全日本プロレスの全米進出・・・「IWF」構想とは?


1987年11月、ジャイアント馬場がIWF構想を掲げ、全日本プロレスの全米進出計画を発表した。

IWF構想とは全日本プロレスが中心となって、WWFやWCWによって崩壊寸前のテリトリーをIWF中心にまとめ、世界王者を認定して第三勢力を作り上げ、また全日本プロレスと契約している選手をIWFのテリトリーに派遣するという計画であり、元NWA会長だったボブ・ガイゲルやAWAのバーン・ガニア、ザ・ファンクスも協力する姿勢を見せていた。

アメリカでビックスターとなった馬場は1964年から日本に定着してからも、アメリカなど海外に頻繁に遠征しており、全日本プロレスを旗揚げ後もNWA会員プロモーターとなって、NWAエリアだけでなくAWAにも遠征、また選手を送り込むなどして、馬場や全日本プロレスの存在を全米に大きくアピールしてきた。

しかし1981年に入るとNWAが衰退し始め、NWAを脱退したWWFが1984年から全米侵攻を開始したことでテリトリー制が崩壊、NWAでも会長だったジム・クロケット・ジュニアがWWFに対抗してNWAのエリアを買収するなどして対抗、クロケットのプロモーションもWCWと団体名を改め、NWAもWCWの中で存続されていた。

全日本プロレスもNWAからは1986年に脱退していたが、クロケットのWCWとのパイプはまだ通じており、NWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーもクロケットプロモーションからの派遣という形で来日、馬場もWCWが例年開催しているタッグトーナメント「世界タッグ五輪」にはタイガーマスク(三沢光晴)、高木功(嵐)と組んで参加していた。

そしてクロケットから88年度の「世界タッグ五輪」の日本開催を全日本だけでなく新日本にも協力するように要請するが、馬場は断った。理由は日本で開催すれば、経費は全て日本側が持つ。また新日本とのライバル関係に付け込むことで条件の良い方と組んで漁夫の利を狙える。全日本は日本テレビ、新日本はテレビ朝日で放送していることからタダ乗りできる。全てにとってクロケットにメリットがあるからで馬場にとっては美味しくない話だったからだったが、この頃のクロケットはエリアの拡大に伴って莫大な経費がかかっことで破産寸前の状況だった。このことがきっかけに馬場とクロケットの間に亀裂が生じるが、馬場にしてみればNWAの副会長も含め業界の先輩である自分に対して、クロケットが持ってきた提案は失礼にあたると考えたのかもしれない。

そこで馬場が全日本が中心となって第3勢力であるIWFを立ち上げ、ガイゲルやガニアも協力することになった。ガイゲルもNWAから離れてWWAなる団体を旗揚げしていたが、WWFやWCWに太刀打ちできる力はなく、ガニアもAWAから選手が次々と離れていったことで崩壊寸前にまで追いやられていた。

翌年の88年から馬場は計画推進のため動き出し、ジョージア州でインディー団体SWAを旗揚げしていたクラッシャー・ブラックウェル、ガニアのAWA、フリッツ・フォン・エリックのWCCW、マイク・グラハムのFCWに働きかけるも「アメリカマット界の現状では時期尚早」と進展はしなかった。快い返事をもらえなかった理由は、WCCWは新日本と提携を始め、AWAも主戦場にしていたマサ斎藤を窓口にして新日本プロレスとの提携を結んでしまっており、計画から手を引いてしまった。NWAが存在していたころはAWAを含めて全日本寄りだったが、ガニアがマサ斎藤を信用していたこともあって新日本プロレス寄りに傾き始めていた。

それでも馬場はハワイにてAUP(オール・ジャパン・イン・USA)と名前を変えてプレ旗揚げ戦を、全日本プロレスの常連外国人でハワイ在住のカール・フォン・スタイガーの団体であるパシフィック・エリア・カンファレンス旗揚げ戦に協力する形で開催され、全日本プロレスからザ・グレート・カブキ、常連外国人からスタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、ダニー・スパイビー、ジョニー・エース、ザ・ターミネーター、この年の最強タッグに参戦が決まっているディック・スレーターとトミー・リッチ、ナスティ・ボーイズ、ブラックウェルが送り込まれ、ファンクスは大ベテランのムース・モロウスキーと、フロリダからはグラハム自身とスティーブ・カーンが参戦したが、3戦が行われたが、3戦とも観客の入りは芳しくなく成功とは言い難い結果となり、グラハムもこの大会を最後にIWE構想から手を引いてしまった。

馬場1989年に入ると新春ジャイアントシリーズを終えた馬場はジャンボ鶴田、谷津嘉章、天龍源一郎、タイガーマスクを引き連れ渡米、ガイゲルのWWAとの合同興行という形で「オールジャパン・イン・USAプロレスリング」アメリカ本土決戦第1弾をガイゲルの地元であるカンザス州カンザスシティ・メモリアルホール開催し、WWA王者だったマイク・ジョージや全日本プロレスに籍を残していた佐藤昭雄の協力もあってリック・モートン、ロバート・ギブソンのロックンロール・エクスプレス、ベテランのボビー・ジャガースが参戦するだけでなくだけでなく、アメリカ在住で全日本プロレスに籍を残していた佐藤昭雄、常連外国人のスタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスが参戦し、メインはメインはハンセン&ゴーディの保持する世界タッグ王座に鶴田&谷津の五輪コンビが挑戦、レフェリーは元NWA世界王者でカンザスではガイケルのビジネスパートナー、馬場とは昵懇の間柄だったパット・オコーナーが務め、鶴田がバックドロップで3カウントを奪い王座を奪取し、天龍もビル・アーウィンと対戦してパワーボムで完勝、大会の模様は日本テレビの「全日本プロレス中継」で放送されたが、寒波襲来もあって1000人という不入りに終わり、この大会を契機にIWF構想は頓挫し、ガイゲルもしばらくしてWWAをクローズしてプロモートから撤退した。

馬場が計画したのは昔のテリトリー制度の復活であり、全日本プロレスそのものをアメリカに持ち込む計画ではなかった、馬場とてアメリカマット界の流れを変えるまでには至らなかった。

カンザス大会を終えると、その足で天龍はWCWに遠征してロード・ウォリアーズとタッグを結成する。この頃にはクロケットはジム・バーネットの仲介でプロモーションをテッド・ターナーに売却しており、クロケットはNWA会長としてWCWに留まっていた。NWA世界ヘビー級王者だったリック・フレアーが天龍を挑戦者に指名したもので、WCWとしても長期滞在を希望するも、この頃の天龍は天龍革命によって全日本では欠かせない存在となっており、長期にわたってWCWに派遣できないとして馬場は断った。

全日本プロレスは5月にスティングが派遣されたのを最後にWCWとの関係を断ち、日本国内重視に方針を変えていったが、馬場なりのアメリカマットへと決別だったのか、1998年にWWFが全日本に急接近し馬場も自ら交渉にあたろうとしたが、馬場が死去したことでWWFとの交渉も実現することはなかった・・・

(参考文献=GスピリッツVol。38=小泉悦史「ジャイアント馬場の海外行脚」より)

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