世界最強タッグリーグ戦事件史①キッド&スミス、全日本に電撃移籍!


 1984年11月14日、新日本プロレスの「第5回MSGタッグリーグ戦」にエントリーする予定だったダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスが全日本プロレスの「1984世界最強タッグ決定リーグ戦」に電撃参戦することが発表された。 

当時の新日本プロレスは長州力、アニマル浜口、キラー・カーン、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団が離脱するだけでなく、永源遥、栗栖正伸ら中堅・若手が大量に離脱するなど大揺れとなっていた矢先に新日本のジュニアのトップだったキッドとスミスの全日本への電撃移籍は新日本を大きく震撼させた。

キッドとスミスの移籍を仕掛けたのは、当時カルガリーのブッカーを務めていたミスター・ヒトこと安達勝治氏で、キッドとスミスはカルガリーの「スタンピート・レスリング」を主戦場にしていた。ところが1984年7~8月にかけてキッドとスミスが新日本に遠征している間に、「スタンピート・レスリング」のボスだったスチュ・ハートがビンス・マクマホンのWWFに「スタンピート・レスリング」を売却、WWFが参入したことによって安達氏も失職してしまい、また新日本から武者修行に来る若手達の面倒を見ていたこともあって、新日本に経費を要求していたが、新日本は要求した金額の4分の1程度しか経費を払わず、同じ外国人ブッカーで安達氏とは犬猿の関係だったジョー大剛氏が新日本の北米支部長に就任したことで、安達氏は怒り新日本を敵に回すことを決意、ちょうどそのときにキッド&スミスが安達氏に相談を持ちかけてきた。

 キッド&スミスはスチュの命令でWWFに上がったものの、WWFが初めてカルガリーで興行を行った際には地元で人気のあるキッド&スミスを含めたカルガリー勢が前座として扱われたことで大きな不満を持っていた。キッド&スミスは安達にWWFと提携している新日本には上がらず、NWAと通じている全日本に参戦したいと持ちかける。キッド&スミスは全日本で活躍すればNWAからオファーがかかりアメリカで試合が出来ると計算していたのだ。 

 安達氏から話を持ちかけられた馬場はキッド&スミスを受け入れた。この頃の馬場はNWAの副会長に就任しており、NWA各テリトリーに侵攻し、選手を引き抜くWWFのやり方に懸念を抱いていた。そこで馬場はWWFに引き抜かれても起用方に不満を抱いているレスラーを全日本に参戦させ、全日本を経由してNWA系の各エリアに帰すことを計画、その第1弾がキッド&スミスだった。会見同日、前代未聞の事態に新日本の副社長だった坂口征二が馬場の下へ訪れ会談するも、馬場は「キッド&スミスとスチュとの契約は信頼関係だけで、正式な契約書は交わしていない、だからWWFとも正式な契約は交わしていない」として、坂口の抗議も受け入れず、今度はビンス自身が緊急来日して馬場と会談、内容は明かされず表敬訪問だけとされたが、馬場も小さい頃のビンスを知っており、ビンス相手にも一歩も譲らない態度を示したことから、二人が全日本参戦後もWWFのリングに上がっていたことを考えると、全日本とWWFの間でキッド&スミスを1年間共有することで折り合いがついたということなのか、結果的にはキッド&スミスを取られた新日本だけか泣きを見ることになったが、馬場にしてもキッド&スミスが全日本に参戦している間にNWAでの受け入れ先を探し、一刻も早く橋渡ししたかったのかもしれない。  

キッド&スミスはそのまま「1984世界最強タッグ決定リーグ戦」に参戦したが、二人はテレビ朝日との契約が残っていたのもあって二人の公式戦は日本テレビで放送されることはなく、優勝することも出来なかったが、公式戦ではジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビと時間切れ引き分けとなるなど健闘、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの超獣コンビ、ハーリー・レイス&ニック・ボックウインクルの元世界王者コンビ、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスと対戦するなど大きな成果を得てカルガリーへと戻り、スチュにこれからは全日本に上がりNWAに上がることを報告、スチュは2人のブッキング料を新日本から受け取る契約を結んでおり、二人が全日本に移籍したことで受け取れなくなったとキッドに怒ったが、2人に黙ってブッキング料を受け取っていたことで、キッドが怒って逆にスチュをやり込めてしまい、スチュも二人の行動を黙認するしかなかった。  

 これでキッド&スミスは全日本に晴れて参戦したが、NWAには参戦することは出来なかった。この頃のアメリカマットはWWFの全米侵攻でNWA・AWAの各テリトリーは崩壊しており、2人が受け入れる先はノースカロライナのジム・クロケット・プロモーションしかなかったが、2人を高額で受け入れる余裕もなかった。またこの頃からNWAもクロケットの専横が始まっており、馬場との対立が生じ始めていたことから、馬場の計画した”人返し策”は頓挫してしまう。

 馬場だけでなくキッド&スミスは結局目論みは外れ、2人は全日本とWWFを主戦場にせざる得なかったが、全日本も長州力らジャパンプロレス勢が参戦したことで選手が飽和状態となり、活躍の場は与えられず、1985年にWWFと正式に契約、「ブリティッシュ・ブルドックス」としてタッグ戦線で活躍した。

 ところが、キッドが1986年12月の試合中に椎間板に重傷を負ってしまい、この負傷はキッドのレスラー人生に大きな影響を及ぼしてしまう。1988年にキッドはスミスと共にWWFを離脱、カルガリーへ戻り、ブッカーとして「スタンピートレスリング」を復活させた、日本でも全日本に参戦するが、負傷の影響でキッドに衰えが目立つとスミスとの力関係が逆転、スミスはキッドを見限ってWWFへ戻ってしまう。キッドはジョニー・スミスをパートナーに抜擢してブルドックスは継続させるも、1991年12月に引退、1993年7月にみちのくプロレスに参戦したが、それ以降キッドの消息は聴くこともなくなった。

(参考資料、日本プロレス事件史Vol.8)

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