全日本プロレスの全米進出・・・「IWF」構想とは?

週刊プロレス誌上で木谷高明オーナーが新日本プロレスの全米進出プランを明らかにしたが、現在はネット全盛の時代で新日本の試合も海外で見られ、また海外の試合も見られるようになったことから、つくづく時代が変わったと痛感させられる。  

1980年代には新日本プロレスが全米進出を考える前にジャイアント馬場体制の全日本プロレスが全米進出を計画したことがあった。

1987年11月、ジャイアント馬場がIWF構想を掲げ全米進出計画を発表した。アメリカなど海外に頻繁に遠征していた馬場さんだったが、この頃になるとWWFやWCWの侵略によってテリトリー制度が崩壊し、NWA側の大物プロモーターだった馬場さんのWCWのトップでありNWA会長でもあったジム・クロケットJrとの間に亀裂が生じ始めていた。

馬場のプランはWWFやWCWによって崩壊寸前のテリトリーをIWF中心にまとめ、世界王者を認定して第三勢力を作り上げ、また全日本プロレスと契約している選手をIWFのテリトリーに派遣するという計画であり、元NWA会長だったボブ・ガイゲルやAWAのバーン・ガニアも協力する姿勢を見せていた。ガイゲルもこの頃にはNWAから離れてWWAなる団体を旗揚げしていたがWWFやWCWに太刀打ちできる力はなく、AWAも選手が次々と離れていたことで崩壊寸前にまで追いやられていた。

翌年の88年から馬場は計画推進のため動き出し各プロモーターに働きかけるも快い返事はもらえず、AWAにいたっては新日本プロレスとの提携を結んでしまったこともあって計画から手を引いてしまった。

それでも馬場はハワイにてAUP(オール・ジャパン・イン・USA)と名前を変えてプレ旗揚げ戦を全日本の所属していた選手や参戦、またフリーを中心とした選手を集めて開催、89年の1月にガイゲルの協力もあってガイゲルのお膝元であるカンザスにて旗揚げ興行を開催し、全日本プロレスからもジャンボ鶴田、谷津嘉章、天龍源一郎、タイガーマスク、スタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスを投入したが、寒波襲来もあって不入りに終わり、この大会を契機にIWF構想は頓挫した。

馬場が計画したのは昔のテリトリー制度の復活であり、全日本プロレスそのものをアメリカに持ち込む計画ではなかった、馬場さんとてアメリカマット界の流れを変えるまでには至らなかった。

その後全日本プロレスはNWAからも脱退して日本国内重視に方針を変えていったが、馬場なりのアメリカマットへと決別だったのか、1998年にWWFが全日本に急接近し馬場も自ら交渉にあたろうとしたが、馬場が死去したことでWWFとの交渉も実現することはなかった・・・

(参考文献=GスピリッツVol。38=小泉悦史「ジャイアント馬場の海外行脚」より)  

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