天龍源一郎とディック・スレーターの命運を分けた1981年

 1980年3月28日、埼玉・熊谷市民体育館から「第8回チャンピオンカーニバル」が開幕した。この頃の全日本プロレスは観客動員に苦しんでおり、日本テレビで放送していた「全日本プロレス中継」も苦戦して土曜夜8時から夕方5時半への降格が決定していたが、実はプロ野球シーズンに入ると読売ジャイアンツのナイター中継が最優先で放送され、プロレス中継は深夜枠に追いやられることから安定した視聴率を稼げなかったことでの措置で、生中継ではないというデメリットはあるものの、夕方5時半ならナイター中継に左右されず、視聴率が稼げると考えての移行だった。

 「第8回チャンピオンカーニバル」もテコ入れされ、これまでジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、アブドーラ・ザ・ブッチャーによる3強中心の優勝争いがマンネリ化していたことから、1977年の「世界オープンタッグ選手権」からブッチャーと抗争を繰り広げていたテリー・ファンクを参戦させ、馬場率いる全日本軍&テリー率いるテリー軍団vsブッチャー率いるブッチャー軍団の軍団抗争をリーグ戦に盛り込んだがテリー軍団の一員にいたのはディック・スレーターだった。

<第8回の出場選手>ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、グレート小鹿、大熊元司、ロッキー羽田、アブドーラ・ザ・ブッチャー、レイ・キャンディ、ミステリアス・アサシン、カール・ファジー、テリー・ファンク、ディック・スレーター、テッド・デビアス 

 スレーターは1977年8月13日にNWAの総本山であるセントルイスで元NWA世界ヘビー級王者だったジャック・ブリスコを下してミズーリ・ヘビー級王座を奪取しており、セントルイスと地元であるフロリダを往復するなど売れっ子のトップスターだったが、フロリダでテリーと知り合ってから全日本プロレスに参戦するようになり”テリーの弟分”として売り出されていた。また同じ頃にはアメリカ武者修行中だった天龍源一郎もフロリダマットに登場していたものの、小さな会場でしか試合が組まれないドサ周りにまわされ、食うことが精一杯の生活を送っていた。

 話は戻って「第8回チャンピオンカーニバル」は大好評で連日超満員を記録、優勝争いも軍団抗争も絡んで星のつぶしあいになるも、スレーターは鶴田、リングアウトながらも馬場を破り、テリーを差し置いて優勝決定戦に進出、優勝決定戦は鶴田との再戦となりジャーマンスープレックスホールドの前に敗れたが、この時点でスレーターは兄貴分だったテリーと同格のポジションに並び、またアメリカでもスレーターを次期NWA世界ヘビー級王者に推すプロモーターも多く、リック・フレアーより先にハーリー・レイスを破ってNWA世界ヘビー級王者になることは間違いないと言われていた。

 しかし1981年2月6日、テリーやタリー・プランチャードと一緒にテキサス州サンアントニオから翌日の会場への移動中にタリー・プランチャードが運転していた車がスリップして横転、同乗していたテリーは左腕の亜脱臼の重傷を負うが、一番重傷だったのはスレーターで後部座席で寝ていて無防備になったところで首を負傷、診断でムチ打ちとされ、スレーターは外傷が少ないことから10日後に復帰したが、平衡感覚を失ったことで吐き気が止まらず、歩行中に転倒することが目立つようになっていく。

 スレーターは3月に再入院し、参戦が予定されていた27日から開幕する全日本プロレスの「81チャンピオンカーニバル」には間に合わせようとしたが、キャンセルを余儀なくされ、退院して7月の「サマーアクションシリーズ」には参戦しビル・ロビンソンと組んで馬場&鶴田の保持するインタータッグ王座への挑戦が決まっていたが、後遺症の影響で吐き気は止まらず、試合が出来る状態ではなくなったため途中帰国、スレーターの代役に抜擢されたのは天龍だった。

 天龍は1981年にノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、デューイ・ロバートソン&ジョージ・ウェルズを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を奪取しており、アメリカマットでやっていける自信をつけていたが、その矢先に馬場から帰国命令が下って日本に帰国、馬場はNo.3格だったタイガー戸口が新日本に引き抜かれたことで、天龍をNo.3の座に据えようとしていたが、天龍はアメリカでやっていく自信をつけていたこともあって、馬場の期待に反して思うような活躍をすることはせず、「サマーアクションシリーズ」が終わったら再び渡米してテキサス州ダラスのリングに上がることになっていた。

 代役に抜擢された天龍は「どうせアメリカへ帰るんだから」と開き直り、アメリカでは使ってはいたものの、新日本プロレスのアントニオ猪木に遠慮して使わなかった延髄斬りや卍固めも披露して一気に覚醒し、試合には敗れて王座奪取はならなかったものの、この試合で大きなインパクトを残すことに成功、飛躍のきっかけを掴んだ。馬場は天龍を日本に引き止め、天龍も全日本でNo3の座を掴み取った。

 アメリカへ戻ったスレーターは交通事故をきっかけに次期NWA世界ヘビー級王者の座から一気に転げ落ち、単なる中堅レスラーへと格下げされ、全日本には何度も参戦したが、昭和59年7月25日の福岡スポーツセンター大会ではUNヘビー級王座を奪取していた天龍に挑戦したが敗れてしまい、かつての輝きを取り戻すことは出来なかった。

 天龍が全日本マットだけでなく日本を代表するトップレスラーに登り詰めた頃である1996年にスレーターは引退、健康状態は良好ではなくOB会すら顔を出さなくなり、2003年12月27日には、交際相手の女性にナイフで傷を負わせたとして逮捕され、1年間の自宅軟禁と2年間の保護観察処分の判決を受け、背骨の痛みを抑えるために服用していた薬物(モルヒネとオキシコンチン)から抜け出せなくなって、コソ泥も含めて軽犯罪に染めるようになり、何度も逮捕されたが、2005年のシャーロットで開催されたNWAレジェンドショーにはスレーターは久々に公の場に姿を現し、テリーだけでなくドリー・ファンク・ジュニア、スタン・ハンセン、ジャック・ブリスコとも再会、旧交を温めあったという。

2018年10月18日にスレーターは死去、死因は心不全だったという。交通事故がなければスレーターはフレアーより先にNWA世界ヘビー級王者になっていたことには間違いないだろうが、天龍はどうなっていたのだろうか?スレーターの交通事故は間違いなくプロレス界に大きく影響した出来事だった。

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