのもまたプロの技術だ。

三.プロレスの持つ最大の魅力は、人間が本来持っている怒り、苦しみという感情を直接、人に訴えることができることである。

四.人とは、漢字では二つの棒が支え合っているという意味だ。感動的な試合、激しい試合はレスラー

 猪木のプロレス論にスポーツ委員会の幹部だけでなく選手らも感銘を受け、猪木は自らの技術と技を披露、最後はウォッカの飲みあいをして信用を勝ち取り、国家体育スポーツ局 交流の正式文書に調印、提携を結び、これでソ連のレスラーが新日本のリングに上がることが決定した。

 調印を終えた猪木は新日本に向けて打電し「1月3日、東京ドームで開催する」と打電した。なぜ会場として東京ドームが選ばれたのか、ソ連がスポーツ選手のプロ化を推進し、選手を西側へ輸出していた狙いは、経済を立て直すための外貨を必要としており、契約段階で莫大な契約金やファイトマネーを要求したからだった。
両国国技館や武道館では採算が取れない、もっとスケールの大きい会場が必要と考えて選ばれたのは東京ドームだった。東京ドームは1988年にオープンしプロ野球をメインに様々なイベントも開催していたが、格闘技はマイク・タイソンのプロボクシング統一世界ヘビー級タイトルマッチが行われただけで、プロレスは全日本だけでなくUWFすら進出していなかった。

 帰国した猪木は会議の席上で東京ドーム進出を訴えるが、興行が落ち込んでいる現状で武道館より大きい東京ドームへの進出に難色を示し、反対する意見が多く、特に新日本の主導権を握っていたテレビ朝日は猛反対していた。だが猪木は苦しい現状こそチャンスに生かすべきと訴えただけでなく「プロレスファンだけだとドームは埋まらない、というのは、環状線の内側にいる既存のプロレスファンしか見えていないからだ。その輪を広げれば、外側にいくらでも観客はいる。それを引き込むのはどうやるかを考えろ」と現在で言う環状線の論理で幹部や社員達を説得して反対意見を押し切り、ドーム開催が正式決定となった。

 当初は日ソの対抗戦をメインとされ、ソ連からはモントリオール・モスクワオリンピックでレスリングフリースタイル超重量級2連覇のソスラン・アンディエフを筆頭にアマレスや柔道、サンボのトップクラスが新日本に乗り込んでくるとされ、ソ連から参戦するレスラーはアーノルド・シュワルツネッガーの主演映画「レッドブル」のタイトルから取ってレッドブル軍団と名づけられた。

 ところが日ソ対抗戦にアメリカで外国人選手を新日本にブッキングしていたブラット・レイガンズが割って入り、ビックバン・ベイダーやクラッシャー・バンバン・ビカロ、バス・ソイヤーの常連外国人勢を加えた日米ソの三国による対抗戦に発展する。レイガンズも元々レスリング出身で、モスクワオリンピックでは金メダルが有力とされていたが、アメリカをはじめとする当時の西側諸国の集団ボイコットで出場は出来なかった経緯があることから、猪木と同じくソ連から来るレスラーに興味を持ったのかもしれない。

 ところが猪木の希望していた1月3日はコンサートの開催が既に決まっていたことからドームは抑えることが出来ず、2月に開催するとされたが、ソ連側との交渉の遅れたこともあって結局プロ野球がスケジュールが入っていなかった4月23日に開催されることになった。2月11日にテレビ朝日のスタジオで日ソ協定調印式が行われ、2月22日には貸し出し禁止もようやく解禁された両国大会前に4月24日に東京ドーム「格闘衛星★闘強導夢」の開催を発表、両国大会当日にはレッドブル軍団を代表してサルマン・ハシミコフ、ビクトル・ザンギエフ、ウラジミール・ベルコビッチが登場し、馳浩やヒロ斎藤、松田納(エル・サムライ)相手にエキシビジョンを敢行、最後にハシミコフとザンギエフが対戦したが、お披露目にも係わらずファンの反応は鈍く、インパクトに欠けてしまい、復活した国技館興行も満員は招待客が大半だったせいもあって、客足も悪かった。”国技館で満員が精一杯なのに、キャパが大きいドームは一杯になるのか”、周囲は不安を募らせた。

 両国大会の不振を受けて坂口征二は、会長だった辻井博と共に全日本プロレスのジャイアント馬場に接触、また人を介してUWFとも接触して、新日本&全日本&UWFの連合軍を編成する意向を示した。しかしUWFは5月4日に大阪球場でのビックマッチも控えていたため断り、馬場も「ウチに正式な話が来る前に、マスコミで話題になるのはどう考えても納得いかない」と不信感を露わにする。実は1月5日の東京スポーツ制定「プロレス大賞授賞式」の席上で猪木が「レッドブル軍団の力は凄い、とてもウチの戦力では抗しきれないから、全日本やUWFの力を借りたい」と発言したことで、馬場が「どうしてプロがアマチュアに圧倒されたるするはずがあるんだ!いくらアマレスの実力者だと言ってもプロの力に及ぶわけがないだろう」と怒り、2月17日に天龍源一郎がNWAにWCWに遠征した際にロスサンゼルスで猪木と密会した写真を東スポにスクープされ、一方的に『猪木、天龍、4・24東京ドームで激突」と報じられたことで、新日本に警戒心を抱いていたのだ。坂口は天龍がダメでもせめてジャンボ鶴田と谷津嘉章を参戦して欲しいと要請したが、馬場は即座に断った。

1989年4月24日 新日本プロレス 「格闘衛星☆闘強導夢」東京ドーム 53800人

<第1試合 ヤング闘強導夢杯トーナメント決勝戦 30分1本勝負>
○佐野直喜(10分43秒 エビ固め)×ヒロ斉藤

<第2試合 IWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメント1回戦 30分1本勝負>
○ビッグバン ベイダー(5分52秒 体固め)×蝶野正洋

<第3試合 IWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメント1回戦 30分1本勝負>
○藤波辰爾(4分51秒 三角絞め)×ミハイル ベルコビッチ

<第4試合 IWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメント1回戦 30分1本勝負>
○ビクトル・ザンギエフ(3分56秒 ジャーマンスープレックスホールド)×バズ・ソイヤー

<第5試合 IWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメント1回戦 30分1本勝負>
○橋本真也(3分41秒 首固め)×長州力

<第6試合 マーシャルアーツ日米決戦 2分5ラウンド>
△ベニー・ユキーデ(時間切れ引き分け)△飛鳥信也

<第7試合 IWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメント準決勝30分1本勝負>
○ビッグバン ベイダー(14分37秒 体固め)×藤波辰爾

<第8試合 IWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメント準決勝30分1本勝負>
○橋本真也(7分28秒 足4の字固め)×ビクトル・ザンギエフ

<第9試合 日ソ スペシャルシングルマッチ 30分1本勝負>
○ワッハ エブロエフ(5分28秒 飛びつき逆十字固め)×マサ斎藤

<第10試合 IWGPヘビー級王座決定&闘強導夢杯トーナメント決勝戦 60分1本勝負>
○ビッグバンベイダー(9分47秒 体固め)×橋本真也
※ラリアット
※ベイダーが第4代IWGPヘビー級王者に

<第11試合 スペシャルタッグマッチ 30分1本勝負
ジョージ高野 ○スーパーストロングマシン(17分10秒 魔神風車固め)越中詩郎 ×馳浩

<第12試合 スペシャルシングルマッチ 30分1本勝負>
○獣神ライガー(9分55秒 ライガー式バックドロップホールド)×小林邦昭

<第13試合 米ソ スペシャルシングルマッチ 30分1本勝負>
○サルマン ハシミコフ(2分26秒 片エビ固め)×クラッシャー バンバン ビガロ
※水車落とし

<第14試合 日ソ異種格闘技戦 3分10ラウンド>
○ショータ チョチョシビリ(5R 1分20秒 KO)×アントニオ猪木

 24日に新日本初のドーム大会が開催されたが、ここまで順調に来たわけではなかった。2月22日の両国で長州に敗れた猪木は自ら第1試合へ自ら降格するだけでなく、猪木が最も期待をかけていた船木優治(船木誠勝)と鈴木実(鈴木みのる)、猪木が最も信頼を置いていた弟子の一人である藤原喜明が契約を更新せずUWFへ移籍、おそらく猪木もこの3人をvsレッドブル軍団に投入することも視野に入れていたと思う。またレッドブル軍団のリーダー格で猪木との対戦を予定されていたアンディオエフが交通事故で来日不能になり、猪木の相手にはミュンヘンオリンピックで柔道の金メダリストとなったショータ・チョチシビリへと変更した。

 だがフタを開けてみると53800人の大観衆が集まった。カードも猪木の異種格闘技戦だけでなく、マーシャルアーツの試合、そして永井豪原作のアニメでテレビ朝日でも放送されていた獣神ライガーのデビュー、日米ソ三カ国トーナメントの開催など、14試合がラインナップされたが、三カ国トーナメントに開催に向けて藤波がIWGPヘビー級王座を返上したことで、自身が提唱した飛龍革命は事実上頓挫してしまった。

 三カ国トーナメントではザンギエフがソイヤーと好勝負を展開すれば、海外武者修行から一時帰国した橋本が長州を降す番狂わせも起きた。勢いに乗った橋本は準決勝でザンギエフを破り決勝に進出したが、決勝の相手は1回戦で蝶野、準決勝で藤波を破ったベイダーで、橋本はベイダー相手に真っ向勝負を挑んだが、ベイダーのラリアットの連発の前に敗れ惜敗、だがトーナメントを通じて最も弾けたのは橋本で飛躍のきっかけを掴んだ。


 セミファイナルではアンディオエフに代わって事実上レッドブル軍団のリーダーとなったハシミコフはビガロと対戦し、2分でビガロを水車落としで降し、速攻での勝利だったこともあって大きなインパクトを残す。

 そしてメインの猪木vsチョチョシビリは、四角いリングからロープを外された円形のリングへと代わった。試合は猪木が左腕を負傷するハプニングが起き、猪木は右腕だけで戦うことを余儀なくされる。それでも5Rを戦い抜いたがチョチョシビリの裏投げの連発の前に沈みKO負け、猪木は異種格闘技戦で初黒星を喫したが、社運をかけた東京ドーム大会が大成功に終わった。

 新日本プロレスの大成功を受けて、11月にはUWFも東京ドームに進出、90年代に入ると新日本だけでなく、SWS、藤原組、全日本女子プロレス、全日本プロレスまでもドーム興行に進出したが、この頃になると福岡、大阪、名古屋、札幌とドームが完成し、新日本プロレスはドームの全国ツアーを開催した。
 
 5月25日に「’89格闘衛星 in 大阪城ホール」も開催され、ハシミコフはベイダーを破りIWGP王座を奪取、猪木はチョチョシビリと再戦して裏十字固めで破りリベンジを果たしたが、ドームで猪木が敗れというインパクトが大きすぎたせいか、猪木のリベンジは大きなインパクトを残すことが出来なかった。だが猪木はこの試合を最後に一線を退き、政界へ進出する。

 IWGP王座を奪取したハシミコフだったが、 7月12日の大阪で長州に敗れて王座から転落し短期政権に終わったことをきっかけに、レッドブル軍団はキャリアの浅さを露呈、メッキが剥がれたかのように輝きが薄れ始めていった。この頃には長州が現場監督に就任したが、ドームでは大きなインパクトを残したものの、尻すぼみになっていくレッドブル軍団は不要と考え始めたのかもしれない。

 12月31日にはモスクワ初のプロレス興行も開催、猪木も出場してチョチョシビリと組み、レイガンズとレッドブル軍団にプロレスを指南した斎藤と対戦、チョチョシビリが裏投げでレイガンズを降したが、1月シリーズでは遂にレッドブル軍団は外され、2月11日の東京ドーム大会で行われたハシミコフvsスティーブ・ウイリアムス戦を最後にレッドブル軍団は新日本から去り、新日本と係わったのは12月に開催されたWCW「スターゲート」でムタや斎藤も参戦した。ハシミコフとザンギエフは1993年7月にUWFインターナショナルに参戦、レッドブル軍団はモスクワなどでプロレス興行を継続したと聞かされているが、その後の消息を聞くことはなかったものの、東京新聞Webにて

ザンギエフが公の場に登場した記事が掲載された、現在はプロレスからは引退しているものの、アマチュアレスリングの指導をしており、ザンギエフは 「プロレスは決して『ショー』ではない。すごくハードな仕事だった」と当時を振り返っていた。1991年にソ連が崩壊、ロシアに変わると前田日明のリングスからヴォルグ・ハン、エメリヤーエンコ・ヒョードルが輩出され、その後も日本だけでなく全世界にロシアの格闘家が進出していった。

 新日本はドーム興行を継続、1992年1月4日に東京ドーム興行が開催されたことをきっかけに毎年1月4日に開催することが恒例となっていた。しかし暗黒時代になりプロレス人気が下火になると、ドームで興行を打つのは新日本とNOAHだけとなるも、NOAHは2年で撤退、新日本も経営が悪化するなかでドーム興行の開催すら危ぶまれ撤退するのではと言われたが、猪木の後を引き継いだユークスがドーム興行を継続、ブシロード体制に代わってもドーム興行は継続され、2020年には1月4、5日と2連戦を開催することになった。

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